第三章


「拓海さん、なぜ」
 私は拓海さんを目の前にして、目に涙を浮かべていた。
 少し最初に会った時の風貌と違っていた。あの優しかった拓海さんの穏やかな表情が強張り、目が鋭くなっている。まるで別人だ。
 人間はここまで変わってしまうのだろうか。
「だから、何も知らないで別れを告げる方がよかったんだ。あのままで別れていたら君はもっと幸せだった」
 拓海さんは機嫌悪く吐き出した。
「でも、手紙だけ渡されて『さようなら』なんて納得いかなかった。もし不治の病だとしても私は無視できなかった」
 きれいごとで終わらせるために真実を隠す。そうなればこちらはどうしても追求してしまう。
 真実を知ることは時にはショックかもしれない。でも向き合わなければならないと思う。
 例え自分が傷ついても、私はこの時、勇気を出して前を見据えていた。
 その隣で亜由美ちゃんが顔を真っ青にしておろおろしている。
 こんなところで亜由美ちゃんに会うなんて思ってもいなかったけど、松葉杖を持つ私の手に力が入り、必死に突っ立っていた。
 私の目の前にいる拓海さんはとにかく元気だった。
 それは本当に偶然の出来事で、私がお母さんに車で学校まで迎えに来てもらい、お母さんの用事で少し寄り道をして帰るときのことだった。
 車を路上に駐車してお母さんがその場を離れた間、私は車の中でぼんやりとしながら外を見ていた。
 その時、拓海さんが街を歩いているのを見つけ、心臓がドキドキと高鳴っていた。気がついたら松葉杖を持って車から這い出し無我夢中で追いかけていた。
 拓海さんには中々追いつけず、私は松葉杖をもって必死に前を進もうとする。まるで海の中でおぼれているようだ。息も荒くとても苦しかった。
 繁華街の人通りが多い中、人の波に邪魔をされ何度も見失いになりそうになって諦めかけていたところ、人が集まる賑やかな広場で突然拓海さんの動きが止まった。
 これで追いつける。距離が縮まるとはっきりとその姿が見えてきた。拓海さんは誰かと待ち合わせしていたのか、辺りをキョロキョロしていた。
 胸の高鳴る中、チャンスだと思って近くに寄ったとき、誰かが走って拓海さんの前にいく。思わず息を飲み込んだ。それは亜由美ちゃんだったからだった。
 拓海さんは親しく亜由美ちゃんと話している。疑問を持ちながらその中に私も入っていった。
「拓海さん、なぜ」
 そこで私たちの話し合いが始まったわけだった。
 拓海さんは開き直り、自分は悪くないと私に冷たい目を向ける。
「不治の病って嘘だったの?」
 拓海さんが生きている事を喜びたいけど、隣に亜由美ちゃんがいることで自分が途轍もなく道化になった気分だった。
 すでに私は気がついていた、拓海さんが嘘を言っていたことに。
 でもなぜ?
「亜由美、ばれちまったぞ。正直に話す方が、誤解がなくなっていいんじゃないか?」
 拓海さんが言った。
「一体何がどうなってるの?」
 私は亜由美ちゃんを見つめた。
「佳奈ちゃん、あのね、佳奈ちゃんが入院している間、私、ずっとお見舞いに行こうと思ってたの。でも仲たがいしてたから踏み出せる勇気がなくて」
 亜由美ちゃんは訥々に話した。
「本当だぜ。亜由美は病院の前に佇んでいたんだ。そこに偶然通った俺が居合わせたわけ。なんかかわいい子だなと思って声をかけた事が知り合ったきっかけさ」
 その時、拓海さんの態度がチャラっぽく見えた。
「何度も、病院に入ろうと思ったんだけどできなくて」
 亜由美ちゃんは申し訳なさそうに俯いた。
「初めて俺が声をかけたときは、そのまま亜由美は逃げたんだけど、また次の日にそこを同じように通りかかったら居たからさ、これは何かあると思って俺が事 情を聞いたら友達の見舞いに行けない事をそこで知ったんだ。それで俺が手助けするつもりで様子を見にいってやるって言ったわけ」
 拓海さんはニヤリと笑った。
 そこに亜由美ちゃんと親しくなりたい下心があったに違いない。亜由美ちゃんは高校生になってからさらにきれいになった。
 話を聞けば、最初ふたりには私を騙そうとかそういうものは一切なかったように見受けられる。
 亜由美ちゃんは成り行きから藁をもつかむ思いでその助けを受け入れた。予め私と写ったスマホの画像を見せ、ある程度の情報を教えた。拓海さんは乗りかかった船で手助けのつもりで私に近づいてきた。
 それを知らなかった私は、その偶然の出会いに感謝し勉強を教えてほしいと勢いで頼んでしまった。
 このことでさらに亜由美ちゃんと近づける口実ができたと思った拓海は、私が気に入るように好青年の演技をしたということだ。
「入院中、退屈かと思って本をお見舞い品として持っていこうとしたの。それをタックンが持って行ってくれるって」
「タックン?」
 亜由美ちゃんが話した後、私は思わず繰り返してしまった。
「そうそう、俺のこと」
 拓海さんが自分を指差し、にやけて亜由美ちゃんを見ていた。
 あの文庫本にBLが入っていたのはこういう理由だった。亜由美ちゃんが家にあったいらない本を集めた時にそれが紛れ込んでいただけだった。
 それならあの本の存在の辻褄が合う。それを回りくどく考えてしまっただけだった。
 本の話をしている時も、拓海さんは随分と前に読んだから内容をあんまり覚えてないと言っていたけど、本当は読んでなかったから知らなかった。
 それで私が言う事を全て無条件で同意していたに違いない。
道理でなんでも思うように行くはずだ。それを私は優しさと気遣いと思い肯定的に捉えていただけだった。
