第一話 ここからお話の始まりです〜


 佐藤由香、38歳。子供なし。
 夫の度重なる借金問題。そして幾度との浮気。耐えに耐えてきたが、我慢の限界に達してとうとう離婚を決意して薄っぺらい離婚届の紙を夫に叩き突きつけようとしていた。
 その紙を手に入れ、由香は役所から自宅に戻る途中のバスに揺られていた。
 離婚届用紙が入ったトートバッグ型の鞄を抱えるように膝に置いて、バスの真ん中より少し後ろの座席に座っている。
 バスの前の方を何気に見れば、帰宅途中の高校生のカップルがつり革を持って立っているのが突然視界に入り、由香は何気に観察しだした。
 男の子は今時の若者らしく茶髪にして、白いシャツの裾も外に出し、ズボンも腰より低い位置で穿いているのか裾がだぶつく程にだらしなく着崩していた。
 女の子はスカートが短く、肩にスクールバッグを提げて、そのバッグにはジャラジャラとぬいぐるみのようなキーホルダーなどがぶら下がっていた。
 男の子の話に合わそうとして明るくケラケラと薄っぺらく笑っている。
 二人は軽い希薄な付き合いに見えた。
 それでも由香の目にはため息が出るほど、その若いカップルの楽しい恋が羨ましく映っていた。
 自分も20年前に戻って、素敵な人と心ときめくドキドキの恋を沢山してみたい。
 夫と知り合う前は少なくともまだときめく恋をしていたと思い出すと、これから離婚を突きつけようとする自分が惨めでならなくなった。
 離婚届が入った鞄を虚しく見ては、これから先の事が不安で仕方ないと一層膝の上の鞄を強く押さえつけるように抱え込んだ。

 バスを降りた時、辺りは暗く空は雲行きが怪しい。
 今にも雨が降りそうだった。梅雨だというのに傘を持ってこなかったことを後悔する。
 まだ自宅まで20分程歩かないといけない。それまでもってくれればと、少し小走りに足を動かした。
 車が激しく行き交う通りを離れ、住宅街へ続く道へと入り込む。
 そして角を曲がったとき、黒いタキシードにシルクハットを被った男がニヤニヤとして立ってる姿が目に飛び込んだ。
 妖精のヨッシーだった。
 パーティ会場ならその服もふさわしいと思うが、一般の住宅街の道路の真ん中でそんな格好をして立ってられると気味が悪く、由香は危険を感じ、くるっと踵を返して逃げようとした。
「ちょっと、ちょっと、待って下さい。佐藤由香さん」
 ヨッシーは慌てて声を掛けた。
 由香は自分の名前を呼ばれてビックリしてもう一度振り返ると、今度は背筋が寒くなるくらいドキッとした。
 由香の顔にくっ付くくらいの距離でヨッシーが微笑んでいたからだった。
「キャー」と悲鳴をあげると、ヨッシーは慌ててて、瞬間移動するかのようにパッと消えて5メートル離れたところに現れた。
「もう、何も悲鳴をあげることないでしょうに。これからお望み通りの恋愛ができるというのに失礼な」
 ぶつくさ呟くヨッシーをみて由香は震え上がっていた。
「とにかく、あなたは選ばれたんです。ほれ、自分の姿を見て下さい」
ヨッシーは由香の態度に不服とでも言いたげな様子で、シルクハットを脱ぐと、そこから手品のように姿全体を映し出せる大きな鏡をにゅーっと取り出して由香に見せた。
「ほら、ほらほらほらほら。この鏡に映ってるのはあなたですよ。あなたは20歳若返りたいと思いましたね。その通りになってます。それではどうぞお好きな恋愛をお楽しみ下さい。ここから私は関与しません」
 ヨッシーは鏡だけ残して姿をぱっと消した。
 由香は何のことか全くわからないまま、鏡に映ってるものをもっと近くで見ようと、恐る恐る足を近づける。
 そこにはブレザーの学校の制服を着たアイドルのようなかわいらしい女の子が映っていた。
 自分の顔を触ると、鏡の中の女の子も同じポーズをする。
 鏡から目を逸らし自分の着ている服を確かめると、さっきまで来ていた服ではなく、鏡に映っていたのと同じ制服を着ていた。
「嘘、まさかこれが私?」
 年を取った顔に見慣れていたので、突然自分の若い頃の姿が目の前に現れると、全く違う人のように見えた。
 肌のつやめき、ぷくっとした弾力のある頬、あどけなく見つめる瞳、見つめれば見つめるほどその姿は可愛く見えた。
 確かに若かった頃の由香はかわいいと言われていたと自分でも過去の姿を少し思い出した。
 自分の若かった頃の姿を思い出したことで、役目を果たしたようにその鏡は突然消えた。
 半信半疑のまま、何度も自分の体を確認する。
 夢を見ているのではないだろうかと辺りをキョロキョロすると、そこは突然高級住宅が建ち並ぶ見知らぬ町並みに摩り替わっていた。
「どうなってるの? さっきの怪しい人物はなんだったの? 私は一体どうなったの?」
 迷子の子猫のように辺りを不安な顔つきで歩き回ると、とうとう雨が降ってきた。
 帰るべき場所もわからず、どうしようもなくその場に突っ立ってしまう。
 雨はどんどん激しく振り出してきて、容赦なく由香の体を濡らしていった。
 それでも濡れることの不快すら忘れて、困惑しどうしだった。
 すると突然その雨が体にかからなくなった。上を見上げれば傘が覆っている。
 由香はゆっくりと後ろを振り返った。
「よぉ、由香ちゃん。傘も持たずにこんなところで何突っ立ってんだ。風邪引くぞ」
 そこには、髪を茶髪にした背の高いかっこいい男の子が立っていた。自分と同じデザインの制服を着ている。 由香を見て恥ずかしげに笑っていた。
「あなた、誰?」
「あちゃ、同じクラスなのに、それはねぇだろ。まあ由香ちゃんには相手にされてないのはわかってたけど、名前も覚えて貰ってなかったなんてショックだぜ。俺は戸上リキ。皆、俺のことリッキーって呼んでるだろ。結構名前知られてるって思ってたんだけどな」
 リッキーは傘を持ってない手で頭を掻きながら参ったぜと片目を瞑っていた。
「リッキー?」
 由香は目の前の漫画から抜け出てきた、王子様のような姿の男の子に見とれるように見上げていた。
「家まで送っていってやるよ。由香ちゃんと歩けるなんて思わなかったぜ」
「あの…… 私のこと知ってるの?」
「同じクラスのかわいい子を知らない方がおかしいじゃないか」
 由香は全く訳がわからずに、リッキーと肩を並べて一つの傘に入って歩いていく。時々チラリとリッキーの顔を見ていたが、目が合うと顔を赤くして俯いてしまう。
 ありえない状況にドキドキとしていた。
 リッキーは場を持たせようとわざと明るく振舞って、学校の先生のことや、苦手な教科について話していた。 由香は自分が夢を見ているとしか思えず、とにか くリッキーに合わしてぎこちなく笑っていた。
 でも全く何が起こってるか把握できてないというのに、この状況が嫌ではなかった。
 寧ろときめいて楽しい。
 目の前のリッキーが理想の王子様に見えた。
「さあ、ついた。由香ちゃんの家、ここだろ」
「えっ、これが私の家?」
 由香は小さく呟いたが、目はまん丸になっていた。
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