エピローグ
「ミシロ、お疲れ様」
ワイがマグカップを机の上に優しく置いてくれた。程よく湯気の立つラテ。ミルクの泡立ちが見るからに美味しそうだった。
私はキーボードを打つのをやめ、「ありがとう」と言ってすぐそれを手にして一口飲んだ。ちょうどいい仄かな甘さ。喉を通った時、気分が和らいだ。
ワイの入れるコーヒーはとても美味しい。私が欲しいといわなくても、その頃を見計らって持ってきてくれる。
ワイを見ればニコッと微笑んだ。
「なぜ、タイミングが分かるのだろうって今、思ったんじゃないかしら」
「ええ、その通りよ」
「Why not!」
わかって当然よといわんばかりに陽気にワイは言った。
「そうよね、なぜなんていう方が邪道ね」
「私は強引かもしれないわ。常に理由を追求するもの。でもね、私に『なぜ』は禁物よ」
勝手ないいぐさかもしれないけど、ワイらしい答えだった。
私が愉しんでコーヒーを飲んでいると、ワイはこっそりと私の耳元で囁いた。
「あの、例の男、また現れる?」
「そのうちに来るんじゃないかしら」
「そう。でも負けないでね、ミシロ」
ワイはそういうと部屋から出て行った。
私はコーヒーを飲みながら、作業をしていた画面を見つめた。
そこに、ポンとメッセージが噴き出してきた。
――ミシロ、またひとつの物語を書き終えたな。きっとそれも失敗だろ。
相変わらず容赦ない言葉だった。
失敗とはこの場合、誰も読んでないってことだろう。そんなのアクセス数やブックマーク数を見たら自分でも分かる。
――読めば悪くはないものかもしれない。でも目に触れる事もなく読まれなければ意味がないのさ。
あざ笑う声まで聞こえてきそうだ。
――いつまで読まれない物語を書くつもりだ。
読まれるまでに決まっているでしょ。
――まあ、せいぜい頑張れよ。
言いたいことだけ言って、奴は去っていった。
彼は一体誰なのか。
それを考えれば私は笑ってしまう。
なぜならそれはもうひとりの私自身だからだ。
私は最初からお涙頂戴の難病の話を書くつもりなんてなかった。そうプロットを作っても必ずどこかで話が別の方向へ行ってしまう。
一度そういうストレートな話を作ってみたいと何度も綴ろうとするけど、色んな可能性のアイデアが浮かぶと気がつけば最初に考えたプロットと違う方向へ行ってしまってばかりだ。
その時に伏線が浮かんで後にそれが生きてきたり、意外な展開になってどんでん返しが起こったり、それは私の自由な発想でいつも物語がその時になると変化を遂げてしまう。
佳奈さんの物語も佳奈さんは最初死んでしまう設定だったけど、亜由美さんの視点で物語が動くよりも佳奈さんの視点で動く方を私は選んでしまった。
そうすれば佳奈さんは死なない方が話は大きく展開する。そうやって佳奈さんの物語は違う局面を向かえて、青春の痛みが強くなった。歌を媒介してのお母さ
んのメッセージを活かして佳奈さんは強くなろうとする。英語を知っていたお母さんにも少し驚いていたのだけれど、その時は自分の事でいっぱいだった。
その後、その歌の歌詞に興味を持ち自分で訳しているうち、意味が分かると英語が好きになっていく。佳奈さんはこの後英語を学んで話せるようになっていく展開だ。そこは想像するしかないけど、伏線として残してある。
そのあたりは省略したが、あの二匹の猫を拾った女性は大人になった佳奈さんだ。
勝本さんは佳奈さんの松野という苗字を覚えていた。松野佳奈――これが佳奈さんのフルネーム。拓海との出会いでそう自分を名乗っていた。
佳奈さんは英語が話したいと思うきっかけで、日本に住んでいたアメリカ人と知り合い、そして国際結婚をした。でも戸籍上の名前は変えなかった。国際結婚だとそれはどちらでもいいからだ。
佳奈さんが初めて名もなき博物館に来たとき、ダンボール箱を見てなぜ泣けるのか不思議がっていたけど、あれは未来の佳奈さんの思い出の品だった。
ここでは時間の系列は関係ない。現在、過去、未来が同時に交差する場所だ。
私が話さなかったのも、いずれ佳奈さんが体験する話だったからだ。
あの物語は最初から全部佳奈さんの話なのだ。
だから、佳奈さんが死なないと分かっていたし、話が書き換えられたといっても、あれは私が全てやったこと。
好き勝手に言って私を貶めたアイツは、私が私自身でいつも自分を責めていることと同じ。
自分はダメなんだと何度も思い、自分を自分自身で卑下していた。
そうよ、分かってるわよ。私の話が人に読まれないくらい。
だからああやって奴の口を借りて好き放題に私は私を責められるの。
本当はこんな風に物語を綴るつもりなんてなかった。もっと今風にほっこりとした人情味の溢れるキャラクターものを作りたかった。
名もなき博物館の展示品を見て、それが必要な人の物語が語られる――設定だけみたら、なんとなく受けそうな気がした。
そういうものを考えたら、自然とキャラクターが思いついた。面白おかしくテンポよく作ればと最初は思っていたけど、やっぱりダメだった。
それならば自分の思いを込めてみよう。書き手だって葛藤しながら書いている。
それに読まれないならなおさら何でも書けるじゃないか。無名なのだから誰も気にしないだろうし。
ついつい自分を虐めてしまう。自虐だ。
私の頭の中にはまだ他の話がいっぱいある。早くそれらを文字にしたい。
とりとめもなく文章にしてみよう。
絵を描くときもデッサンで練習したり、何度も描いてこそ上手くなっていく。物語を作ることだって同じことだと思う。
とにかくひとつの形にする。それをいくつも作っていく。
読まれないから作らないなんて私にはそういう選択は最初からないのだ。
物語を書くのが好き。
いつかそれが誰かの目に留まってくれる事を私はいつも願っている。
私はミシロ、そしてあの憎まれ口を叩くアンチも私。
そこにまだもうひとり真の私がいる、それは――。
そして名もなき博物館でいつも物語を綴り、訪問客を待っている。
誰かに見つけて欲しいと奇跡を信じて。
《とりあえず了》