第二章 誰のための物語


 あまりにもリアルな夢を見たせいで、私の落ち込みは底知れない。その追い討ちをかけるように事故に巻き込まれて瀕死を彷徨った。
 暴走する車と右折してくるトラックとの狭間にいた私。本来なら死んでいてもおかしくない状況だと医者に言われた。奇跡的な状況で命は助かった。だけど全身打撲と足を骨折して今は病院のベッドの上。
 事故に遭う瞬間、時が止まったかのように全てがスローモーションだった。それとは対照的に色んな事が頭によぎっていたように思う。
 その一瞬の出来事の中で物語に入り込んでいた。それはきっと私の人生の最後かもしれないときに、壮大なわけの分からない想像が頭で巡り巡ったのだろう。
 生きているからそれを思い出せて、不思議な経験として存在している。
 名もなき博物館――この世とあの世の中間地点に属した場所としたら、ワットがバスのイットと迎えに来た時点で、私は事故に遭遇していて幻を見ていたに違いない。
 亜由美ちゃんとの問題を気にしすぎたせいもあったし、どこかで亜由美ちゃんが助けに来てくれると願った事で作られた物語だったのだろう。
 結局、亜由美ちゃんは私の事なんてどうでもよかった。私が苦しんでいる今、力になろうとも様子を見にこようとも思ってない。なんて薄情な人だ。
 亜由美ちゃんにとったらこれで疎遠できると願っているのかもしれない。
 ギプスで固定された私の右足。松葉杖をつけばなんとか歩けるけども、手で支える事が重荷だ。少し歩くだけで疲れるし、動きに制限があってトイレに行くにも大変だ。
 時々、看護師さんが車椅子に乗せて外へ連れてくれるけど、すっかり肌寒くなって、じっと座っていると震えてしまう。
 病院の周りに植えられた木々の葉っぱは赤や黄色と変わり、時折りパラパラと落ちていく。それも物悲しく目に映る。
 病院生活は楽しいものじゃない。でもここにいる限り、学校にいかなくていいのはいい口実となっている。その反面、勉強が遅れて成績は落ちていくだろうけど。
 学校には行きたくないけどテストの事は気になってしまう。
 成績が悪くなるのはどこかで避けたいと思っている自分がいた。
 四六時中何もしないでベッドにいるから、その時間を利用してひとりで勉強するしかないけど、四人の相部屋では落ち着かず、集中力もかけてしまう。
 せめて家に帰りたい。
 でも親にとったら病院に暫くいる方がいいと思っている。怪我の状態のこともあるけど、心配なのは内面の部分もあるらしい。
「ゆっくりすればいいわ。休みなさいっていわれているのかも」
 お母さんにそんな風に言われた。
 暗く落ち込んでいる私の姿に、精神的な問題も抱えていると思っている。とりあえず不自由なく元のように動けるまでは入院して様子を窺う方がいいと感じているみたいだ。仕事もあるから、私に構える時間が少ないのも原因だけど。
「誕生日までには退院できるといいわね」
 誕生日は二ヶ月近くも先のことだった。そんなに長く入院しないといけないのだろうか。その間、ベッドの上だけで過ごすのは苦痛だ。
 不快な感情の中、病院での一日一日が過ぎていった。

 昼過ぎの退屈なある日の午後。看護師さんに車椅子に乗せてもらって、憩いの場所へと連れて行ってと頼んだ。そこは病院の角にあたる場所で、壁全体がガラ ス張りになっていて外の景色が見渡せる。入院患者と家族や見舞い客が過ごせるようにテーブルと椅子が食堂のように設置され、端には畳のお座敷まであった。 でもここはレストランではない。それはまた別に最上階で経営されていた。
 ちょっとしたサービスでお茶とお水はポットに用意されて、その隣に積み重なった湯飲みも用意されている。自動販売機もあるので好きな飲み物もすぐに手に入る。気軽に飲み物を囲んで話をするにももってこいの場所だった。
 そして何よりいつも空いていて、ここで机に向かって何かをするには便利がいい。
 私は教科書とノート、そして筆記用具をテーブルに置いて部屋の一番隅で邪魔にならないように静かに勉強する。
