第一章


 個人個人が普通の会話をしているだけなのに、教室に入り込めば意味を成さずにザワザワと雑音になって耳に届く。
 毎日が繰り返される変わらぬ朝ではあるけれど、薄暗い外のせいで、蛍光灯で照らされる教室内が物悲しく見える。本降りの雨の日の朝の教室は独特な雰囲気があった。
 そして私の心の中も然り。こんなじめじめとした日に厄介ごとをしないといけないなんて、それだけでもついていない。
 バッグを机に乗せて椅子に腰を下ろせば、ついため息がこぼれた。焦点が定まらないまま、虚空を仰ぐ。
 鞄の中には例の手紙が入っている。しかもブンジのゲロまみれという代物。
 鞄を開けてもう一度それを確認し、そして辺りを見回した。希莉はこの時まだ来てなかった。
 いつ来るのだろうと教室の入り口を気にしては、暫くの間、人が入ってくる度に一々ドキドキしてしまう。
 先に柚実が姿を現した事が、少し救いになった。目が合うや否や私達はニコッと微笑んだ。
 柚実は迷うことなく私の側にやってきてくれたことが嬉しい。
 雨の日でも柚実は爽やかだった。それに比べて私は──。
「おはよう、千咲都。なんか顔色悪いね」
 心配事が血行のめぐりを悪くして、やっぱり顔に出てくるものだろうか。暗く思いつめたら健康に悪影響をもたらすのだろう。今のところまだ気分だけだが、そのうち胃も痛くなるかもしれない。
「あっ、おはよう、柚実。いや、ちょっとね」
「どうしたの? なんかあったの?」
 柚実が目を一瞬大きくして驚いた様は、親身になって心配してくれているのが伝わる。
 柚実に先に相談した方がいいだろうか。
 でも冷静な柚実は、私の肩を持つことなく、いつも中立で自分で判断しろと放っておくタイプでもある。
 希莉の性格もよく理解してるから、先に止めておいた方がいいと助言することだろう。
 柚実のクールな部分は憧れるし、尊敬もするが、私は合わせるのが精一杯でイマイチ入り込めない形式的な付き合いを感じてしまう。
 だけど、柚実もまた自慢できるほどのレベルの高い友達だった。
 そんな柚実は物腰柔らかく優しい。誰とでも合わせられる人だから、私はそれに甘んじて一緒に居ることができるにすぎない。
 どっちかといえば、柚実は希莉と一緒の方がお似合いの友達だし、私と一緒にいると釣り合わないように思える。
 自分の立場を基準に、人がどの位置にいるかとか、つい私は自分の物差しで人間関係を見てしまっている。
 だけど、高校生では多少の無理をして、自分を演じないといけないようにも思えて、私は精一杯背伸びをしている状態だ。
 本当はもっと気軽に自分の問題を話して、助けて欲しいのに、それを素直に表に出せない間柄は少々虚しいが、見栄と自尊心の高まりを優先しすぎて、そっちを重んじてしまう。
 恥をさらけ出して嫌われることの方が怖かった。
 自分で自分の価値を上げたいがために、無理をしていい子ぶって演じる。
 わかっているけども、すでに始まりをそのように迎えてしまった今では後に引けず、騙しだましに乗り切ろうとしていた。
 柚実の前でも正直に言えず、そして無理して笑ってしまう。
「ううん、なんでもないんだ。ちょっと寝不足」
 しかも嘘の口実をつけて。
「千咲都は頑張りやさんだからさ、夜遅くまで勉強してたんじゃないの」
「ち、違うって。ちょっとネットしててさ」
 また小さな嘘が現われる。そうやって嘘に嘘を重ねて、その場を取り繕っていく。一体自分はどこへ行こうとしているのだろう。
 人に左右されて自分が定まらないで流されていく優柔不断さに、嫌気がさす。だけど変える事はできなかった。
 柚実の前で薄っぺらい笑みを見せている時、教室にまた一人誰かが入ってきた。
 近江君だった。
 静かに自分の席については、人目を気にすることもなく、いつものように本を開いて読み出した。
 人の目を気にしない近江君の態度は、ある意味尊敬の念に値する。
 近江君のように、首尾一貫として自分のしたいままにするのも羨ましいが、一人で友達もなく教室で過ごす勇気など私には到底なかった。
 近江君は上級生に虐められているときも、屈しない態度を見せていた。
 謎だらけな人でつかみどころがないが、芯の強さがあるのはわかった。
 私が近江君の事を考えている時、柚実がくすっと笑ったように思え、キョトンとして柚実を見てしまった。
「千咲都は今思春期なんだろうね」
「えっ?」
 柚実に頭をポンポンと軽く叩かれ茶化された。意味もないコミュニケーションだったが、暫しの間平和に思えた。
