第五話


「サイチ?」
「みーちゃん、ごめんね」
 僕は何もしてやれない事が悔しくて謝れば、みーちゃんは首を横に振った。
「サイチ、やさしい。猫が好き」
「えっ?」
 みーちゃんは猫を抱きしめるジェスチャーをする。
 僕が白い子猫のみーちゃんを抱きしめていたから、みーちゃんは思い出しているんだ。
「サイチ、猫、欲しい?」
 首を傾げ、みーちゃんは寂しそうに僕を見る。
 みーちゃんは何を言いたいのだろうか。僕はみーちゃんを飼ってあげたかった。でもそれができなかったから、ああやって餌を運ぶことしかできなかった。
 みーちゃんは自分を飼ってほしかったのだろうか。
「猫は大好き。みーちゃんも大好き。でも僕の家では猫が飼えないんだ」
 しょんぼりとした僕を見てみーちゃんは優しく微笑む。
「大丈夫。心配ない」
 みーちゃんは僕を諭すように気遣う目を向けた。そしてまた猫を抱く真似をする。
 猫のときだった記憶があって、抱っこしてもらった事が嬉しかったに違いない。
 僕が笑うとみーちゃんも安心して笑っていた。
 僕たちはまた歩き出す。
 途中で大きな犬とすれ違うと、みーちゃんはびっくりして僕の手を取って震えた。
 心配しないでって僕はみーちゃんを守りたかったけど、僕もその犬をみたときあまりにも大きくてびっくりしてふたりで道の端によって通り過ぎるのを待っていた。
 犬が行ってしまうと、お互い顔を見合わせて笑ってしまった。
「僕は猫の方が好きだな」
 みーちゃんに気を遣ったわけじゃないけど、正直な感想だった。
 さっきまで緊張していたみーちゃんの顔が弛緩した。照れたように見えるその表情はぎゅっと抱きしめたくなるほどかわいかった。
 ずっと歩いていると、みーちゃんの顔が温まって火照ってきたように見えた。
 ふーっと息を吐いて額に掻いた汗を拭っている様子に、僕は慌ててしまう。
 ちょうど公園の近くだったので、僕はみーちゃんを水のみ場へと連れて行った。
 水栓を捻れば上に向かって水が勢いよく吹き上がった。
 その水を手にすくって、僕は顔を洗った。冷たくて気持ちいい。
 みーちゃんはじっとそれを見ていた。
「みーちゃんもやってみる。少しは涼しくなるよ」
 僕が横にずれると、みーちゃんは恐る恐る水のみ場に近づく。片手を差し出し水に触れて、濡れた手で頬を押さえていた。
 恥ずかしいのか、はにかんだ顔を僕に向けた。
 今度は両手で水をすくい、僕をちらりと見つめたかと思うと、いたずらっぽい目を向けて僕に水をかけてきた。
「あっ、みーちゃん。何するんだよ」
 僕がびっくりすると、みーちゃんはまた同じ事をやった。
 楽しそうに僕に水をかけるから、僕はみーちゃんの思うようにさせた。
 この暑さだから水をかけられたほうが気持ちいい。
 そこで僕もリベンジだ。みーちゃんに水をかける。
 みーちゃんも喜んで、きゃっきゃと声を上げていた。
 子供じみたたわいのない遊びだけど、夏の日に投げた無数の水玉はキラキラとして僕たちの周りを飛んでいた。
 こんなかわいい子と無邪気に戯れて僕はすごく幸せを感じる。
 みーちゃんと過ごせば過ごすほど僕はみーちゃんが好きになっていく。
 このままずっとみーちゃんと一緒にいたいと欲望が強くなればなるほど、返って僕は不安になってしまう。
 こんなに上手く行き過ぎる事はやっぱり不自然に思えてくるからだ。
 だから僕の不安な気持ちが口から出てしまった。
「でもみーちゃん、また猫に戻ったらどうするの?」
 動きが急に止まった僕を見てみーちゃんは戸惑う。
 僕の疑問に、みーちゃんは眉間に皺を寄せ頭に疑問符を乗せて考え込んだ。
 みーちゃん自身どうしていいのか分からない様子だ。
 暑い日ざしが容赦なく僕たちに降り注ぎ、短い影がくっきりとして、足元で濃くなっている。
 その周りに落ちた水玉のように濡れた痕が消えていくのも時間の問題だった。
 こんなところに立っていても仕方がない。僕はみーちゃんの手をとってまた引っ張って歩きだした。
「行こうか」
 みーちゃんはすっかり僕に懐いて一緒についてくる。
 手を繋いでいるからついてくるしかないのだけれど。
 いやだったら手を振り払えばいいだけだ。そうしないのはみーちゃんも僕が気に入っているに違いない。
 独りよがりにそう思っていたとき、みーちゃんが立ち止まる。繋いでいた僕の手が引っ張られた。
「どうしたの、みーちゃん?」
 その時、公園の時計の針が12時を指していた。
「帰る」
 ぼそっと行ったみーちゃんの言葉に僕はショックを受けた。
 12時を差している時計。去ろうとしているみーちゃん。まるでシンデレラのようだ。
 やっぱりほんのひと時しか通じない魔法だったんだ。
「帰るってどこに?」
 僕が訊けば、みーちゃんは指を差してその方向を教えてくれた。
「でも、みーちゃん、帰ってどうするの? また猫に……」
 僕が訊くと、みーちゃんは考え込んで言葉を一生懸命選んでいる様子だった。
「大丈夫。猫、幸せ。大好き」
 みーちゃんは猫を抱きしめるポーズをとって、僕に微笑んでいる。
 猫でいてもみーちゃんは幸せで、それで僕の事が好きって言いたいんだ。
 なんだか僕は悲しくなってくる。
 こんなに早くみーちゃんとお別れしなければならないなんて思わなかった。
 それでも一瞬でも人間のみーちゃんと一緒に居られたことは良かった。
「サイチ、バイバイ」
 みーちゃんはあっさりと手を振って僕から離れていく。
「みーちゃん!」
 僕はどうしていいのかわからなかった。
 みーちゃんは振り返ってやっぱり僕に手を振っている。
「サイチ、またね」
 あまりにもそれはあっけなくて、僕は悲しくて仕方がなかった。
 みーちゃんが小さくなって、やがて僕の視界から消えてしまった。
 僕は暫く動けなくて、馬鹿みたいに公園でひとり突っ立っていた。
 でも我に返ったとき、僕は神社に向かって子猫のみーちゃんを探しにでかけた。
 人間の姿ではないけども、きっと神社の裏手で子猫として僕を待ってるはずだ。
 僕はもう迷わなかった。
 家族に猫アレルギーがいるけど、みーちゃんを自分の部屋で飼うことに決めた。
 それでも強く反対されたら、僕はみーちゃんを連れて田舎のおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住もう。
 僕はもうみーちゃんと離れたくなかった。
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