第一章


 その晩、自分の部屋に篭り、机の上に置いた白い封筒と私はにらめっこする。
 時折、ヒラヒラと振ってみたり、蛍光灯にかざしてみたり、意味もなく触っていた。
 椅子の背もたれに極限まで体を逸れさせて天井を仰いだり、座ったまま勢いでぐるっと椅子を回してしまうのは、イライラが募っている証拠だった。
 最後はどうしようもないと大きなため息が出てしまう。
 白い封筒は近江君の手助けになれる代わりに、希莉に余計なことをする災いでもあった。
 希莉が受け取るのを拒否する姿が想像できる。
 でも私は希莉の友達でもあり、もしかすれば私の顔を立ててくれる可能性もあるかもしれない。
 希莉だって、私に頼みごとをしたことがある。
 それは漫画の貸し借りであったり、宿題を見せることだった。
 私は希莉のためだからと思って、嫌な顔をせずにそれらに応じてきた。
 漫画も汚れるのがいやで、本当は誰にも貸したくない性分だけど、希莉は特別だからと無理して貸した。
 それを希莉が誤って、ページを破ってしまったときは少しびっくりだったが、私は希莉の前では笑って許したし、弁償するといわれても断った。
 希莉が友達だと思ったし、希莉のためなら我慢できた。
 やっぱり希莉が好きだし、希莉に頼まれたら私は断れない部分もあった。
 私がこれだけの事をしているし、いつも希莉の言うことを聞いてるから、手紙を受け取るくらい大丈夫かもしれない。それが持ちつ持たれつの友達というものではないだろうか。
 私は自分が今まで希莉にしてきたことを担保のように見なして、自分の都合のいいようにしか考えられなかった。
「だよね、ブンちゃん」
 私のベッドの上でブンジが丸まって寝ている。
 名前を呼ばれたことに反応して顔を上げ、寝ぼけ眼で私を見つめる。その後は大きなあくびでお口の中を存分に見せてくれた。
 そしてむくっと起き上がっては足を前に突き出し、体をそらして思いっきり伸びをした。
「にゃーん」
 か細い声を出してベッドを降りようと様子をみてる。
 ゆっくりとベッドの側面に前足を置いて慎重になりながら滑るように下りてきた。以前ほど機敏にジャンプができないようだった。
 確かにブンジの動きは鈍くなってきたように思える。
 だけどまだまだ毛並みはよく、食事だってしっかりと食べるので元気ではあった。
 年はとっても、とても甘えん坊で私に抱っこされたいと、足元に来ては私を見上げている。
 私はブンジを抱き上げ、軽くぎゅっと包み込んでから机の上に下ろした。ブンジは目ざとく、すぐに白い封筒に興味を持ち、早速匂いをかいでいた。
 手で少しだけ触ってちょっかいを出すが、大したものではないと判断すると、すぐに興味が失せたみたいだった。
 その後かしこまってちょこんと座わり、私の様子を伺っている。
 頭を撫ぜてやると、いつもの喉のゴロゴロが聞こえ始めた。
「あーあ、ブンちゃんならどうする、この手紙?」
 猫に問いかけても仕方がないが、とんでもない問題を抱えて、次の日、学校に行くのが怖くなっているだけに、つい誰かに聞いてもらいたくなる。
 それが猫であっても。
 ブンジは手紙の事などどうでもいいとばかりに、机の上に座ったまま、素知らぬ顔で顔を洗い出した。
「毛づくろいでキレイキレイだね」
 それを見て、考えていても仕方がないと私は立ち上がった。
「ブンちゃん待っててね。私もお風呂入ってくる」
 お風呂に入れば、少しは気が紛れるかもしれない。さっぱりすることだけは確かだ。
 手紙はそのままにして、まずは自分のことだけを考えた。
 しかし、それがいけなかった。
 お風呂から戻ってきた時、私の気掛かりがボーナスステージのように倍増してしまった。
「あー、ブンジ!」
 私がお風呂に入っている間に、なんとブンジは吐いていた。
 ドライフードがふやけて、食べた時の形がそのままにごぼっとまとまって出ている。
 しかも出渕先輩から預かった手紙の上に見事にクリティカルヒットしていて、私は顔を青ざめた。
「どうしよう。ん、もうブンジめ!」
 すぐに取り除いたが、案の定、封筒はドライフードの茶色い染みがついてしまい、ふやけた状態になった。
 一度ついたこの染みも取れそうにもなかった。
 極力のストレスと、さらに困難な状況に追い込まれ、私は腹が立ってしまい、ベッドで寝ていたブンジを抱き上げ、部屋の外に放り投げた。
「馬鹿ブンジ、なんで大事なものの上に吐くのよ。この大バカ猫。バカバカバカバカ」
 ブンジは突然怒り出した私に怯えていた。
 そして逃げるようにどこかへ走り去った。
「一体どうしたらいいのよ」
 私が途方にくれていると、弟の架(かける)が様子を見に来た。
「姉ちゃん、何を怒ってるんだ」
「あんたには関係ないの」
「なんだよ、機嫌が悪くなるとすぐこうだ。ブンジにもなんか怒ってたけど、八つ当たりはやめろよな」
「何よ、生意気に。こうなったのもブンジが私の大切な物の上に吐くんだもん」
「それは姉ちゃんが悪い。そんな大切なものをその辺に置いとくからだよ。あーあ、ブンジがかわいそう。ブンジだって吐く時は苦しかっただろうに。ブンジの事先に心配しろよ」
「うるさい!」
 私はドアをバタンと閉めた。
 なんだか自分が情けなくなってしまう。
 結局は自分が巻いた種なのに、ブンジや弟に八つ当たるなんて最低だ。
 私は本当に何をしてるんだろう。
 机の上に置いたままの手紙が私の視界にわざとらしいほど飛び込んできた。
 手紙の染みも、まるでどくろのマークのように浮き上がって見えてくるようだった。
 嫌な予感に胃が痛くなる思いだった。

 その次の日の朝、出かけるとき、ブンジが何事もなくソファーで丸くなって寝ていた。
 その時のブンジの姿が健気で、この上なく罪悪感に苛まれてしまう。
 昨晩ブンジに八つ当たりしたことが後ろめたく、いつものようにブンジに触れることができなかった。
 毎朝必ずブンジに「行ってきます」と撫ぜてるのに、この日はそれをせずに静かに家を出た。
 外にでれば、見るだけで気が滅入る暗澹とした雨模様。
 憂鬱に傘を差し、肩にカバンを掛けなおしたこの時、汚れた手紙がとても重く感じられた。
 早くこの面倒ごとを終わらせたい。
 まっすぐ前を見て堂々と歩くことができず、雨が打ちつけられるアスファルトばかりが視界に入り背中が丸まる。
 その側を自転車が通り過ぎ、少し凹んで雨水が溜まっていた部分を走っていった。その時ピチャッと水が跳ね返り、足に冷たい感触が伝わった。
 素知らぬ顔でそのまま進んでいく自転車が恨めしかった。
 いや、問題を全く気にしないでスイスイと逃げおおせたことが羨ましくてたまらなかった。
 朝から大きな溜息をつき、私は学校へと向かう。
 顔を上げれば、暗く垂れ込めた空からの雨は止みそうにもなかった。
 それはこの先の災難が降り注ぐ暗示のように、何か不吉なものを感じさせた。
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