第四話


 心の準備もなかった杏里は「ひぃー」と喘ぎながら、あまりの突然の事に、藁をも掴む思いでヨッシーにしがみついてしまった。
 力強くしがみつかれたヨッシーの体は強張り、身動きできずに固まってしまう。
 二人はおどおどしながら、ゆっくりと開いたドアからそろりと顔を出した男を固唾を飲んで見つめた。
 顔だけ出した男は用心して、杏里とヨッシーをじろじろと見た後、訝しげに呟いた。
「あんたたちなのか?」
「?」
 杏里もヨッシーも何の事かわからなかった。
「だから、アレだよ、アレ、引越しの手伝いをしてくれる業者というのか、契約を交わしただろ」
「あっ、そ、そうです、それです。私たちは引越しのお手伝いにやってまいりました」
 ヨッシーがいとも簡単に答えると、杏里はびっくりしてヨッシーに振り返った。
「そうか、じゃあ、上がってくれ。しかしタキシードとシルクハットで来るとはな……」
 多少戸惑いながら男が二人を招き入れると、二人もそうすることが一番いいかのように入り込んだ。
「荷造りは大体片がついた。あとは運び出して、そっちで処分してもらうだけだ」
 狭い玄関口で、二人はひしめき合うように立てば、すぐさまそこは台所とダイニングルームが広がっているのが目に入った。その奥には畳の部屋が続いている。
 すでにダンボールがあちこちに積み上げられ、部屋の中は混沌としていた。
 そこに紛れて、黒いスーツケースが台所の隅に二つ置かれていた。
 男が片付いていない箱の中を整理しているとき、杏里は小声でヨッシーを責めた。
「ちょっと、どうしてそんな嘘つくのよ」
「丁度よかったじゃないですか。これでどうどうと隆道さんと接する事ができるじゃないですか。ここは手伝って点数を上げてですね……」
「だけど、あの人隆道さんじゃないよ。顔が全然違う。隆道さんはもっと堀が深くてかっこいい人なんだけど。あの人、なんだか目つきが悪くて怖い」
「えっ、私たち、部屋間違ったんですか?」
「でも、隆道さん、仕事で海外に行ってたって言ってたから、ちょうどその準備なのは間違ってなさそう。ほら、あそこにスーツケースもあるし」
 二人がコソコソ話しているのに気がつき、男の手が止まった。
「あんたたち、ちゃんと仕事してくれるんだろうね」
「あっ、それはもちろん。ちょっと内輪もめを、いえ、打ち合わせを……」
 ヨッシーは媚びるようにヘコヘコしていた。
 目の前にいるのが隆道でないと、ここに居る意味はないので、杏里はなんだか嫌気がさしてきた。
 だけど何かが引っかかる。
 杏里は考え込みながら、まだ蓋が閉じられてないダンボールの箱を覗きこんでいた。
 そこには無造作に入れられた小物や、友達と写った写真などが入っていた。何枚かこっそり手にとって見つめ、自分の知ってる隆道がいないか確認してみる。
 しかし、自分の知ってる顔がどうしても見当たらない。
 とうとう我慢できなくて、目の前の男に直接質問してみた。
「あの、茨木隆道さんはどこですか?」
 男は手作業を止め、杏里をまじまじと見つめた。
「俺が茨木隆道だが」
「えっ、隆道さん?」
「そうだ」
「でも、顔が……」
 杏里がついそのことを言ったとたん、茨木隆道と自分で名乗った男の目つきが突然鋭くなった。
 杏里はまじまじと、その男を見つめるが、全く別人にしか見えない。
 だが一つだけ、違和感がない事が一つあることに気がついた。
「あんた達は、この仕事について説明を受けてるのか?」
「その、なんていうのか、あまり詳しくは聞いてないんですが」
 今にも怒り出しそうな雰囲気の隆道に、ヨッシーはおどおどしながら追従の態度で接した。 
「そうか、それなら仕方がない。とにかく荷物をそちらの用意したトラックに運び出して、後は適当に処分してくれ。こっちも急いでるんだ」
「はい、わかりました」
 とりあえず、ヨッシーは目の前にあった箱を一つ持ち、杏里にもそうするように催促する。
 杏里もしぶしぶと軽そうな箱を一つ持ち上げた。
 二人はその箱を持って、ドアから出て行った。
「ちょっと、こんな荷物抱えてどうするのよ」
「引越し業者と思われてるのなら、仕方がないです」
「でも本当は違うじゃないの。これどうするつもり?」
「なんとか、トラックはすぐに用意できますので、とりあえず、下におりましょう」
 何でも願いを叶えるヨッシーだからこそ、必要な道具は例えトラックであってもすぐに準備はできた。
 二人が下に下りれば、マンションの前に軽自動車のトラックがすでに用意されていた。
 そこに迷うことなく荷物を運び、二人は箱を荷台に置いた後、顔を見合わせた。
「だけど、名前は間違ってないのに、別人っていう事はたまたま引越しも重なったという同姓同名の方なんでしょうか?」
 ヨッシーが聞くと、杏里は不安そうな目を向けた。
「ううん、そうじゃないかも」
「えっ?」
「あの人は間違いなく、道隆さんだと思う。だって声が同じなんだもん。そう思ったら、体つきもそう見えてきた」
 先ほど杏里が感じた違和感がない点、それが声。顔は違えど、声だけは同じ──
「えー、それって」
「うん、多分これから整形するんだろうね。5年も海外に行くんだもん、その時顔を変えるんだと思う」
「うわぁ、なんという真実。大変なことを知ってしまいましたね」
「でもこれでよかったかも。私、すっぱり諦められる」
「やっぱり整形だと、興ざめしちゃいますか?」
