第一章 そこに猫が居た分岐点


 昨晩は気合を入れて夜八時にベッドに入った。なぜ気合を入れてまで早く寝床についたのか。
 それは朝早く起きるため。単純な理由。
 でもそれは私にとってはとても重要なことだった──。
 今日は高校の入学式。完璧に身なりを整えたい思いから、早めに起きて準備をしたいのが、その一番の目的。
 只今早朝5時前。
 私はシャワーを浴びて、濡れた髪をタオルで丁寧に拭きながら、居間のソファーに座って一息ついていた。
 そのソファーの端で猫のブンジが丸まって寝ている。灰色の毛並みのキジトラの部類だが、背中の模様は縞ではなくて、水玉模様に近い。まるで豹やチーターのような柄。
 猫の種類に詳しい人がブンジをみれば、ベンガル種が混じってるとかいうけど、ブンジは普通の雑種で、元は野良猫。
 私が小さかったときに家の前に居たのを母が見つけて、そこで餌をあげたのをきっかけに通うようになり、そしてうちの猫になった。
 ブンジは飼い主の贔屓目を抜きにしても、非常にハンサムでかっこいい。
 そのブンジが時折顔を上げては、私の様子を伺っている。
「ブンちゃん」
 私が名前を呼べば、じっと顔を見るが、その後、にこっと笑っている私に愛想ふるまうことなく、またアンモニャイトになっていた。
 それは私への期待半分、あてつけ半分の気持ちの現れだった。本当は餌が欲しいけど、私が朝の餌係ではないのを知ってるので、纏わりついても無駄だとひたすら餌を与えてくれる母を待っているのである。
 その辺は猫の本能なので仕方がないが、普段のブンジは私にとてもよく懐いていて仲は結構いい。まあ、飼い主の希望も入って愛されていたいと思いこんでいる節はあるけども。
 こういうそっけない態度の時は、お腹が空きすぎて無駄な労力を使いたくないだけだと私はしっかりと理解している。
 だから、そっと頭を撫ぜてやるとすぐに喉をゴロゴロ言わせていた。この音が聞いている者にもまた心地良い。
 まだ外は暗く、父も母も弟も起きてない家の中は静かだったから、ブンジのゴロゴロの音は部屋に響くように良く聞こえた。
 私もできるだけ物音を立てずにこそこそして気を遣う程、まだ辺りは物音を立てるなというくらい静寂しきっていた。
 そんな静けさの中、不意に、ブンジの耳が何かの音を聞き取ったようにピクッと動いた。
 そして、遠くからこちらに向かってきているバイクのエンジン音が、私の耳にも次第に入り、その音がどんどん大きくなってきた。
 こっちに向かってやってきていると思ったとき、自分の家の前で止まったかのように、待機するエンジン音が低く暫く聞こえた。
 その時、ブンジはその音が気になるのか、むくっと起き上がり、ソファーの背の部分に飛び上がった。
 ソファーの後は壁際だが、そこに出窓もある。
 その出窓の部分がブンジのお気に入りの場所であり、またよくそこに座ってはエンターテイメントとして外を眺める最高の特等席になっていた。
 この時はカーテンが引いてあったが、その隙間を潜って、ブンジは出窓の部分に飛び乗った。
 バイク音はとても間近に聞こえたので、私も気になってカーテンを少し開けて外を見てみた。
 窓のすぐ外は住宅街の通りに面している。
 そっと覗けば、弱々しい街灯に照らされて、バイクとそれに乗った人のシルエットが浮かび上がっていた。
 まだ日の出の気配も感じさせない、肌寒そうな暗闇の中で、そのバイクに乗った人は、何かをその先にある私の家の玄関先に向かって放り投げた。
 作業が終わっても暫くバイクの人がすぐには動かなかったところをみると、こっちを見ていたのかもしれない。
 そっと覗き見してると思っていたが、家の中の光が窓から漏れて、暗闇から私は丸見えだったことに気がつき、思わずはっとして奥に引っ込んだ。
 その後、バイクの音が小さくなり遠くに行った様子が伺えた。
 もう一度外を覗けば、静かな闇だけが残っていた。
 ブンジは暫く出窓の部分に座っていたが、用事が済んだとでも言わんばかりにまたソファーに戻っては、一度あくびをしてからから丸まりだした。
 私はバイクの人が投げたものが気になり、玄関先へ出ていった。
 そこにはビニール袋に包まれた物が横たわっていた。
 それを拾い上げ、また家の中に入っていく。
 明るいところで見れば、それは私の父が定期購入している英字新聞だった。
 こんなに朝早くから大変な仕事だ。
 毎日朝早く配達する人の気持ちを想像しながら、その新聞をダイニングテーブルに置いて、私はドライヤーを求めて洗面所へと向かった。
 鏡に映る自分の姿。
 それを見つめていると、まるで戦に挑むように意気込んで、体に力が入ってしまった。
