第一話

10
「おい、待てよ」
 一番威圧感を感じさせる大きな男。
 由香は咄嗟に掴まれた手に力を入れると同時に体が強張った。
 だが、秀介の目を見れば、心配を伺う深い情の瞳が由香を捉えている。その優しい眼差しに警戒心はあっさりと消滅した。
「もう傷の方は大丈夫なのか」
 秀介が掴んだ由香の手は今朝手当てをしてくれた傷のある方だった。
 その傷を確認するように秀介は見ていた。
「あっ、その大丈夫です」
「そっか、それならよかった」
 安心したというべき、ほっとした笑みを浮かべて、秀介は手を離した。
 体が大きく、どこかぶっきらぼうなイメージがあるが、笑顔を見せれば、優しさが溢れている。
 そのギャップにどこか萌え要素を感じてしまい、由香は何も言えず、不思議そうにじっと見つめてしまった。
「おいおい、俺のことそんなに怖いのか? 化けものをみるような目はやめてくれ」
「あの、そんなつもりじゃ」
「まあいいさ、俺はどうしても皆から怖がられるタイプみたいだ。実際は気が弱いんだけどな。得をしているというのか損をしているというのか」
 その場を和ませようとする笑顔がぎこちないが、そこがまた可愛く見えるポイントだった。
 由香は秀介も魅力のある男だと感じてしまう。
 一緒に笑っていると、確かに少し柔軟な要素が大きな体から伝わってきた。
 スポーツをしているせいで硬派に思われがちながら、中身は子犬のようなあどけなさが隠されていると思うと、心くすぐられてしまう。
「なんか体育館の裏で神谷と一緒にいたら、変な噂が立ってしまうかもしれないな。俺は嬉しいけど、神谷には迷惑だろう。それじゃ俺、部活があるから行くわ。またな」
 潔く去っていかれると、由香は後を追いかけたくなってしまった。
 しかし、これだけの人にアプローチを掛けられると、一体誰を選んでいいのかわからないために、気軽に一人の男性についていくことに抵抗を感じてしまう。
 由香は楽しみながらもどこか一歩踏み込めない気弱さを持ち、まだまだこの世界がどういうものなのか、そしてどこかでいつか壊れていくという儚さを感じ、のめりこむ事ができなかった。
 色々と考えながらぼーっと道を歩いていると、子犬の鳴き声と共に「由香さーん」という叫び声が聞こえてくる。
 その声をする方向に顔を向ければ、住宅街の中、一人と一匹が走り寄ってきた。
「あっ、ヒナタ君」
「また会えました。よかった」
 息を切らしながらあどけなく笑顔を向けられると、素直に可愛いと思ってしまう。
 その足元で精一杯に尻尾を振り、ヒナタと同じようにゴンが喜んでいた。
 由香はしゃがんで子犬の頭を撫ぜると、ヒナタは満足そうにその様子を眺めていた。
「犬の散歩も大変ね」
 由香は立ち上がりヒナタに声を掛ける。
「ううん、こうやって由香さんに会えたから、散歩も楽しいです。なあ、ゴン」
 ゴンは注目を浴びて嬉しいのか、せわしなく動き回っては時折二本足で立ち上がっていた。
 由香はヒナタと肩を並べて一緒に歩き、犬の散歩に付き合う。
 ヒナタは少しかっこつけようと背伸びした態度で由香に犬の薀蓄を話していた。
「ヒナタ君って犬のことに詳しいのね」
「あっ、もしかして退屈でしたか?」
「ううん、ぜんぜん。とても面白いわ」
 由香は優しく微笑み返したが、ヒナタはどこか不安になった。
「由香さんって見た感じあどけないのに、時々大人っぽい表情をするんですね。なんだか僕、子ども扱いされてるみたい」
 実際は38歳で、ヒナタのような子供がいてもおかしくない年でもある。
 知らず知らず、不意に本当の自分の中身が外に漏れるのだろうか。
 やはり素直に18歳の無邪気な恋は無理があるような気分になってきた。
 そのせいで由香も少し戸惑った表情になってしまった。