 入院中の学生がそんな風にここを利用していても誰も文句を言う人はいなかった。寧ろ応援するように、通りがかりの看護師や見舞い客が微笑んでくれることの方が多い。
「えらいわね」
 そういう言葉をかけてくれると、少しだけ私も得意気になってしまった。実際はそんなに頭に入ってないのに。
 数学の問題なら暗記することなく問題を解くだけなので、数字とにらめっこしながら惰性でこの日も計算していた。
 でもわからない問題にぶちあたって、シャーペンを持つ私の手先が止まった。暫く考えているうちに、自然とため息が漏れていた。勉強するのをやめようか躊躇していたとき、私の手元に影が落ちた。
 顔を上げれば、見たことない青年が私の目の前で「フンフン」と言いながら私の教科書をみていた。
 私はびっくりして身を縮ますと、青年はにこっとわたしに微笑んだ。
「ごめん、ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。車椅子に乗って真剣に勉強している人がいるなって見てたら急に行き詰ったから、何の問題解いているんだろうって気になっちゃってさ、それで覗いちゃった」
「は、はぁ」
 圧倒されて、相槌を打つにもそれが正しいのかわからず変な声が漏れた。
「隣に座っていい?」
「あっ、はい」
 勢いで返事してしまった。
 遠慮なしに私の隣に腰掛け、教科書を指差してきた。
「これさ、ここをこういう風に……ちょっとそのシャーペン貸して」
 私からシャーペンを受け取ると、彼はノートに式を書き出した。
 そして丁寧に説明してくれ、そのうち私も「あっ、そうか」と扉が開いてパッと光が飛び込んできた気持ちよさを感じた。
「ねっ、そんなに難しくないでしょ」
「でも、説明がなかったら分かりませんでした。教えて下さってありがとうございます」
 問題が解けたことが嬉しくて弾んでお礼を言った。
「お役に立てて光栄です。ところで、君、名前はなんていうの?」
「松野佳奈です」
「カナちゃんか。僕は二条拓海」
 ノートに自分の名前を書き出した。右上がりの癖のある繊細さを感じるきれいな文字だった。
「よろしく」
 急に私に右手を差し出してくるから私は戸惑ってしまう。
 人の手に直接触れる握手なんて滅多にしたことない。それが男の人の手だなんて握っていいものか、わたしは恐々と自分の手を近づける。
 その直後大きな掌に私の手が飲み込まれるように握られていた。
 手のぬくもりを感じると私の心もぽっと温かくなる錯覚を覚え、同時にドキドキとしていた。
「佳奈ちゃんは足を怪我して入院してるんだね」
 私のギプスで固定された足を見て拓海さんが言った。
「ちょっと事故に遭っちゃって。えっと、二条さんはお見舞いか何かで来たんですか?」
 カジュアルなラフな格好。怪我もしてないし、具合も悪そうでもない。入院患者には見えなかった。
「まあ、そんなところ。ちょっと病院を見学していたんだ。ここは最近できたばかりできれいなところだね。窓からの見晴らしもいいし、陽光もさして明るいね」
 病院だから清潔感があってきれいではあるけども、自分のことで精一杯で拓海さんのようには感じたことはなかった。
 でもそういわれたら、ここはいい病院なのかもしれない。
私がどう返事をしていいのか躊躇している間に、拓海さんは急に謝ってきた。
「ごめんね」
「えっ、何が?」
「その、佳奈ちゃんは怪我して入院して大変なのに、病院を褒めても何も嬉しくなんてないよね。それに勉強の邪魔をしちゃったし」
「そんなことないです。いえ、その、ここはいいところだと思います。だから安心して治療に専念できますし、それに拓海さんに声をかけてもらって勉強が捗って有難いです」
 必死に弁明していた。そのせいで、二条さんから拓海さんへと呼び方が変わってしまった。
自分の名前を“ちゃん”付けで呼ばれてすでに親しみが湧いて、私は初めて会ったけど何かを期待するように彼のことを見ていた。
「よかった。勝手に声をかけたから馴れ馴れしくて嫌われたかとちょっと心配だった」
