第二章


 次の日の午前中、早速、拓海さんが病室に現れた。心の準備もなく、突然病室にやってくるから、反射的にベッドから起き上がろうとしてしまった。
 それができずにベッドの上でバタバタと魚のように跳ねてしまった。
「ごめん、びっくりさせちゃったね」
 拓海さんは私の体に触れる。その手で優しく抱きかかえるようにベッドの淵に座らせてくれた。看護師さんがやってくれるときと違って、ドキドキとして体が火照ってしまった。
「あ、ありがとうございます。いえ、その」
 まともに顔を見るのもできなかった。なんでこんなに恥ずかしいと思ってしまうのだろう。でもちらりと拓海さんを見れば、彼は素敵な笑顔で私を見ていた。またドキッと心臓が跳ね上がり、体がカッと熱くなってしまった。
「今日は昼から講義なんだ。朝のうちに顔を出しておこうって思ってね」
「そんな、忙しいときは無理をしないで下さい」
「ちょうどこっちに用事もあったから、本当に顔を見に来ただけなんだ。佳奈ちゃんだって、いつまでも入院しているわけじゃないだろう。来れるときに来ないと、ねっ!」
 まだ会ってまもないのに、すでに随分前から知っているような気になってしまう。拓海さんは人懐こくて親しみやすい。
 入院生活が続くのは辛いと思っていたけど、拓海さんにこんな風に言われたら退院するのがもっと先でいいと思ってしまう。
 私が病院にいるから拓海さんが来てくれる。大きな事故に遭い、足を骨折したからかわいそうと思って親切心が働いただけなのかもしれない。
「本当は会えて嬉しかったんです」
 素直になろう。私はすでに拓海さんの事を好きになっている。これが恋。
 私が初めて味わう感情だった。
「そうだ、これ差し入れ」
 拓海さんは私に紙袋を手渡した。
 覗けば、文庫本がいっぱい入っている。
「僕のお古で申し訳ないんだけど、よかったら貰ってくれない?」
「こんなにたくさん?」
「これだけあれば、入院中は退屈しないんじゃないかなって思って。一応、エンターテインメントに面白いのを選んできた」
 袋の中から文庫本を出し、何が入っているか見てみれば、表紙を見たことあるものや、知ってる作家の名前が目につく。
「これを全部貰うなんてできません。だったら貸してもらうってことでいいですか?」
「遠慮することないんだよ。僕は全て読んだし、いらない本なんだ」
「またいつか読みたいって思うときがあるかもしれないじゃないですか。それに本当にいらなかったら、売ってお金にしたらいいです」
「結構律儀なんだね。わかったよ。好きにしたらいい。でも入院中に全部読めるかな」
「時間がかかっても必ず全部読みます。だから退院してからでも返しにいきますから」
 そうだ、何か理由があればこの先も拓海さんに会える。これはちょうどいい。
 でもその時、少しだけ拓海さんの顔に陰りが見えたように思えた。退院後は私と関わりを持つのは嫌なのだろうか。
「そうだね。ゆっくり味わって読むといいよ。急ぐことないから」
 またいつもの笑顔を見せてくれたので私はほっとした。
「それじゃ、僕は帰るね」
「今度はいつ会えますか?」
 来られた時に慌てたくないので、私は拓海さんの予定を訊いてみた。
「それじゃ、明日の午後三時頃はどうだろう。それまで勉強で分からない部分があったらメモしておいて」
 私は断然やる気に燃えていた。恋ってこんなにも力を与えてくれるものなんだ。
 拓海さんと別れたあとは、文庫本を一冊手にとった。
 拓海さんが触れた本。つい匂いを嗅いでしまう。それと言って特別な匂いはしなかったけど、印刷と紙の微かな香りがする。どんな匂いかと聞かれたら説明できないけど、それが妙に鼻について、拓海さんの笑顔と重なると文学っぽい世界に自分が入り込んだように思えた。
 この香りは初恋の面影となって永遠に私の脳裏に刻まれる。本を読む度、その気持ちが蘇ってはあなたを思う……なんて気取ってみたり。
 キャーと発狂したくなると、本を抱きしめていた。
 読書なんてあまりしたことなかったけど、拓海さんが選んで持ってきてくれた本を試しに読み始めると興味を鷲づかみにされて止まらなくなってしまった。
 面白い本は、自分を他の世界へと連れて行く。
 ふと、自分の夢の事を思い出す。
 自分のための物語を探す博物館。それにちなんだ展示品たち。それは本当に夢だったのだろうか。何度も疑ったけれど、あれは本当に夢ということで片付けた。だって、私の卵色の傘は家にあるとお母さんから聞いたからだ。
 今思えば、面白い夢だったのかも。
 事故に遭って入院したお陰で私はもう亜由美ちゃんのことはどうでもよくなった。
 違う、そう思えるようになったのは拓海さんに出会ったからだ。
 拓海さん――。
 まだ知り合って間もないけど、名前を呼ぶだけでドキドキとしてしまう。
 ああ、私はあなたの事が……。
「キャー」
 思わず声が出た。
 近くにいた看護師さんが何事かと私のベッドに慌ててやってきた。
「大丈夫ですか」
「あっ、その」
 大丈夫ですといおうとしたけど、顔が緩んで「大丈夫じゃないです」なんて言ってしまった。
 看護師さんはビックリして、私の額に手をあて、そして脈を計る。
 きっと体温は高く、血もドクドクと早く流れてたことだろう。
 ニヤニヤしている私を看護師さんは不思議そうに見ながら、体に異常はないか形式的に確かめていた。

inserted by FC2 system