第四話


 ヨッシーと出会ったことで、願いが叶うかもしれない期待に胸弾ませて、杏里はアパートに戻ってきた。
 「ただいま」とドアを開ければ、奥から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 靴を脱いでその声のする方にいけば、姉の杏樹が居間で携帯電話を耳元に当てて誰かと話している。
「あっ、今戻ってきたわ。心配かけてごめんね。うん、それじゃまたね」
 電話を切ったとたん、遅く帰って来た杏里を見つめ、杏樹は姉の立場として如何にも心配した様子をぶつけてきた。
「もう、一体どこのコンビニ行ってたのよ。中々帰ってこないから隆道さんに電話かけちゃったじゃないの」
「ちょっと、寄り道してたら遅くなっちゃっただけ。そんなに心配しなくてもいいじゃない。もしかしたら私が隆道さんと浮気しているとでも思ったんでしょ」 
「そんなんじゃないわよ。前にも言ったでしょ、変な人に後をつけられたこと。それにほら隣町で起こった例の殺人事件の犯人、あれもまだ捕まってないし、コンビニだって強盗に入られる事もあるし、この辺も物騒に思えて、なんだか急に怖くなってきたのよ」
「その割には楽しそうに隆道さんと会話してたじゃない。結局は私が隆道さんと一緒じゃなかったら安心したんじゃないの?」
「ちょっとどうしたのよ。今日はやけに突っ掛かってくるじゃない。なんか気に入らないことでもあったの?」
「別にそんなんじゃない。先にお風呂に入ってくるね」
 杏里は電話で姉と隆道のいちゃつきを見せられて嫉妬心が抑えらず、姉から逃げてしまった。
 本当に隆道を奪えるのだろうか。
 ぬるめの湯船につかりながら、ヨッシーと話した事をもう一度思い出していた。

「いいですか、お姉さんから隆道さんの情報をできるだけ引き出して下さい。いつの日に過去に戻るのか、隆道さんと確実に会える場所を調べて下さい」
「何か他にも必要なものとかあります?」
「そうですね、お姉さんと隆道さんが恋に落ちるきっかけとなった、あの猫のマスコットを用意しておくといいかもしれません」
「あっそうか。あれがあったから二人は親しくなったんだっけ。それを持っていくのね」
「そうです。今度は杏里さんがそれをきっかけにして隆道さんと恋に落ちるんです」
「でも上手くいくかな」
「不安になりましたか? だったらやめてもいいんですよ」
「いえ、やります! やらせて下さい」
「それじゃ準備が整いましたらいつでもここに来て下さい。その時過去にご案内します」
 
