第二章
3
本を読み始めると夢中になってしまい、気がつくと夕食の準備が始まっていた。お母さんも仕事帰りにその時間に寄ってくれる。
ずっと放っておいて申し訳ないと謝ることからいつも始まる。今まではいつになったら家に戻れるのかそればかり聞いていたけど、それを訊かなくなったことに私の変化を感じたようだ。
「なんかあったの?」
側においてあった文庫本がいっぱい入った紙袋を横目にお母さんが訊いてきた。
「お見舞いで本をたくさんもらったの」
「お友達がお見舞いに来たの?」
「まあ、そんな感じかな」
まだ拓海さんの事を話してないから、ここで説明するのが面倒くさかった。
「よかったわね。誰も来ないから、お母さんはてっきりあなたが学校で虐められているのかもって心配だったのよ」
「そんなことない」
実際はそういうようなものだったのかもしれないけど、拓海さんと出会ってからの私はちょっぴり強くなれた。そんなことどうでもいい。
「今ね、会社に休暇願いを出そうかと思ってるの。佳奈が家で療養できるように私も暫く会社を休んでみようかと思って」
「えっ、そんなのいいよ」
なんでそう余計なことを。つい顔が歪んでしまう。
「どうしたの。今まで家に帰りたいってずっと言ってたのに」
なぜこう真逆のことが起こってしまうのか。
「そうなんだけど、やっぱり病院でしっかり治したほうが私にもいいかなって思うようになったの。だって看護師さんはプロなんだよ。お母さんだと何かと上手くいかないような気がする。私だって我がままになって余計に喧嘩したりとかさ」
「それもそうかもしれないけど、でも」
「いいの。病院にいたいの。余計なことしないで」
自分の思い通りにしたいがために苛立って言ってしまう。
お母さんは、訳がわからないという顔をしていたが、仕事を休まなくてもいいとわかるとすぐに気持ちを切り替えていた。結局お母さんも無理をしていた。
「佳奈がそこまでいうのなら、わかったわ。お母さんもこのまま仕事を続けて、今まで通りにこうやって様子を見に来るわ」
これで私も安心した。
「でも、佳奈の調子がいいみたいで、この調子なら予定より早く退院できるかもってお医者さんがいってたわよ」
「えっ、そんな」
「あら、なんか困ることでもあるの?」
本当なら喜ぶべきニュースだ。だけどここに居れば拓海さんがお見舞いに来てくれるから、今は少しでも長く入院していたい。
最初は嫌でたまらなくて早く家に帰りたかったけど、それができなくて、それで入院していたいと思ったときにどうして反対の状況に陥るのだろう。
いつも摩擦が起こるような展開に私は嫌になってくる。
上手く行くとその後で必ず悪い事が起こるような私の人生。
なんだか嫌な予感がしてハッピーでいられた私の気分が沈んでいく。
お母さんが家に帰った後、紙袋に入っていた文庫本を見て拓海さんの事を思う。
こんなことしてられない。悩んでいる暇があったら勉強しないと。分からないところいっぱい見つけて、拓海さんに教えてもらうんだ。
気合を入れて勉強をし始めると、これまたこんな時に限ってすらすらと理解していく。
それがいい事なのか、悪いことなのかわからなくなっていた。
その後適当に勉強を切り上げ、消灯時間まで読書をして過ごした。その次の朝、自然と早く目覚め、あともう少しで読み終わる本を読みきった。
集中して一冊の本を一気に読んだのは初めてだ。読み終わった後、また次の本を手にしていた。
午後を過ぎた頃から、私はそわそわとしだす。
約束の三時まで何度も時計を見てカウントダウンをしていた。もうすぐ拓海さんが来てくれる。楽しみで仕方がない。
拓海さんが現れたとき、飼い主が現れた犬のように喜びではちきれんばかりになった。
なんとか落ち着こうと息を整え、喜びのボリュームを少し下げて感情を抑える。
拓海さんと面と向かえば言いたいことがたくさんあるのに声が伴わない。
「調子はどう?」
拓海さんは側にあった椅子を自分に引き寄せて私のベッドの側に座った。
ドキドキしすぎて、すでにリクライニングしていたベッドの位置を意味もなく操作して間をもたせていた。
「何か分からない部分あった?」
「ええっとですね、昨日はこの辺りまでやってみました」
問題集を見せれば、拓海さんはそれを手にしてチェックする。
「へぇ、全部ちゃんとやれてるじゃないか。佳奈ちゃんは勉強ができるんだ」
「違うんです、たまたま調子よかっただけです。普段は躓いてばかりなんですけど」
「まあ、その時の気分って言うのもあるからね。きっと調子が戻ってきたんじゃないかな」
拓海さんはニコッと微笑み、問題集を私に返してきた。
恋するパワーです! なんて言ってみたかったけど、そんな勇気がなかった。
「それで、早速一冊読み終わりました」
「えっ、もう読んだの。すごいね」
そこで自分が感じたこと、面白かった部分を拓海さんに言った。でも拓海さんにはピンとこなかったようだ。
「そっか、そういう話だったね。かなり前に読んだから忘れていたよ。そういえば、僕もそんな事感じていたよ」
拓海さんはあっさりと私の意見に賛成してくれた。
同じ感じ方、お互いの意見に共感し、本のことを話すだけで時間が経っていく。
相手をしてもらえる事がとても嬉しいし、楽しい。あっという間に小一時間が過ぎてしまった。
