第四話

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「冗談なんて言ってないわ。何かが引っかかってるから、それを隆道さんに訊いているの」
 隆道は一向に自白しなかった。
 最後まで、面白いこじ付けだと笑っている。
「杏里ちゃんはあのシガラキっていう刑事に影響されて、話を組み合わせて作ったんだね。面白いよ。アハハハハハ」
 五年前、杏里が本当の自分の姿を見ているとは隆道は考えられなかった。
 そのため、 しらばっくれればうやむやにできると強気でいる。
 杏里はもどかしく、ここまで過去を隠そうとする隆道にどんどんと嫌悪感を抱いてしまう。
「この話はこれでおしまいだ。これ以上しつこく言うと、さすがにこの俺も名誉毀損で怒ってしまうぞ」
 冗談半分にさらりと言うも、隆道の目は笑ってなかった。
 暗闇で見た隆道の目に狂気が映る。
 杏里は急に怖くなり、慌てて「ごめんなさい」と小さく呟いた。
 隆道はそれで納得したのか、過去に杏里が惚れたあの完璧な笑顔を向けた。
「もう二度と俺を虐めるなよ。これで杏樹の言ってた事がよくわかったよ。杏里ちゃんは、少し気が強く自分勝手なんだね」
「お姉ちゃんがそう言ってたの?」
「うん、昔から杏樹の物ばかり欲しがって、横取りするって。そして後先を考えずに突っ走って、後で後悔するタイプだって」
「あっ……」
 それ以上杏里は何も言い返せなくなった。
「自分でも分かってたんだね」
 やり込めたとばかりに、隆道はほくそ笑む。
 杏里は後味悪く、悔しくて俯き加減に唇を噛んでいた。
「杏里ちゃん、本当に気をつけた方がいいよ。良く考えて行動しないと、後で自分の首を絞めてしまうよ。人を怒らしてしまったらそれでおしまいなんだから。言ってること分かる? それとも危ない目に遭わないと杏里ちゃんは気付けないタイプかな?」
 隆道は言いたい放題だった。
 嫌味たらしく、ネチネチと責めてくるその態度は、整形前からの性格そのものなのだろう。
 顔を変えて仮面を被るように隠していただけで、本来の意地悪な部分は変わっていないのかもしれない。
 暗闇で光が充分なかったせいもあるが、この時の隆道の顔は冷血で恐ろしく見え、それがいつまでも杏里の頭から離れなかった。
 以前のように隆道を見ることができず、恐怖心が植えつけられ、杏里は彼から逃げたいと思ってしまった。

 隆道と別れた後、杏里はトボトボと姉のアパートへと戻っていった。
 一体自分は何がやりたかったのか。
 隆道が、顔を変えてたところで、姉の杏樹が幸せならそれでいいのではないだろうか。
 自分も一時は、隆道に惚れて、姉から奪いたいとまで考えていたのに、真実を知ったら手のひら返し。
 しかし、偽っている隆道は得体の知れないものを感じてしまう。
 急に押し寄せる脅威に杏里は胸騒ぎを覚え、気持ちが塞ぎ込んでいく。
 隆道にベタぼれしている姉と顔を合わすのも辛く、暫く部屋のドアの前に立ち竦んでいた。
 その時、何軒か先のドアが開き、シガラキがのっそりと出てきた。
「ああ、杏里さん、こんばんは。先ほどはどうも」
 シガラキは気軽に挨拶をしながら、杏里に近づいてきた。
「あの方は帰られたんですか?」
「えっ?」
「茨木隆道さんですよ」
「あっ、はい。さっき帰って行きました」
「それにしても茨木隆道ってよくある名前なんでしょうかね。どう思われます、杏里さん」
「まあ、全く重ならないって言い切れないですからね。苗字、下の名前、どちらも一般的なものですから」
 実際そうであるけども、本当は同一人物だと杏里は伝えたい。しかし証拠もなく、安易に言えない。
 ましてや姉の恋人である。
 隆道が示唆したように、良く考えて行動しないと後で後悔するかもしれない。言わないことに越したことはなかった。
 シガラキは行き詰っているのか、懐から写真を一枚出して、それを見つめながらやるせなく呟いた。
「一体、この、茨木隆道はどこに行ってしまったのだろうか」
 シガラキが杏里にもう一度見せた時、目の前のドアが突然開き、電話を手にした姉が顔を出した。