「なんていうんだろう。本当の隆道さんの姿を見てしまった感じがして、なんだか感じ悪かったのがマイナス要因かな」
「でも、お姉さんはどうするんですか。このまま整形の事黙ってるんですか?」
「うーん、これは二人の問題だから、私が言っていいものか。5年後の隆道さんはとても優しくて、今のあの隆道さんとは全然違う。きっとこの5年でいいよう に変わるんだと思う。ほら、よく整形したら性格が明るくなったとかあるでしょ。そういういい部分を引き出す事もあるからさ、整形したからってどうのこうの 言えない」
 杏里は、がっくりと肩を落としそしてまた201号室に足を向けた。
 その後を、ヨッシーは複雑な思いで着いていった。
 引越し業者と間違われた以上、二人は手伝うしかなかった。
 真面目に何度も荷物を部屋から運び出す。それを数回繰り返していると、自然に体が熱くなり汗も噴出してきた。
 顔から吹き出る汗を腕で軽く拭い取り、台所の隅にあった、スーツケースに杏里が手をかけようとすると、隆道はすっと横から手を出した。
 その時、軽く隆道の手に触れてしまい、杏里はハッとした。
「これは俺が運ぶからいい」
 やはり声は隆道のままだった。でも顔を見れば全く違う。同じ隆道であるのに、何かが受け入れられなくて、杏里は悲しく見つめてしまった。
「俺の顔がどうかしたか?」
「いえ、その、別に。ちょっと疲れてしまいまして、引越しは大変ですね。アハハハ」
 誤魔化して愛想笑いをしてしまうが、一層冷や汗がでてしまい、杏里はポケットに入っていたハンカチを慌てて取り出した。
 その時、黒猫のキーホルダーも一緒に飛び出し、床に敷いていたラグの上に転がってしまったが、落としたことに気付かぬまま、取り出したハンカチで無意味に汗をふき取るのに必死になってしまった。
 隆道を気にしながら徐々に距離を取り、再び箱に手を掛け、それを持ち上げるや否や杏里は慌てて部屋から出て行った。
 隆道は一部始終を訝しげに見つめ、そして足元に転がっていた黒猫のキーフォルダーに気がついて拾い上げた。
 考え込みながら、それを暫くじっと見つめていた。
 慌てて部屋から飛び出した杏里の心は傷ついたようにざわめいていた。
 でも仕方のない事と割り切り、トラックに向かえば、そこでヨッシーがガラの悪そうな男二人に絡まれているのが目に付いた。
 ヨッシーは顔を青ざめながら、といっても元々青白い肌なので地肌なのかもしれないが、普段以上に腰を低くして怯んだ態度を相手に向けている。
「あ、杏里さん」
 ヨッシーがオロオロしているその態度から、杏里は全てが読み取れた。
 すぐ側に同じような軽トラックが停まっている。これが隆道が頼んだ正真正銘の引越し業者に違いない。
「あんたら何を勝手に動いてるんじゃ、コルぁ! これはわしらが頼まれたことじゃ。どこのもぐりの運びやじゃ」
 睨まれ、悪態をつかれるように舌をまいて迫ってくるその態度は、どこかのチンピラを思わせるくらい品がなく、そして何より怖かった。
「あの、その、これには訳がありまして」
 ヨッシーは後ろにのけぞりながら、なんとかなだめようとしていた。
「ちょっとした手違いで、私達はその……」
 杏里もなんとかしようと試みるが、実際勝手に仕事を取ったのは事実なので、その後は何も言い返せなかった。
 ちょっとした派手なやり取りの最中、隆道がトラックの様子を見にやってきたから、さらに事態は悪化してしまった。
「一体、何をやってるんだ」
「こいつらが、勝手に荷物を横取りしようとしてたんですよ」
 チンピラの一人が答えると、隆道は困惑の眼差しを杏里に向けた。
「ちょっと待ってくれ。そしたら俺が頼んだ運び屋はあんたたちの方か?」
「と、すると、あんたが茨木隆道さんかい?」
「そうだ」
 隆道のやり取りを見て、杏里は体が冷たくなるくらい青ざめていく。
 杏里が持っていた荷物を隆道は引っ手繰り、それをチンピラに渡した。
 チンピラたちはそれを合図に、ヨッシーの用意した軽トラックに入れられていた荷物を自分達のトラックへと積みなおしていった。
 その側で隆道は責める目つきを突きつけていた。
「一体どういう事か、説明してもらおうか」
「その、なんていうのか、場所を間違えたみたいで、偶然が重なってしまいました。どうもすみません」
 ヨッシーが頭を下げてなんとか乗り切ろうとするが、隆道は懐疑心が募り、特に杏里を鋭く見つめている。
「間違いにしては何かがおかしい」
 隆道はどうしても、納得ができないでいた。
 丁度その時、後ろからやつれたおばさんがやってきて、おどおどと声を掛けてきた。
「あの、この人たちは私が呼びました。場所を間違えたみたいですね」
「ええ?」
 突然の事に杏里もヨッシーも驚き、一斉にその声の主を振り返った。
 しかし、このチャンスを逃してなるものかと、ヨッシーは調子よくその女性に合わせた。
「あっ、あなたでしたか。これはどうも失礼しました。偶然が重なるってことってほんとあるんですね。いやー参った参った」
 調子のよいヨッシーを冷めた目で杏里は見つめながらも、ここは全てをヨッシーに任せるしかなかった。
「私の部屋はこちらですよ」
 女性に案内され、杏里もヨッシーも素直について行く。
 隆道は何かが引っかかりながら、それ以上何も言えずに、先ほど拾った黒猫のキーホルダーをパンツのポケットから出して強く握り締めていた。
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