 あれだけ力んで言った以上、後には引けないし、本当にこんなことができるのなら実行あるのみだった。
 容姿、雰囲気共によく似たものなら、杏里が先に出会っても隆道は恋に落ちる可能性は大だ。
 キーポイントはあの黒猫のマスコット。
 あれさえあればきっと上手くいく。
 杏里はやる気を奮い起こし、勢いつけて湯船に沈む。
 暫くお湯の中でじっとして、上手くいくことを祈りながら、精神統一していた。
 お風呂から上がってパジャマに着替えていると、また姉の話し声が聞こえてきた。
「また隆道さんと電話なのかな?」
 益々負けてられない闘志が湧いたが、同時にバタンと玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
 タオルで髪を拭きながら脱衣所から顔を出し、玄関を見れば杏樹が箱を手にして戸締りをしている姿が目に入った。
「どうしたの? 誰かきてたの?」
「うん、この階に引っ越してきたからって挨拶がてらに粗品もらっちゃった」
 杏樹はティッシュ箱を掲げて見せていた。
「どんな人? だけどこんな夜中に挨拶なんて非常識だね」
「相手もすごく恐縮してた。仕事が忙しくて、中々日中に来れずに仕方なかったみたい。そんなに悪い人そうじゃなかったよ。対応も丁寧だったし、なんか西郷隆盛似の人の良さそうなおじさんだった」
「ふーん。西郷さんか」
「名前は西郷さんじゃなかったけどね。なんっていってたかな。シガラキさんだったかな」
「西郷隆盛といい、その名前もなんか信楽焼きのタヌキを連想させるね」
「そういえばタヌキにも似てたかも」
 二人はくすっと笑いあっていた。
 だが、杏里の笑みはすぐに消えた。
「ねぇ、お姉ちゃん。隆道さんとはいずれ結婚するつもり? すでにこのアパートの合鍵も渡しているし、時々一緒に過ごしてるんでしょ」
 冷蔵庫から冷えたペットボトルを出し、杏里はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「やだ、結婚だなんて、まだそんな事は……」
「もちろんあるでしょ」
 強く杏里に言われると誤魔化しようがなく杏樹は正直に頷いた。
「最終的にはそうなったら嬉しい。隆道さん、年も30だし、やっぱり意識してるみたい。今すごくいい感じにお付き合いしてるわ。こうなったのも運命のような気がする」
「隆道さんはずっとこの町に住んでたの?」
「うーん、5年前はこの辺りに住んでたらしいけど、その後仕事で海外にいてやっと今年戻ってきたらしいの。戻ってきて二日後に私と出会ったって言ってた」
 さらに詳しくその時の様子も聞きだし、杏里は出会った日にちや場所を頭に叩き込んだ。
 正確な日付を聞いたものの、その過去に戻ったとして、杏樹よりも前に出会うには二日では余裕がないように思えた。
 帰国後のバタバタした数日で杏樹よりも先に出会う機会を作れるのだろうかと杏里は少し考え込んでしまった。
「ねえ、その5年前だけど、隆道さんはどこに住んでたの?」
「隣町の駅前のアクメマンションだって」
「えっ? あそこ殺人事件あったんじゃなかったっけ」
「殺人事件っていうのか、結構な量の血痕が残ってたけど死体が見つからなくて行方不明扱いになってる事件だけどね」
「めぼしい手掛かりもなく何もかも謎で、誰の血痕かも分からず、犯人も当然捕まってない。そんなところで隆道さん住んでたのか」
 五年前の事件の詳細は杏里も覚えていた。
「隆道さんも自分のマンションが騒がしくなっているのを見てすごく驚いたって言ってた。海外行きがすでに決まってたから事件後すぐに引っ越せてよかったけど、やっぱりそんな事件があったマンションって怖いよね。だけど急に隆道さんのこと訊いてきてどうしたの?」
「えっ、別に。ただ訊いてみただけ。もしかしたら隆道さん私のお義兄さんになるかもしれないしさ」
 はぐらかすためにでたとっさの言葉だったが、握っていたボトルを持つ手に力が入ってしまった。
 その勢いで蓋を開け、杏里は一気に半分ほど中身を喉に流し込んでいた。
「さて、次は私がお風呂にはいってくるかな」
 杏樹は妹から結婚をせかされていると思い、なんだか照れくさく、それを隠すように風呂場に行くが、満更悪くなく足元が軽やかに浮かれていた。
 脱衣所から、ウエディングマーチのハミングが聞こえてくる始末だった。
 杏里はつい舌打ちしてしまったが、その後すぐに口元を上げて不敵に笑った。
「その曲は悪いけど私が先に使うから」
 シャワーが勢いよく噴出す音が聞こえたとき、杏里は行動に移した。
 部屋の隅に置かれていた姉の鞄を手にして、そこにぶら下がっていたマスコットを外し、掌に包み込む。
 そして服を着替えて静かに玄関から出ていった。
 ドアを閉めそっと鍵をかけ、意気込みをつけてそこを離れると、むんむんとする暑い空気の中でも緊張してぶるっと震えた。
 これから起こることに期待して、心臓が早鐘を打ちながらエレベーターに向かって通路を歩いていると、別の部屋のドアが急に開き、思わずびっくりして軽く飛び上がった。
「あっ、どうも驚かせてすみません」
「い、いえ、こちらこそ」
 どちらも頭を下げて謝った後、顔を上げるとお互い「あっ!」と驚きを隠せなかった。
「西郷タヌキ!」
 つい杏里は思った事が口から出てしまい、咄嗟に口を押さえていた。
「あなたは佐倉杏樹さん。先ほどはどうも失礼しました」
「私は妹の杏里と申します。杏樹は姉です」
「あら、ご姉妹さんなんですか。まあ、よく似てらっしゃる」
「シガラキさんもほんと西郷隆盛に似てらっしゃる」
「えっ?」
「いえ、なんでもありません。とにかく今後ともどうぞよろしく」
「こちらこそどうぞ宜しくお願いします」
 遥かに年上のシガラキの方が丁寧に頭を下げていた。
 その後もシガラキは杏里をまじまじと見つめたまま見送り、杏里の姿が見えなくなるまでずっとその調子だった。
 シガラキのおっさん丸出しの助平な態度に憤慨しながら、エレベーターに乗り込んで下に下りた杏里だったが、これから起こることを考えるとどうでもよくなり、再び緊張し出した。
 期待に胸はずませ、エレベーターを出るや否や、一目散にヨッシーの元に走っていった。
 ヨッシーは先ほどと変わらない場所でじっと佇んで、杏里がやってくるのを静かに待っていた。
 杏里が息を弾ませてやってくると、ムクリと立ち上がり背筋をのばす。
「準備が整った様ですね。それでは覚悟は宜しいですか? 始めますよ」
 杏里は口を一文字に引き締めて、コクリと力強く頷いた。
inserted by FC2 system