第一章


「おい、無視するなよ。なんでダメなんだ、よぉ!」
 語尾が強調された上級生のいらついている声が耳に入るや、私の体もビクッとする。
 本能が働くように慌ててトイレの入り口に体をもたせ掛けて身を隠し、様子をこっそりと伺う。
 何を話しているのか具体的な事はわからないけど、上級生という立場を利用して従わせようとしているように見えた。
 因縁をつけられた近江君は口を堅く閉ざし、微動だにせずに面と向かって構えているが、それは挑戦的にも見えるから、余計に反感を買いそうに危うい。
 近江君逃げて!
 自分の事のようにハラハラしてしまう。
「俺には関係ないだろ。俺を利用しないでくれ」
 屈しない態度で近江君はきっぱりと上級生の命令を拒絶した。目つきも鋭く、上級生を睨んでいる。
 立ち向かう姿勢には賞賛を値するが、無理難題を押し付けてる側の「チェッ」とイラついた舌打ちが、我慢の限界に聞こえる。
 これでは暴力を奮われるのも時間の問題かもしれない。
 一触即発の不安定なこの時、私もまた窮地に陥れられた。
 このまま見なかったことにして、さっさとこの場から去ってしまおうか。
 幸い近江君は私の事には気がついてない。それなら見ぬフリをしたと思われる事もないだろう。
 しかし体が思うように動かず、足だけがむずむずとしてしまう。
 ダメだ、無視することなんてできない。
 いつも一人でポツンと教室にいる近江君の姿を思い出し、私にだけは声を掛け、口を開けばブンジの事を気にかけてくれる。
 そんな近江君を見捨てることがこの時どうしてもできなかった。
 私は勇気を奮い起こし、覚束ない足取りで近づいていく。
 一体私のどこにそんな思い切った力があったのか、この時自分が何をしているのか全く自覚がなかった。
 頭が真っ白な状態で、近江君だけを見ていた。
「あ、あの、近江君」
 名前を呼んだとき、皆が一斉に私の方を不思議な面持ちで見た。
 意表を突かれて魔法がかかったように、その場に固定されて時間が止まったような瞬間だった。
 体が急激に冷えて、恐怖で全身が震え上がる。それでも後には引けない。
 近江君もその他の上級生達も、頭に疑問符を乗せてあっけに取られて私を見ていたと思う。
 私もまた、気絶しそうなほど極限に達して石のように硬く突っ立って、石像になったような気分だった。
 暫く沈黙が続いたが、近江君がはっとして声を発した。
「な、な、なんだよ」
 人に見られたくなかったとでも言うように、私の登場にかなり動揺して焦っている。
「ん? ハルの知り合いか?」
 さっきまで近江君を脅していた男が言った。
「あ、あの、近江君、せ、先生が、探してたよ」
 不安定に視界が定まらず、完全に目が泳ぎ、震える声で嘘をついた。
「えっ? あっ、そ、そうか」
 近江君も困惑している。
 恐ろしいほどの気まずさが羞恥心を呼び起こし、私はこの上なく居心地が悪くなり逃げたくなった。
 体はその気持ちに反応して、近江君の袖を無意識に引っ張って歩いていた。
「お、おい、遠山、な、何なんだよ……」
 私がぎこちなく体を突っ張らせてスタスタと歩く後ろで、近江君がよたよたしながら、引っ張られるままについて来ている。
「ハル、このまま諦めると思うなよ」
 上級生の男子生徒が、後ろで叫んでいる。
 追いかけて来ないのでとりあえずは助かったみたいだった。
 それでも私はまだ怖くて、そのまま近江君を引っ張って、安全な場所である、先生が一杯居る職員室に向かっていた。
「お前、どこまで俺を引っ張っていくつもりだ。職員室の前に連れてきたけど、本当に先生が俺を探してたのか?」
「えっ?」
 ここでやっと呪縛が解けたように立ち止まった。
 振り返れば近江君が訝しげに私を見ている。それが怒っているようにも見えて怖かった。
「ご、ごめんなさい」
 思わず条件反射で頭を下げて謝ってしまった。
「はっ? 何を謝ってんだよ」
