第一話

14
「おいおい、こんなところで大胆な。一体どうしたんだい」
「私もわからない。私のいるべき場所は一体どこなの!?」
 追い詰められた焦りで発狂寸前に嘆く由香の態度に、トキアは眉根を寄せて息を一つ吐いた。
 自分にもたげている由香を引き離し、落ち着かせようと笑顔を見せる。
「由香、なんだかわかんないけど、大きな問題を抱えているようだね。正直に話してみろよ。そうじゃないと俺なんだかわかんないし」
「でも、絶対信じてもらえない」
「そんなことない。俺は真面目に聞くから、俺を信用してくれ。言っただろう、これからは由香のためになんでもするって」
 真剣に見つめるトキアの瞳は頼もしかった。
 二人は話せる場所を求め、近くの公園へと足を踏み入れた。
 ベンチに腰掛け由香は暫く迷いながらも、トキアは辛抱強く由香が話し出すまでじっとしていた。
 何があっても揺るがずに聞こうとして落ち着いているトキアが頼もしい。
 次第に由香も固くなっていた口元がほぐされていくように、最初はゆっくり自分の本当の年や置かれている立場を伝え、その後は勢いつけて洗いざらいことの始まりから語り出した。
 あまりにも荒唐無稽な展開にトキアがどのように感じているのか、時折不安そうに彼の表情を覗き込んでいた。
 トキアは腕を組んで「うーん」と唸っていたが、否定することもなく、できるだけ理解しようと前を小難しく見つめていた。
 由香の話を聞き終わると、少し困ったように頭をぽりぽりと掻いては言葉を探しているようだったが、最終的には全てを飲み込み、由香をみつめる。
「そっか、きっとそういうこともあるのだろう。この世の中は時空がいくつもあるとはきく。そんな中に紛れ込むこともあるのかもしれない。だけど由香が38歳で既婚、そして離婚を決意していたとは、正直驚いた」
「それじゃ、私の言った事信じてくれるのね」
「そうだな。それに俺もなんだか由香の元居た世界に、姿を変えて存在してるのかもしれないと考えたら、ちょっと興味を注がれる。何らかの繋がりがあるのかもしれないぞ」
「そうかもね。私がこんな話するんだから、どこかでリンクしていてもおかしくないね」
「由香はその…… やっぱり、旦那の下へは戻りたくないのかい?」
「分からない。やはり夫があのままでいる以上、それは躊躇ってしまうところだから」
「そっか、じゃあ、その旦那が心を入れ替えたらもう一度やり直せると思うかい?」
「そうね、簡単にそうできるのならそうなるかもしれない。でもそれは無理そう」
「俺がその旦那を殴って分からせてやりたいよ。ほんとバカだよな。でも人のこと言えない。俺も充分馬鹿だったから。そんな由香の話きいてたら、俺益々辛くなってきた。一層の事、俺をその旦那だと思って殴ってもいいぜ」
「トキアは関係ないよ」
「そうだな。つい自分の過去のしてきた事に摩り替えて由香に許して欲しいなんて願っちまった」
「私、トキアとのことは何も覚えてないの。だから許すも何も関係ないよ。トキアも私に対してはもう気を遣わなくていいよ」
「なんだか都合がよくなっちゃったな。それは有難いけど、やっぱりもう一回謝らせてもらうよ。本当にすまなかった」
「だからもういいって」
 由香は全てを語ったことですっかり気が楽になり、安心した瞳をトキアに向けた。
 二人はリラックスして軽く笑っていた。
 そして突然閃いたようにトキアが鼻を膨らまして言った。
「あっ! 俺が思うに、もしかしたら、由香は向こうの世界に戻ったとしたら、これと同じ事が起こるんじゃないだろうか」
「えっ? どういうこと?」
「だから旦那の下へ戻ると、由香がそっちで起こった過去の事を忘れて、そして旦那が俺みたいに反省して心入れ替えているとか」
「だったら嬉しいけど、そんな都合よくなるかな」
「この世界が都合よく恋愛ゲーム化されてるんだろ。そうなってもおかしくないよ」
「でもそうじゃなかったら? そこには何も変わったことが起こらなかったら私はどうしたらいいの?」
「その時は、その旦那と離婚するしかないね。だけど、もし心入れ替わってたら、もう一度やり直せばいいんじゃないかな…… あっ、ごめん。他人事みたいな言い方で。俺は男だからつい男性視点で見てしまうよ」
「ううん、そんなことない。こんな馬鹿げた話に真剣に付き合ってくれてありがとう。トキアはこの世界で一番私が頼れる人だよ」
「そこまで言ってもらえると嬉しいな」
 トキアは照れた笑いを見せていた。
 その笑顔に母性本能がくすぐられる。
 特に恥ずかしげに鼻の下を何度も擦ってる様は、ふと既視感を覚えるように親しみを感じていた。
「私、もしこの世界にずっといるなら、このままトキアと過ごしてもいいかな」
「えっ、俺と? でも俺は今まで酷い事をしてきてだな……」
「だから私が覚えてないんだから、それはもういい。それだけ何でもいい合えたんだったら私も心許してたってことでしょ」
