第一話

12
 由香は自分の部屋で勉強机に向かいながらこの世界の事を真剣に考えては、頻繁にため息をついていた。
 どういう仕組みでこの世界は成り立っているのか。
 自分がいくら若返っていろんな恋をしたいと願ったといっても、この先どうなっていくのか。
 願いは叶っても未来の自分の生活を考えるとどうもしっくりこない。
 このままこの世界で一生暮らせると言われても、果たして自分はここに居残りたいのかもわからなくなってくる。
 そんな時ふと、残してきた現実の夫の事が頭によぎった。
 まだ本人に伝えたわけではなかったが、自分の中では離婚を決意していたものの、自分が突然いなくなって夫は何を思いどうしているのか気になってくる。
 そこに、本当の自分の父母のことも考えると、この先今まで暮らしてきた生活と年取っていく両親を忘れてでもここにいたいものだろうか。
 全ての事を捨てて、この新しい夢のような世界で新たにやり直していくのか。
 かといって、また現実に戻れば夫との問題も浮上してくる。
 離婚をして新たにやり直す選択もあるが、やはりいざそう考えると怖気ついてしまうこともある。
 あんな夫でも一応は恋に落ちた人であり、ここまで一緒に生活してきた。
 子供ができなかったのも夫婦生活が上手く行かなかった原因だったと思うと、全てが夫の責任という訳ではない。
 もう少し優しく夫の事を気遣っていたら、あの時怒ってばかりじゃなく優しくしていたら、過去の事を後悔しながら由香はなんだか悲しくなってきた。
 いくら見かけは18歳に戻れても、心はちゃっかりと38年生きてきた思い出が染み付いている。
 軽々しくインスタントに胸キュンと目の前の恋を楽しんでも、芯までその恋愛が届くかといわれれば、また違うもののように思えてきた。
 これがただのゲームならば何度も色んなシチュエーションを遊べて楽しいものなのだろう。
 しかし、生半可の結婚生活を経験している由香にはどこか本当の現実があり、今置かれているこの状況がほんの夢物語としてしかみえなくなってしまった。
 考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。
 由香は誰かに助けて欲しいと誰に相談すべきなのか考えていると、なぜか頭に浮かんだ人物はトキアだった。
 自分でもなぜトキアが気になるのかはっきりとした理由がわからないが、トキアなら力になってくれそうな気がしてきた。
 それは勘とでもいうのか、どこかで軽やかにベルがなるようにしっくりとくるのだった。

 次の日、由香は玄関で靴を履いたあと「いってきます」と声をかけた。
 ヨッシーはまた父親役を演じ、母親も自分の役割を熟知しているように、一緒に「行ってらっしゃい」と返しては二人は笑って出迎えてくれた。
 しかし、この家族が作り物と知った今、二人の笑顔が不気味に思えてくる。
 どこか不信感が募りつつ、ヨッシーがこの世界を楽しんで傍観しているようにさえ思えてきた。
 気にせずに玄関のドアをあけ外に出たとき、幼馴染の翔太が自転車に跨って門の前で待っていた。
「おはよー、由香。偶然だな。こうなると今日も送っていかないといけないな」
 学校が違う翔太には少しでも由香との接点が欲しいと無理して理由を見つけて接近してくる。
 翔太の気持ちは嬉しいが、由香は首を振った。
「翔太ありがとう。迷惑かけるわけにはいかないわ。一人で歩いていくから気にしないで」
 翔太はがっかりしたような顔を見せつつも、誤魔化すように慌てて笑みを作っていた。
「そっか、それならまた後でだ。じゃあな」
 ペダルにかけていた足に力をいれ、翔太は走って行った。
 もし、本当に翔太が幼馴染だったらどんなによかっただろうと、由香は翔太にはもうこれ以上興味を示さなかった。
 
 学校へ向かう途中でふと前を見ると、誰かが待ち合わせをしているかのように建物の壁にもたれていた。
 逆光ではっきりとした顔が見えなかったが、同じ制服を着た男の子だという事が分かる。
 由香が近づいていくと反応して体を由香に向けた。
 距離が縮まったことで、それはリッキーだと言う事がわかった。
 朝の光にも似た眩しい笑顔を由香に向けて「おはよう」とあいさつする。
 由香も「おはよう」と返すが、リッキーがそのように照れながら待ち伏せしてくれていても、なんとも感じなくなった。
「由香ちゃん、なんか元気ないみたいだけど、大丈夫かい?」
「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫大丈夫」
「それならよかった」
 それからリッキーは学校に着くまで笑わせようと楽しい話をしてくるが、由香は合わせるのがしんどいと思いながらも笑顔は絶やさなかった。
 学校の門まで来ると、次に現れたのが生徒会長の敦だった。
 門を眺めてチェックをしているようでありながら、由香の姿が目に入ると動きを止めてドギマギと緊張しだした。
「おはよう、神谷さん。いい天気ですね」
 真面目くさった工夫のない挨拶は由香の心を素通りしていった。
 それでも邪険にはできずに、丁寧に挨拶を返していた。
 リッキーは少し気分を損ねていたが、若さゆえの無謀な自信で自分が勝っていると背筋を無意識に伸ばして威嚇していた。
 リッキーの態度に構う余裕がない敦は、由香だけしか眼中になかった。
 暫く三人が門の前にいると、住吉先生がやってきた。
「おいおい、ここで固まってたらみんなの邪魔になるだろうが、さっさと教室に入れ」
 三人は言われるまま校舎に向かうが、住吉先生は由香だけを呼び止めた。
「神谷、職員室の私の机の上にプリントがあるんだ。それを取って教室に持って行ってくれないか」
 由香は振り返り戸惑っていると、住吉先生は他の生徒と相手をし出して何もいえなくなった。
 仕方がないので、そのまま歩き出した。
 「由香ちゃんは何かと住吉先生に用事を頼まれるよね。大人しいから損してるよ」とリッキーがそういえば敦は「違うよ、それだけ信頼の置ける生徒だっていうことだよ。それは誇るべきことだと思うよ」と対抗していた。
 肝心の由香はこれもまた住吉先生の企みだと思うと、二人の意見はどうでもよかった。
 先生が生徒にお熱を上げるシチュエーションもどこか新鮮さを失い、これだけしつこく接しられると興ざめしてくるようだった。
「俺もついてってやろうか」
 リッキーが手助けしようとするが、由香は首を横に振った。
「先に教室いってて。大した仕事じゃないから」
 クラスが違う敦は手伝いも提供できず、下穿きに履き替えてリッキーと一緒に消えて行った。
 職員室の前まで来るとちょうど秀介とかち合った。
「神谷じゃないか。おはよ。朝から職員室に呼ばれるなんてなんかやったのか?」
「あっ、片山君、おはよう。別に大したことないの。用事を頼まれただけで」
 上から優しく見下ろされていたが、もうそれすら何も感じなくなっては、急激に何もかも冷めて行っていた。
 笑顔で適当に交わして、職員室に入って近くにいた教師に住吉先生の机の場所を聞くと、示されたところにプリントの束が置いてあったのが目に入った。
 それをさっさと手に入れて自分の教室に向かう。
 今度は誰に会うのだろうと思いながらも、トキアを無意識に探している自分がいた。
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