 力んだ手で、ドライヤーのスイッチを入れれば、熱風を送る音がうるさく耳に届き、益々心ざわめく。
 どうかこの日が失敗しませんように。
 そう願いながら、ドライヤーから出てくる熱風を髪に向け、私の心も熱くなっていた。
 何事も最初が肝心とばかりに、高校生活が始まる初日、私はどこか気が抜けなかった。
 高校生になったこの日、今までの中学生活を振り返る。
 あまりぱっとしない、極普通の、もしかしたらそれ以下の立場の身分だったかもしれない。
 友達は適当にいたけども、皆大人しく無難なものだった。
 そんな風に言えば失礼だが、もちろんそれなりに好きな友達ではあった。
 一緒に居てくれたことには感謝はしているが、どこか物足りないのも本音だった。
 自分はこの位置から抜けられないほどに、垢抜けしてない部類に思われて、時折楽しそうに男子生徒と気軽に話している女の子達を見ると、そのかっこよさにあこがれたものだった。
 自分もあんなグループに所属していたら、自分がもっと積極的でグループの中心にいてちやほやされていたら、そんな事を思っては今の自分に満足できずにため息が漏れていた。
 もっと好かれたい、目立ちたいという自己顕示欲が現れてしまう年頃というのか、やっぱりどこかで一目置かれるクールな自分でいたいという思いがあった。
 だから、この高校生活スタートの一日目は、私にとったらこの先の人生の左右を決めるほど大事なものだった。
 運よく行きたい高校に受かることもでき、自分と同じ中学から誰もここに進学する人もいず、全てが真っ白からスタートするこの日。
 高校生活の三年間がこの初日で決まってしまう。
 絶対に失敗することはできない。
 そんな気持ちで私は入学式に挑んだ。
 
 欠伸が何度も出ては、目じりに涙が溜まっていく。春の優しい風が、ひんやりとさせる。
 それを拭いながら、目許をこすってるうちにとうとう学校の前にやってきた。その存在感はその時神聖なものに見えた。ドキドキとして緊張が高まり、一瞬立ち止まってしまう。
 同じように一緒に歩いていた母も私に合わせて立ち止まり、しっかりと付き添ってくれていた。
 私は母と顔を合わせる。そしてお互いの笑みが溢れるようにこぼれていった。
 ぞろぞろと新しい制服に包まれた新入生が集まって来る。私もぎこちなくその一部となってやがて門に吸い込まれていった。
 出席番号順に名前が書かれたクラス表が、校門を入ってすぐの人目がつく場所に張り出されていた。
 私と同じ新入生がひしめき合ってそれらを見ている。
 その保護者達も自分の子供の行く末を心配しながら、粗相のないように遠巻きにその様子を見ていた。
 私の母もここからは一人で行きなさいと、私に笑顔を向けた。
 それを合図に、私も新しく入学した生徒達に紛れて、自分の名前を探しに行った。
 一年三組のところに、私の名前、遠山千咲都を見つけた。
 入学するから、そこにあって当たり前だけど、改めて自分の名前を見つけた事に少しほっとするものがあった。
 これからここに三年間通う。
 また新たに、頑張らねばというやる気が、腹の底から湧き上がっていた。
 周りを見れば、手を握り合って同じクラスになれた事を喜んでいるものや、すでに仲良くなっている人達がいた。
 この人達の中にすんなりと入っていけるのだろうか。
 焦りにも似た不安が押し寄せた。
 周りの人達はどんな心境なのだろうか。
 私は、それぞれの生徒達をぐるりと見渡しながら、指定の場所へと向かった。
 入学式が始まる前は一度教室に集められる。
 その間、保護者達は一足早く式が始まる体育館へ行き、セレモニーが始まるまでそこで待機させられた。
 母も見知らぬ人に囲まれて、どうしていいのかわからない不安があったのかもしれない。静かに体育館へ向かう足取りがなんだか覚束ない。
 それ以上に、私も不安と怖気るような思いの足取りで教室に向かった。
 クラスに入れば、とりあえず出席番号順に座るようになっていた。
 緊張して自分の席を見つけたとき、すでに私の席の前には誰かが座っていた。
 私が席に着くと同時に、前の席の子が振り向いてニコッと微笑んだ。
「おはよう」
 気さくに話しかけてくる行動に、少し戸惑いながらも、ここが勝負だと気を取り直して背筋を伸ばし、私も元気良く「おはよう」と返した。
 そしてまた彼女が私に話しかける。
「私、笹山希莉(ささやまきり)、よろしく」
「私は遠山千咲都(とおやまちさと)。こちらこそよろしくね」
 この挨拶がこの始まりの全てだった。
 希莉は今まで仲良くなった友達とは違うタイプの女の子で、自分に自信を持ってるような、洗練された顔つきをしていた。