「杏里、こんなとこで何してるのよ。早く入りなさい」
 姉に叱られた杏里を見て、シガラキは悪い事をしたと申し訳なさそうに早々と去っていった。
 杏里は咄嗟の事に放心状態になりながら、家の中に入った。
 姉は持っていた電話で誰かと話している。
「うん、今帰って来た。ドアの前でシガラキさんと立ち話していたのよ。うん、また心配掛けてごめんね。分かった。それじゃお休み」
 電話を切ると、杏樹は杏里に向かい合う。
「また隆道さんに心配させたじゃないの。それでコンビニで何を買って来たのよ」
「ガリガリ君売切れだったから、何も買わなかった」
「あんたも、しつこいほどガリガリ君にこだわるね」
 姉は呆れていた。
 その晩、杏里は寝られなかった。思い出せば思い出すほど、隆道の事が引っかかって不安になってくる。
 時計を見れば午前二時に近かった。
 辺りは静まり返り、夜は特に嫌な気持ちと不安な気持ちを倍増させた。
 あんなに憧れ、大好きな人であったのに、今ではすっかりと敵対視して恐れている。
「どうしよう、どうしよう」
 杏里の不安は大きくなるばかりで、どうしようもなく、そしてとうとう決心した。
 やっぱりこのままでは落ちつかず、姉に正直に話す覚悟を決め、隣の部屋でぐっすりと寝ている姉を揺すり起こした。
「お姉ちゃん起きて」
「ん、どうしたの、こんな夜中に起こして」
 姉は不機嫌になりながらも、ベッドから身を起こした。
「お姉ちゃん、隆道さんとは別れた方がいい」
「何を言うの突然に。いい加減にしてよ」
「違うの聞いて、隆道さんはお姉ちゃんが思っているような人じゃないの。仮面を被った悪魔よ」
「はっ? 仮面? 悪魔?」
「だから、あれは隆道さんの本当の姿じゃないの」
「杏里、何を怯えてるの? 落ち着いて話しなさい。寝ぼけてるの?」
「寝ぼけてなんかないわ。お姉ちゃん、お願い、今からきっちりと最初から説明するから……」
 その時、姉の杏樹は「しー」と人差し指を口許に当てて、顔を引き攣らせた。
 杏里はその行為に一瞬にして緊張し、口を閉じた。
 すると玄関先で微かに何かの物音がして、ドアが静かにそっと開くような気配を感じた。
 顔を青ざめた杏樹はベッドからゆっくりと起き上がり、耳を澄まし様子を伺う。
 杏里も姉に寄りそり息を飲んだ。
 確かに誰かが入り込んだ気配がする。
 恐怖で慄き、固まって動けないでいる時、その侵入者の影が部屋に入り込んできた。
 あまりの怖さに、気が動転して二人は声を上げて叫ぶ事もできなかった。
 目の前に目出し帽を被った体格のいい男が、手袋をした手でナイフを持ち、部屋の入り口に立っている姿は、現実のものとも思えないくらい信じられないものだった。
「静かにしろ、騒ぐと殺すぞ」
 声色を使ってるが、杏里にはそれが誰だかわかった。そうなる危険性もすでに予期していた。
「やめて、隆道さん」
 杏里が静かに伝える側で、杏樹は信じられないと目を見開いて目の前の隆道を見ていた。
「やっぱり、ばれていたのか。だったら話は早い。二人には仲良く死んでもらう。こうなったのも、首を突っ込んできた杏里、お前が悪いんだ」
 目出し帽を脱いで、あっさりと自分の正体を認める隆道に、杏樹は泣き出してしまった。
「一体どうしたっていうの? どうして、隆道さんがこんな事を」
 合鍵を預けるほど、信じていた最愛の人に裏切られ、その合鍵で真夜中に忍び込んで包丁を向けられていることが杏樹には信じられない。
「こうなることは最初から分かっていたわ。必ず隆道さんは持っていた合鍵で侵入し、襲いに来るだろうと思った。ただ、お姉ちゃんにはどう説明していいかわからなかっただけ」
「杏里、一体どういうことなの? どうしてこんな事に」
「お姉ちゃんが見ていた隆道さんは幻想だったの。本当の隆道さんじゃない」
「煩い、黙れ、俺の邪魔をしやがる奴は殺してやる」
 隆道は感情任せにナイフを突き出して突進してくる。
 杏里と姉の杏樹は抱き合い、目を瞑って震え上がった。
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