「あっ、いえ、僕その別に由香さんを困らそうと思ったんじゃないんです。ただ、僕、本当に子供だから由香さんと同等に接することができないのが嫌で…… あのその、ごめんなさい」
「何もヒナタ君が謝ることはないわ。私はどこかそのへんの18歳の女の子と違うだけなの」
「それだけ由香さんはしっかりしてるんですよ。いろんな事をすでに経験して、そして考え方が大人になって賢くなってるんです。それってすごいことです。僕も早くそうなりたい」
「そっかな。なんだか無駄な事をしてきたかもしれない。もっと早く回りの事を考えていたら、こんなことにならなかったかも。時間の無駄使いだったのかも」
「どうしたんですか? まだまだ18歳じゃないですか。これからですよ。それにお祖母ちゃんが言ってたんですけど、後悔するなら今からどうすればいいか一生懸命考えればいいって。そこで何もしなければそのままだけど、その先はいつでも変えられるって言ってました」
「その先はいつでも変えられるか。そうだよね」
 由香は今の自分が新たなチャンスを与えられてるだけにその言葉が胸に響いていた。
「今は子供っぽいかもしれないけど、僕も、由香さんに似合うようにいい男になります」
 ヒナタはまだまだ夢を見るような男の子だった。
 それでもその素直さが可愛くて、もう一度10代の頃に戻ってもいいかと由香は微笑んでいたが、突然後ろから声が聞こえてはっとした。
「おいおい、黙って聞いてれば、なんだよそれは。ませてるな」
「あっ、兄ちゃん。なんだよ、いつから後をつけてたんだよ」
 慌てて振り返る由香に、ホマレは白い歯を見せてニカッと豪快に笑って自分をアピールする。
「たまたま見かけたから寄って来ただけだ。それよりも由香ちゃんと一緒に歩くなんて10年早いんだよ」
 そう言って、ホマレは二人の間に割り込んだ。
 納得がいかないとヒナタは頬を膨らましていたが、犬が道を外れて電信柱におしっこをかけたことで二人からテンポが遅れてしまった。
 その後も二人に追いつくが主導権をホマレに握られて由香と話にくくなっていた。
「由香ちゃんとここで会えてよかったよ。約束したけど本当に俺に会いに来てくれるだろうかって半信半疑だった」
 ホマレの言葉に、朝、車に乗せてもらい夕方会う約束した事を思い出した。
「あっ、今朝は忙しいのに色々とありがとうございました」
「そんなこと気にしなくていいよ。あれから探したい人には会えたのかい?」
「いえ、会えませんでした」
「そっか。残念だったね。でもまた俺も協力するよ。一緒に探そう」
 由香が「ありがとう」と言えば、ヒナタがその話に食いついてきた。
「何々? 由香さん、誰か探してるの? 僕も手伝う。一緒に行く」
「バカ、お前は関係ないの。犬の散歩に専念しろ」
「なんだよ、ちょっと年上だからってえらっそうに。だけど兄ちゃんの方が早く老けるんだからね。その分もう老けてるし。由香ちゃんも老けた人なんて嫌だよね」
「なんで俺が老けてるんだよ! 大人の魅力がたっぷりなんだよ。由香ちゃんも子供よりやっぱり大人だよね」
 とうとう二人は自分の意見の正当性を巡り、兄弟喧嘩を始めてしまった。
 これも二人して由香を取り合っていると思うと微笑ましい。
 しかし年の事を言い争う二人の喧嘩は、実年齢38歳の由香には、どこか素直に楽しめなかった。
 本当にこのままの恋愛を楽しむだけでいいのだろうか。
 ひたすらその疑問が頭に浮かんでくる。
 そして自分はこの先どこへ行こうとしているのか、不安という種がこの時ゆっくりと大きくなっていくような気がした。
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