「でもいつか思い出したときどうするんだよ」
「思い出したとしても、心を入れ替えたトキアの印象が強くてきっとどうでもよくなってると思う」
「由香。俺、その……」
 トキアはもじもじとしていると、恋愛ゲームの最終場面に相応しいように由香はトキアの頬にそっとキスをした。
 はっと電気が走ったようにトキアは飛び上がって驚いたが、それが嬉しかったのか、俯き加減にもじもじとはにかんだ笑みを浮かべていた。
 これがこの世界の由香が出した結論だった。
 由香はトキアを選び、トキアとならこのままやっていける気持ちになっていた。
「日も暮れてきたし、由香もそろそろ帰った方がいい」
「うん、そうする。そしたらまた明日学校でね」
 二人は笑顔で手を振りながら別れた。
 どちらも晴れやかな顔をしていた。
 そして由香が家に着いたとき、シルクハットを被りタキシードを着ていたヨッシーが待ってたといわんばかりに玄関で出迎えてくれた。
「どうやら、結論がでたみたいですね」
「そういう事になるんでしょうか。そうすると次はどうなるんですか?」
「どうなるといわれましても、昨日もいいましたが、由香さんがどうしたいかなんですよ。それに、あなたはトキア君を選んでしまった。彼を選んだということはもう後戻りはできませんよ。彼が由香さんのこれからの人生に最も影響を与える人だったからです」
 由香も選んだ以上、自分は間違ってないと思えた。
 トキアの容姿は出会った中で一番冴えなくとも、過去が最悪でいがみ合ってたとしても、直感もあってトキアと一緒に居た時が一番心地よかった。
「どんな影響があるのか、楽しみにしておきます。後悔はないですから」
「そうですか。それじゃこれから何が起こっても、恨みっこなしですよ」
「はい、もちろんです」
「では、私の役目はここまでとなりました」
 ヨッシーがシルクハットを脱いで、角度の奇麗なお辞儀をすると、彼はすーっと消えていった。
 そして、それと同時に辺りが靄に包まれて視界が悪くなる。
 由香はそれに驚いて咄嗟に手を出して辺りに触れようと慌て出した。
 靄は徐々に晴れてはくるが、いつの間にかそれがポツポツとした雨に変わり、視界がはっきりしてくると見慣れた紛れもない自分の家が現れた。
「えっ? ここは私の家?」
 咄嗟に自分の服装を見れば、制服ではないいつものカジュアルな格好になっている。肩にはトートバッグが掛けられ、市役所からの帰ってきた姿そのものだと気がついた。
 自分の顔を両手で押さえ込んで年を確かめ、どこかに姿を映したいと、バッグからファンデーションのコンパクトを取り出して顔を映せば、そこには38歳のやつれた顔が映っていた。
「あれ、一体これはどういうこと?」
 困惑したままその場にいると雨が容赦なく降っては段々体をぬらしていく。
 それでもその雨を避けることすら忘れ放心状態のまま突っ立っていた。
 その時、玄関のドアが開いて、中から由香の夫が出てきた。
「由香! 由香じゃないか。 一体今までどこにいってたんだ。心配したぞ」
 由香の夫は由香に駆け寄って思いっきり抱きしめていた。
「あなた、ど、どうしたの」
「どうしたもこうしたもあるか。どれだけ探しまくったことか。3日間も姿を消して、てっきり俺を見捨てて出て行ったかと思って発狂しそうになった」
 慌てふためいている夫など由香は想像し難かっただけに、意表をつかれたような顔で夫をみていた。
 夫は涙ぐみながら、殊勝な態度で小さくなっていた。
「由香、お前がいなくなって初めて気がついた。俺、 やっぱり由香なしでは生きていけない。今まで苦労させてすまなかった。これからは心を入れ替えるから、今までのことは許して欲しい。だから、どこへも行かないでくれ」
「あなた……」
 この時、由香はトキアが言っていた言葉を思い出した。
『もし心入れ替わってたら、もう一度やり直せばいいんじゃないかな……』
 なんだか由香は笑えてきた。
 自分が見てきた世界はただの布石であって、結局は現実の何かがかわるようなきっかけにすぎなかったものだと捉えていた。
 ヨッシーは回りくどく恋愛ゲームの夢を見せてくれたが、幸運の妖精で由香は本当に選らばれた人間だったってことだった。
 もう直接お礼がいえないのが残念でしかたなかったが、この機会を与えてくれたヨッシーに感謝をしつつ、そしてこの結果に導いてくれたトキアにも由香は感謝してやまなかった。
「あなた、雨に濡れてしまうわ。さあ、家の中に入りましょ。私はもうどこにも行かないから。また二人で一からやり直しましょ」
 由香は夫を抱えるように家の中へと入っていく。
 夫は素直に謝れたこと、そしてこの状況が上手く行ったことに照れくさいのか、それを誤魔化すように鼻の下を何度も擦っていた。
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