第一章


 入学式が終わった後は、一気に体の力が抜けた。
 家に帰って居間のソファーの上で横になっては、昼寝でもしたくなるほどに体全体から眠気が現れてきていた。
 そのとき、ピョンと猫のブンジがソファーに飛び乗り、横になっている私の体に登ってきた。
「ブンちゃん、重いし、そこは痛い」
 容赦なく体重をかけた、あのかわいいおみ足が私のお腹にめり込む。
 苦しいし痛いのに、でも私は払いのけない。
 痛さよりも、ブンジが側に来てくれた事の方が嬉しかった。
 ブンジは私のお腹の柔らかいところを、足でモミモミし始める。
「おっ、マッサージしてくれてるの」
 私もブンジの頭を撫で、されるがままになっていると、ブンジは何かを伝えたそうにニャーと一言発した。
「うん、そうなの。今日は張り切りすぎちゃった」
 何を言ってるかわからないのに、私は都合よくブンジと会話する。
 ブンジは喉をゴロゴロ言わせ、そして寝床を定めるように私のお腹の上で香り箱座りをした。
 私をじっと見つめ、目を細めている。
「ブンちゃん。高校生活上手くいきそうだよ。すごくワクワクするんだ」
 優しくブンジの体を撫ぜてやると、ブンジの喉のゴロゴロの音が一層強くなったような気がした。
 それに比例するように私も益々嬉しくなるし、幸せな気分になった。
 こうやっていつもブンジと会話する。
 物心ついたころからブンジは私の側にいてくれた。
 心は通じ合ってると思っているが、弟曰く、それは寒いから暖をとってるだけやら、餌が欲しいからとか、と言う。
 あまり弟の側にいかないので、ただの負け惜しみとして受け取っている。
 弟は小さい頃にブンジを追いかけまくってたので、ブンジはいつも威嚇して逃げてたから、心開くわけがない。
 弟にとったら嫉妬もあるのだろう。
 弟もそれなりにブンジが好きということだった。
「ブンちゃんは男前だね。ブンちゃんみたいなかっこいい彼氏できるかな」
 ブンジは返事しなかったけど、じっとしては暫く私の側から離れなかった。
 ブンジは目を閉じ、居心地よさそうにしている。
 こうなると、私は動けなくなる。
 このままブンジのために暫くソファーで横になっていると、そのうちウトウトしてしまった。
 全てが満たされた幸せな一時だった。
 そして、この日最後の締めとして、スマートフォンには希莉からのメッセージが届いてた。
『また明日も一杯お話しようね、チサト』
 すでに親しみ感たっぷりで、顔がほころぶ。
 嬉しさのあまりニヤついた顔で私は希莉に返事を返していた。
『もちろん! 希莉と話をするのは楽しい』
 すでに私達は呼び捨てで名前を呼び合う仲になっていた。
 希莉のお蔭でこの先の高校生活が楽しく思えてしまう。
 自分が一歩大人に近づくように、少し大きくなれたような気分だった。
 
 一年の計は元旦にありじゃないが、この高校生活の計も初日にありだと私は思う。
 やはりスタートが思わしくなければ、後先に響いてしまう。
 私はなんとか上手く波に乗れ、希莉を中心にグループが出来上がり、その中に所属しているお蔭でまずまずだった。
 日にちが経てば、その分クラスの様子もわかってきて、なんとなく顔ぶれにも慣れてきた。
 その中でも積極的な希莉は顔もかわいいだけあって、とても目を引き、それとは対照的に柚実は穏やかだが、物静かでも物怖じせずに却ってクール的な存在感があった。
 この二人がクラスの中でも一目置かれるにはそんなに時間は掛からなかった。
 私といえば、この二人の側でどういう役柄なのだろうか。
 一緒に居るのは嬉しいのに、どこか不安になるのはなぜなんだろうか。
 まだ新学期始まって間もないからなんとも言えないけど、私は気が抜けないものを感じてしまう。
 希莉と柚実が笑っているその側で、私は二人を知らずとじっと見ていた。
「千咲都どうしたの?」
 希莉が不意に声を掛けてきて、私ははっとした。
「べ、別に。なんだか二人は絵になるなって思って」
「やだ、千咲都。私達の絵でも描いてくれるの?」
 希莉はクククと面白半分に笑っていた。
 柚実も澄ましてはいるけど、口元は上向きに合わせて笑っていた。
「わ、私、絵は描けないけど、それだけ二人はかわいいなって思って」
「ん、もう。千咲都ったら。そんなにおだてても何もでないよ」
 希莉に軽く頭を叩かれた。
 さりげない希莉のリアクションは心地よかった。
 希莉に相手されるなんてと思うだけで、自分は希莉にとって特別な存在であると思ってしまう。
 柚実も「千咲都は正直でよろしい」とわざとらしく言うと、またおかしくなってその場が盛り上がった。
 なんでもないことだけど、このノリが友達の証として楽しかった。
 不安になるのはこの関係を保ちたいから、失うのが怖いだけ。
 仲良くなればなるほど、私は幸せと同時にやってくる、その裏側の不安を考えるのが悪い癖だった。
 とにかく今はこうやって笑っていようと、顔の筋肉が痛むほど、にこやかに固定されていく。
「ねぇ、ねぇ、さっきから視線を感じるんだけど、もしかしたらあそこにいる男子、こっちをみてないかな」