 ハキハキとしては、人に流されない自分スタイルを持っている感じがして、それこそ中学時代にあこがれて見ていたグループに所属するような女の子だった。
 そして女の私の目から見てもかわいい。
「私達の名前、どっちも山がついてるね。なんだか気が合いそうだね」
 希莉はそういうとニコッとする。
 私も負けないくらいの笑顔を返した。
 その後、希莉はさりげなくそっと私の髪に触れた。
「とても艶ややかなさらっとした髪で綺麗だね」
「あ、ありがとう」
 朝のシャンプーとトリートメントが効いていたのだろう。
 それこそ気合を入れてきた賜物だった。
「えーっと、チサトちゃんだっけ、出席番号の縁だ、よかったら友達になって」
「も、もちろん!」
 私は顔が痛くなりそうなほどの笑みを添えて、思いっきり喜んで返事した。
 あまりにも大げさなリアクションだったのか、希莉がそれに受けて笑い出した。
「千咲都ちゃんって面白いね」
 それが褒め言葉のように聞こえて、私はとても嬉しかった。
 すぐにお互いのスマートフォンを出して、電話番号とメールアドレスを交換した。
 これは希莉がそうしたいと言ったので、私は有頂天になりながら、喜んでそれを受けた。
 こんなに早く、しかもスムーズに事が運んでいいのだろうか。
 希莉は私が理想とする友達そのものだった。
 明るく、気さくで、親しみやすく、そしてとてもかわいい。
 私はこの時、自分が明るくいつも笑って、そして人には常に優しく思いやっていればきっと好かれて、いい関係が築けると信じてやまなかった。
 希莉も、早速私の事を気に入ってくれて波長が合ったと言わんばかりに、すぐに打ち解けてはおしゃべりに花が咲いた。
 そうしているうちに、自分も度胸がついていく。
 この高校生生活は上手くいく。
 そんな気持ちのいい気分が、心の中ではじけては、今までとは違う自分になっているようだった。
 また、隣の席に誰かがやってきた。
 私達が話している様子を伺いながら、不安そうに席についたので、気持ちが高ぶっていたこともあり、私は調子に乗って、主導権を握るように声をかけた。
「おはよう」
 私が声を掛けたあと、希莉も同じようにその子に向かって挨拶する。
 私が希莉に声を掛けられたときのように、その女の子は多少戸惑っていたが、その後はここで仲良くしなければというチャレンジ精神で元気よい声が返ってきた。
 皆、やっぱり最初は不安でたまらない。
 でも誰かが気遣って声を掛けてくれたら素直に嬉しくて安心感が現れる。
 そのチャンスを蹴る人なんて誰もいないのが、この時の状況だった。
「おはよう。なんだか二人は仲がいいね。同じ中学だったの?」
「ううん、今知り合ったとこ、ねぇ」
 希莉が私に振ってきた。
 私もそれに合わせて「ねぇ」と答えた。
「私は松田柚実。よかったら私も仲良くしてね。よろしく」
 そしてお互い自己紹介すると、私達はすぐに仲良くなった。
 柚実もタイプが希莉に似ていた。
 はっきりしていて、自分に自信をもっている。
 そして二人ともどこか気品があった。
 希莉ははっきりとした二重の目が大きく、特徴のあるアイドル的なかわいらしさがあり、柚実はそれに比べてすっきりしているが、顔のパーツのバランスがよく、整った顔つきだった。
 私といえば、どうだろうか。
 不細工と言われるほどではないが、平均的な普通の顔ではあると思う。
 父も母もかわいいとはいってくれるけど、親の贔屓目なのであてにはできない。
 この二人に挟まれたら、ぱっとしないかもしれないが、愛嬌を振りまけばそこそこいけるかもしれない。
 とにかく、中身で勝負できるようにいい子になれば、きっと嫌う人はいないだろう。
 またこの二人と一緒に居れば、私もそれなりの価値をもって目立てるかもしれない。
 色々と計算高い事も頭によぎり、私は二人の様子を見ながら合わせていた。
 すぐに打ち解けて、グループができたことに私は安心した。
 希莉と柚実と知り合ったお蔭で度胸がついて、その後も何人かの女子生徒とも声を掛け合うこともでき、順調なスタートが切れた。
 入学式も安心感の中で迎えられ、気分的にもワクワクとした楽しさで一杯だった。
 担任も悪くなく、気軽に話せそうな雰囲気があった。
 入学記念のクラス写真も撮り、無事に事が済んだ。
 これで高校生活も安泰だ。私はきっと楽しい高校生活が送れる。
 そう、この時は全てが輝いて見えていた。
 先に何が待っているかも知らずに──。
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