「事情を知った俺は佳奈ちゃんと接触あるうちに、亜由美にお見舞いに行こうって何度も説得したんだぜ。ふたりを仲良くさせるきっかけになればと本気で思ってたよ。そのために病室に毎日通ったし」
「タックンの言う通りなの。怪我の様子を見てほしいと頼んで、何度も行こうとしたんだけど、ある日気がついたら佳奈ちゃんがタックンに気があることに気づいたの。それで……」
 ここまでふたりに説明されたら私には十分だった。
 拓海さんは亜由美ちゃんと仲良くするために私を利用し、亜由美ちゃんは私の様子を探りたいために拓海さんを利用した。
 それを知らない私は拓海さんに夢中になっていった。
「俺に夢中になっていく佳奈ちゃんの様子を聞いているうちに、亜由美は不安になったんだな」
 拓海さんが仕方のないことのように補足する。
 問題を抱えた亜由美ちゃんも拓海さんに依存することでそれが恋に変わり、元々亜由美ちゃんに気があった拓海さんは私を出汁にすることで亜由美ちゃんの嫉妬を焚きつけた。
「それで私から離れるために、あんな手紙を残して自分が死んだかもしれないことを私に思わせた」
 本当なら怒りに任せて怒鳴ってもよかったかもしれない。だけどもうそんな気力も残ってなくて、私はただ惨めだった。
 拓海さんのお陰で全てが変わったと思い込んでいたのが、ここで自分がただの道化だったと気づかされて、それが恥ずかしくてたまらなかった。
 腹を立てれば、私が拓海さんに夢中になっていたことを本人たちの前でばらしてしまうのと同じだ。今の拓海さんの様子を見ていれば、それは彼には一種のネタになりずっと笑いものにして誰かに話すことだろう。
 私って本当にバカだなってつくづく思った。
 自分が情けなく可哀想――。そう思うと悲しい感情よりもあまりにもバカらしくて、乾いた笑いが鼻でもれた。
 拓海さんも亜由美ちゃんも私の様子をそれぞれの思惑の中で窺っている。
 その表情を見ると嫌悪感しかなかった。
「そうだったの」
 私はこの人たちから一刻も早く離れたかった。だから踵を返して松葉杖をついて去っていく。背中に向かって亜由美ちゃんが私を呼んでいるのが聞こえる。でも追いかけてくる様子はなかった。
 松葉杖で歩くのは大変だ。普通に歩くよりもかなり体力を使ってしまう。どんなに急いでも思うように早く進めなかった。
 その間ふたりから後姿を見られていると思うと、背中がチリチリと熱く不快感を帯びる。
 ようやくホッとできたのはお母さんの顔を見たときだった。
 駐車している車の側で、お母さんが心配して私を待っていた。
 お母さんの手には私が好きなケーキ屋さんの箱があった。私を見つけるなりそれを持ち上げて私にわざと見せる。
「どこに行ってたの? さあ、早く帰りましょう。今日はお父さんも早く帰ってくるって」
 そっか、今日は私の誕生日だった。
 車の中でそのケーキの箱を膝に抱え、私はじっとそれを見る。
 お母さんは車を運転しながら今夜の夕食の献立を話していた。どれも私の好きなものばかりだった。
「早いものね、道理で私も歳を取るわ」
 最後は愚痴っぽくなっていた。でもそれを悪いことのようには思ってなさそうだ。私の成長を心から喜んでいるのが伝わってくる。
 私が事故に遭って気が動転していたこともあったらしいが、こうやって誕生日を迎えられたことで安堵していた。事故に遭ってからお母さんには心配かけてばかりだった。
 顔を上げて前を見つめれば、運転しているお母さんの髪の毛に白いものが混じっていた。
 それを見ると気づかなかったお母さんの気苦労が目に見えるようだ。
「おかあさん……」
 つい声を掛けてしまう。
「ん? 何?」
「……何か音楽か、ラジオ掛けて」
 お母さんがごそごそと操作をすれば、リズムのいいサウンドが流れてきた。
 本当は音楽なんてどうでもよかったけど、ありがとうと言うには恥ずかしすぎて誤魔化してしまった。いつかは口にだして言わなければならないと思いつつ、今はまだそれができない。まだまだ自分は子供だと思ってしまう。
 暫くスピーカーから流れる曲を聴いていた。音楽なんて久しぶりに聞いたかもしれない。
 意味がわからない英語の歌詞。でも力強いサウンドが惨めな気分を和らげていった。
「これね、80年代に流行ったボンジョビの曲よ。Livin' On A Prayerっていうの。お母さんこの歌が好きでね、これを聴くと力が漲っていくわ。歌を要訳すると、今は運が悪いけども与えられたものにしがみついてい くしかない。だから希望を抱きながらそれを実現させるために必死に生きるっていう感じの歌詞よ」
 お母さんは歌の説明をしただけかもしれないけど、そこに私へのメッセージが込められているような気になった。
 私は確かに足は不自由だし、心も傷だらけだ。情けなくて、悔しくて、惨めでもある。
でもこの時思った。
 ――それでも私は生きている。
 この流れている歌が意味するように、それにしがみついて希望さえ持てばこの先はなんとかなるかもしれない。命がなければそれで終わっていたのだから。
 その後黙って車の窓から外の景色を眺めた。強いサウンドが心に響いている中で、それは次第に水彩画のように視界がぼやけていく。
 私はごしごしと強く目を擦って、そしてもう一度その景色をしっかりと見つめた。



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