 柚実が声を落として言った。
 それで私達は一斉に柚実が示した方向へ振り向いた。
 そこには、机に一人で座っている髪の短い男子がいた。
 慌てて視線を変えたところが、不自然で、柚実が言ったことが正しいように思えた。
 でも希莉は「気のせいだよ」と余裕の笑みを浮かべ一蹴した。
 しかしどことなく、見られて当たり前という嘲笑うような感じもあった。
「そうかな」
 柚実は否定されて納得いかない様子だったけど、見てたからと言ってどうこうしても仕方がないので、それ以上何も言わなかった。
 希莉はもう一度、その男子の方に振り向いたが、すぐにまたどうでもいいとばかりに新しい話題を振った。
 その後は誰もその男子については何も言わず、何事もなかったかのように希莉は笑い、柚実はクールに微笑し、そして私はおどけていた。
 でも私は暫く、その男子の様子が気がかりだった。
 入学式が終わり、新しいクラスで大体の友達のグループが定まりつつあるこの時期、誰もが焦るのにその男子は友達を見つけようともせずに、大概一人でいた。
 休み時間は机に座り、本を読んでいるし、みんなと溶け込もうとする様子が全くなかった。
 何人かの男子生徒は時々話しかけたりはしてるが、別にそれを嫌がるわけではなく、普通に接してはいるのに、その輪に入ろうとせず常に自分のスタイルで過ごしている。
 落ち着きを払い、周りに流されずにいるその姿は、大人びて精悍に見えるのに、髪が適当に切ったように短すぎてダサく、顔とあってないように思えた。
 もう少し髪を今風に伸ばしたり、毛先をうまくスタイリッシュにすればいい感じに思える顔つきなのに、なんだかおしゃれには無頓着そうだった。
 後に近江晴人(おうみはるひと)と彼の名前を知ったとき、自分が遠山の苗字なだけに、反対語が入ってるし、何か因縁を感じる。
 それだけじゃなく、私が彼の事を気にして見たのも、時々目が合ったり、更には彼が不意に話しかけてきたことがあったからだった。
「お前、猫飼ってるのか?」
「えっ?」
 たまたま彼の席の近くを通って目が合ってしまい、私は何事もなかったように視線をそらしたとき、ボソッと聞こえた。
 暫く動きが止まって固まっていると、近江君が自分の制服の袖をはたくふりをした。
 思わず、自分の袖をみたら、ブンジの毛がついていた。
 朝出かける前にブンジを撫ぜていたときに付着したらしい。
「あっ」
 その毛を慌ててはたいたが、どうしていいのかわからない。
 とりあえず知らせてくれたことで「ありがとう」とお礼を言った。
 だけどもしかしたら猫アレルギーで、それで猫の毛に敏感だったのかもしれない。
 そんな事も考え、この状況をどうしていいのかわからなかった。
 昔から、男の人とはあまり話しなれてない。
 高校生になったら、普通に話す努力をすべきなのだろうかと思いつつも、私は挙動不審に慌てていたと思う。
 その時また質問された。
「名前は?」
「えっと、遠山千咲都……」
「えっ、お前じゃなくて、猫だよ、猫の名前」
「あっ、ああ、そ、それはブンジ……だけど」
 私の顔はもう真っ赤だったと思う。
 熱いものが顔からでてくるようで、はずかしかった。
「ブンジか、雄か……」
「猫、好きなの?」
 この状況を誤魔化したくて、思わず恐々と聞いていた。
「まあな」
 そっけなく返ってきた返事。
 どこかぶっきら棒に、似合ってない髪型でダサく見える見掛けとは一致しない何かを感じた。
 その後は話が続くわけもなく、暫く黙っていると、この場から去るタイミングを失ってしまい、私は立ち往生していた。
 それを見かねたのか、また近江君に話しかけられた。
「お前さ、なんか無理してるように見えるんだよな。まあ別にいいけどな」
「えっ?」
 近江君はその後、私が側に居ることを忘れたかのように本を開いた。
 私は戸惑いつつも、足を前に動かしてその場から去った。
 暫く近江君が言った言葉の意味を考えていた。
 そんな事があったから、柚実がこっちを見ていると指摘したとき、なぜか自分が笑われているんじゃないかと感じてしまった。
 近江君が言ったあの言葉は、希莉と柚実の側にいるのが釣り合ってないと思ったのかもしれない。
 近江君にしてみれば、かわいい希莉と柚実のどちらかに気があって、そこに私の存在が目に付いて痛い奴に映ったのだろうか。
 そんな風に思われているとしたら、なんだか惨めだった。
 でも一度希莉と柚実と行動を共にしたら、私はもう抜けられない。
 二人が仲良くしてくれる以上、私だってきっとまんざらでもないんだ。
 妙なプライドが無駄な虚勢となっていく。少しくらいの背伸びをしたっていいだろう。
 休み時間のチャイムがなって、自分の席に戻ろうとしたとき、私は近江君を一瞥した。近江君は素知らぬ顔で、本を読んでいる。
 その周りだけ、全く色が違う何かを私は感じた。
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