「勉強を教えるなんてかっこつけておきながら、何もできなくてごめんね」
「そんなことないです。本のことについて話せるだけでも国語力がついた気分です」
「読書するのは問題を読む練習にもなるか。佳奈ちゃんの役に立ってるのならよかった」
拓海さんは本当に親切だった。
私のために時間を作って会いに来て、話を合わせてくれる。一緒にいてて本当に楽しいし、毎日の生活にメリハリがついて、勉強も捗っていく。
そんな生活が一週間続き、拓海さんは毎日私の病室へと通ってくれた。
私が明るくなり、勉強や読書にも熱を入れてる姿を見ていた看護師さんは、その様子をお母さんにも報告していた。
当然、拓海さんのことも話してしまった。今のところ直接ふたりは会ってないが、お母さんは遠慮がちに拓海さんの事を探ろうとしてくるから困り者だった。
私が元気になった原因がそこにあると明らかにわかるので、お母さんは聞き出すことを慎重にしている。
「最近、お友達が色々と面倒みてくれているそうね」
「勉強の事を訊けたりして助かってる」
私は何でもないことのようにそっけなく語った。
「学校の勉強が入院で遅れているけど、かなり自分で頑張ってるって看護師さんも言ってたわ」
「別に大したことじゃない。やっぱり学校の授業は遅れていることにはかわりないから」
「でも、やらないよりは十分いいわ。その手伝ってくれているお友達にもお母さんからもお礼をいいたいわ」
ほうら、やっぱりそこに結び付けようとしていた。
「じゃあ、伝えとく」
「やっぱり、一度お会いして直接礼を言った方が……」
拓海さんが来る時間とお母さんが来る時間は今のところ重なることはなかった。
お母さんはどうしても拓海さんがどのような人か見て確認したそうだ。拓海さんに会ったとしても悪い印象はもたないだろうが、娘が惚れているとなると親として心配なのだろう。
傍から見れば私が恋をしていると思っても不思議じゃないから、看護師さんもそのように母に伝えていることは明白だ。
「そのうちね」
曖昧に濁しておいた。
私が肯定的な返事をしたと思って、お母さんはそれ以上このことについては言わなかった。
その次の日、拓海さんが病室に訪れた時、この事を話した。
「そっか、お母さんにも挨拶しておいた方がいいよね」
拓海さんは恐縮していた。
「そんな、別にいいです。母の方からするべきです。そのうちまた来ますので、いつか会えると思います」
「でも、知らないところで娘さんに会いに来てたら、親としては心配になるね」
「いえ、心配どころかものすごく感謝してます。毎日来てもらえて勉強を教えてもらってるんですから」
「それも大したことやってないからな」
拓海さんは照れくさそうに頭を掻いてごまかしていた。
「そんなことないです。拓海さんのお陰で色んな事が知れて本当によかったです。こんなに面倒を見てもらえてラッキーなんですけど、なんで私なんかのためにここまでしてくれるんですか?」
ついに私は訊いてみた。これだけ毎日来てくれるんだから、拓海さんも私に興味をもってくれているんではと思えてならない。少しばかりのうぬぼれがこの時芽生えていた。
「そうだね。初めて会った時、なんか悲しそうに見えたんだ。入院なんて楽しいものじゃないけども、あまりにも疲れてそうに思えて、何か僕にできることはないかってつい思っちゃって。僕も辛い時はやっぱり誰かに側に居てほしいなんて思うことあるからね」
私はそんなに同情されるほど悲惨な状況に見えたのだろうか。
まあ、落ち込んでいたのは事実だから、そんな自分を見られて恥ずかしくなってくる。
「慧眼ですね」
「おっ、難しい言葉知ってるね」
「本で知りました。物事の本質を見抜く洞察力ですね。そんな風に見られてたなんて、図星です」
「そりゃ、事故にあって怪我をしたら誰だって辛いし、落ち込むよね。今までの生活ががらりと変わる。そんなのすぐに受け入れられるもんじゃない」
拓海さんは沈んだ表情で語っていた。
「でも、拓海さんが話し相手になってくれるお陰で活気付きました。拓海さんには感謝しても感謝しきれないです」
「そんな、僕の方こそ佳奈ちゃんに助けてもらってるよ」
謙遜してそんな言い方をしたのだろうか。何を私は助けているのかわからない。
その後は看護師さんが検診に現れて、水をさされたようになって拓海さんは帰ってしまった。もう少し話していたかったけど、また明日会えると思うと我慢した。
それからだった。
拓海さんが来なくなり、ぷっつりと連絡が途絶えてしまった。
私がお母さんの話をしたから余計な気遣いを負わせてしまったのだろうか。一日でも拓海さんに会えないと私は発狂してしまいそうだった。
拓海さんも忙しい時があるし、今まで毎日来てくれた方が稀なことだったのかもしれない。
勉強もあるだろうし、大学生だから急な用事が入って来れないことだってあるだろう。
明日はきっと来てくれる。そう信じて私は毎日拓海さんを待っていた。
そんな時、看護師さんが一通の手紙を私に持ってきた。
「これを渡してほしいって二条拓海さんって言う人から預かってたの」
私は思わずその手紙をひったくってしまった。
看護師さんはやれやれといった感じで去っていくと、私は封を破った。