「入院中は退屈で、こうやって声を掛けてもらえて嬉しかったです。しかも分からないことまで教えてもらえるなんて、とてもラッキーです」
「僕の知ってる問題でよかったよ。解けなかったら声をかけずに去ろうと思ってたんだ」
 拓海さんは笑ってるけど、結構いい大学の現役の学生さんのようだった。
 普段学校では出会うことのない、大人びた風貌。精悍さもあってかっこよくみえる。私が声を掛けてもらえたのは、足を怪我していたのを見て同情したのかもしれない。
 病院って出会いの場でもあるのだろうか。これもまた気づかなかった病院のよさなのかもしれない。
 そうだったら、この先も拓海さんに会いたい。急に欲望が出てしまった。暗く落ち込んでいた私の感情に一気に明るく陽が差した。
「あの、よかったらえっと、その、勉強を教えてもらえますか? 私、その、学校に行けなくてかなり遅れてしまって」
「勉強を教える?」
「そ、その、も、もちろん、お金を払います。だから家庭教師として」
 きっとお母さんなら、こういうことに喜んでお金を払うはずだ。
 必死に頼み込む私の顔を見て、キョトンとしていた拓海さんだったが、その後急に笑い出した。
「いいよ、お金なんて。それより僕が役に立つ事があるのなら喜んで手伝う。こんな僕にでも必要としてくれる人がいるんだと思う方が嬉しいよ。でも時間はそんなにとれないかもしれないよ」
 あっさりと承諾してくれた。会える口実ができるだけで、それでいい。
「構いません。時間があるときに覗いて下さい。それまで自分でなんとかやって、わからないところだけ書き出しておきます」
 これなら勉強する意欲も湧く。急に入院生活が活気付いてきたようだ。
 亜由美ちゃんのことなんでどうでもいい。
 拓海さんと出会っただけで、全ての嫌な事が吹っ飛んでしまった。もしかしたら骨折もこの出会いのためにあったのかもと考えたらそんなに悪くないと思える。
 だって、今、拓海さんが私の車椅子を押して病室に連れて行ってくれている。
「重いのにすみません」
「押すだけで動くから、全然重くなんてないよ」
 拓海さんに優しくしてもらうと、ほんわかと体が温められて天にも昇るように舞い上がってしまう。
 このまま暫く一緒に居たいと思っていたら、途中から担当の看護師さんがやってきてあっさりと変わられてしまった。
「それじゃまた来るね」
 拓海さんはあっさりと去っていく。
 その後姿を見ながら看護師さんが冷やかしてきた。
「あら、今の人、彼氏? かっこいいわね」
「違います。たまたま会ったんです。それで話が弾んで……」
「そっか、佳奈さんもやるわね」
「からかわないで下さい。勉強のことを話しただけです」
 これ以上話を突っ込んでほしくないときは否定するのが難しい。話を畳み掛けようとして余計に必死になって図星になってしまうからだ。私も今の状態だと、見透かされてるみたいで落ち着きがなかった。
「でもよかった。佳奈さんが微笑んでいるところを見たの初めてかもしれない。上手くいくといいね」
 何が上手く行くといいのだろう。でも私は恥ずかしくて俯いてしまった。
 この時素直になって、看護師さんに自分の気持ちを相談できてたらもっと楽になってたように思う。でもそれができなくて、ただぎこちなく変に意識した態度になっていた。
 看護師さんはそういうのに慣れているから、私の前では気にしないそぶりを取ってくれたけど、ナースステイションで他の看護師さんたちと患者のことについて話題にするかもしれないのが嫌だった。
 自分の事が噂される。特に異性関係について面白おかしく言われるのは我慢ならないものがあった。
「あの、そんなんじゃないですから」
 必死で言えば言うほど看護師さんの思う壺にはまって笑われてしまった。
 そのうち意地を張っている自分がバカらしくて自分も笑い出した。
 笑ったの久しぶりかもしれない。不思議と心が軽くなったようだった。
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