「う、嘘なの」
 私は小さな子供のように叱られるのを恐れながら、上目遣いに様子を伺った。
 近江君はふーと一息ついて、鼻で笑った。
「やっぱりな。で、なんでそんな嘘をついたんだよ」
「だ、だって、近江君が上級生に虐められてたし、助けようと思ったら咄嗟にあんな行動にでてしまったの」
 ここで無表情だった近江君の顔が弛緩して、突然噴出し、その後は体をくの字にするほど思いっきり笑い転げていた。
 今度は私が困惑してあっけに取られてしまい、暫く近江君の顔を困惑の面持ちで見ていた。
「あー、なんか久しぶりに笑ったぜ。でも遠山は俺を助けてくれた事には変わりない。あいつもしつこかったからな。とにかく、ありがと」
「ということはやっぱりいちゃもんつけられてたんでしょ」
「まあな、そういうことになるかな。だけど心配するな。俺一人でなんとかなるから。変なことには首を突っ込まないって決めてるんだ。もう懲りたから」
「えっ? でも、一体何をしたの? 酷いようなら先生に言った方がいいと思う」
 近江君の笑いがまたぶり返した。
「そうだな、反対に言いふらしてやった方がいいのかもな。でも、遠山が心配する事は何もないから気にするな。お前、思い込んだら一心不乱になって無茶するタイプだな。それだけ擦れてなくて、まじめってことなんだろうけど」
 私は返事に困った。
 こうやって近江君と面と向かって話をしているだけでも落ち着かないし、自分でも信じられない行動に出て未だに足が地についてないふらつきを感じる。
 それなのに、近江君は普段めったに見せない笑顔を私に向けて、楽しそうにしている。
 クラスの中では、いつも一人で物静かに机について、誰も人を寄せ付けないのに、しかも上級生にまで絡まれて脅されているのに、それすらを悩むことなくこの態度は明るすぎた。
 益々近江君がわからなくなる。
 ただ不思議な人で片付けるには、何かがひっかかった。
 そう思ったのも、この時、職員室から知らない先生がでてきて、近江君に話しかけたからだった。
「よっ、近江じゃないか」
「あっ、江坂先生」
「この間の中間テストの成績聞いたけど、学年の中で十位以内に入ったそうじゃないか」
「一番じゃなかったのが残念ですけどね」
「おいおい、そんな高見を目指してるのか。すごいな、お前」
「そうだ、先生、あの話なんですけど、ちょうどよかった。今話せますか」
「おっ、いいぞ」
 近江君は私に振り返った。
「遠山、それじゃ、またな」
 さっさと別れを告げると、近江君は先生とどこかへ行ってしまった。
 私は暫く、去っていく近江君の後姿を見ていたけど、いつまでもこうしてもられないので、一人で帰路についた。 
 頭の中で、色んなことがぐるぐると回っている。回りすぎてごちゃごちゃになる程困惑しきっていた。
 近江君がいつも一人でいる理由。私にだけは声を掛けてくる理由。上級生から脅された理由。物静かなのに実際は底抜けに明るいギャップの理由。それらの理由は一体何なのか。
 何もかもが近江君の存在を謎に変えてしまう。
 私は、すでに首を突っ込んでそれに巻き込まれ、一人で踊らされているような気分だった。
 なんだか癪にもさわるし、それで居て近江君の事が気になるし、悶々としてずっとそれに気を取られてしまって、上の空に歩いていた。
 気がつけば知らない間に駅に辿り着いていて、時空を飛び越えた気分になっていた。
 そんなぼーっとしていた時に「おいっ、そこの女子高生!」という声が聞こえても、自分の事とは思わず、ぼけっとしていた。
「おい、無視するなよ」
 太い声が耳元で大きく聞こえると共に、その瞬間いきなり肩を捉まれ私はこの上なく「キャッ」と驚いて飛び跳ねた。
 その後すぐ条件反射で振り返れば、目の前の光景にさらに戦慄し、顔を青ざめた。
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