 そう、希莉が教室に入ってくるまでは──。
「おはよう。雨で鬱陶しいね。あーもうやだやだ」
 少し濡れた前髪を気にして、軽く指で整えながら希莉が私の前にやってきた。ドキドキと心臓が高鳴り、同時に緊張してくる。
 これから希莉に手紙を渡さなければならない試練が待っている。いつそれをすればいいのか、私はタイミングをじっと見ていた。
「希莉、おはよう」
 柚実と私が挨拶をしても、私達の顔を見ることなくまだ髪の毛を気にしていた。手鏡を取り出し角度を変えながら忙しく指先を動かしているが、思ったように決まらず気分が晴れずにいる。
 これは機嫌の悪いサインだった。決して髪の毛だけが原因じゃなさそうに、希莉が溜息を吐いた。
「希莉、髪の毛ならおかしくないよ。どうかしたの?」
 あまり思わしくない状況に、私は恐る恐る聞いてみる。希莉は手鏡をなおしてから、私と向き合い、大きな瞳で人懐こく見つめた。
 最初から聞いて欲しくて、待ってましたと思わせるような表情。今までが前フリの序章に過ぎなかった。
 構ってくれたのが素直に嬉しいと、その後希莉は惜しみなく心開いて身の上を語りだす。
「ちょっとね、訳ありでさ、大変だったの」
 もったいぶったように始まり、私達が気になって身を乗り出すと、希莉の独擅場が始まった。
 見るからにヒロインで違和感がないからさまになっている。
「彼と喧嘩しちゃってさ。それでむしゃくしゃしてたの。もう酷いんだよ」
 この先ももっと聞いて欲しいと小出しに語り、私達の好奇心も増してくる。
 何が起こったのだろうかと、ハラハラしていたその時、タイミングよくスマホの音が鳴り、希莉ははっとしてすぐにスマホを取り出し確認しだした。
「あっ、噂をすれば彼からのメールだ」
 ぱっと表情が明るくなるも、暫く画面を見つめ翳りだした。納得行かずぷくっと頬が膨れる。
 柚実と私は、困ったように顔を見合わせ、苦笑いになっていた。
 希莉は我が道を行くタイプだから機嫌が悪くなるとあれこれ言っても仕方がなく、放っておいて成り行きを見守るしかなかった。
 それにしても、今日という日になんというバッドタイミングだろう。
 希莉は私達が居る事も忘れて、忙しく指を動かし返事を書いていた。
 それを送ってから、やっと私達と向き合った。
「ごめんごめん、私情を挟んじゃって。いつものことなんだ。彼ちょっと忙しくてさ、今度のデートもキャンセルされて、それで昨晩電話で文句言って言い合い になっちゃった。それで浮気しちゃうから、なんて口走ってしまったら、売り言葉に買い言葉でさ、やれるもんならやってみろよとか言うから、益々腹が立っ ちゃってさ。どっちも後に引けなくて、今朝はメールでお互いの様子の探りあいって感じなの」
 私には実感が湧かない話だった。
「本当はどっちも好きなのに、好き過ぎて甘えて言いたい放題って感じだね。結局はのろけだわ。ごちそうさま」
 柚実はさらっとコメントしていた。
 希莉も痛いところ突かれたのか照れるように笑顔を見せていた。
 喧嘩したといっても、それも楽しい出来事みたいに私には思えた。
 こういう話題も私は苦手だ。
 自分には程遠く、上手く話しに乗れずに少しもやもやしてしまう。羨ましいやっかみもあるのかもしれない。
 それでも無理して話に入ろうと試みる。
「早く仲良くできるといいね」
 当たり障りなく、無難な受け答え。他人事だから簡単に口先から出る言葉だった。
「だけどこのまま仲直りするのも癪だな。結局は彼に振り回されてるだけって気がして」
 その時私は閃いた。話を上手くもっていけるかもしれない。
「だったらさ、ヤキモチ焼かせるためにもちょっと浮気するフリでもしてみたらどうかな」
 ここで希莉が笑って「そうだね」と言ってくれたら、私の手紙も渡し易くなるんだけど、希莉お願い、そう言って。
 私の願いが通じたように、希莉は笑ってくれた。
「ちょっとお仕置きするみたいにヤキモチ妬かせるってこと?」
「うん、そうそう」
 これは上手くいくかも。
「彼は割りと大人だから、私がそんな事できないってわかってると思う。だから『やれるものならやってみろ』って言われちゃったんだ」
 まだこの時、希莉は笑っていた。これはもしかしてあの手紙を渡せる最高のタイミングかもしれない。
 雨雲から晴れ間が覗くような希望を見い出し、私はこのノリに合わせてとうとう切り出してしまった。
「実はさ、希莉にお願いがあるんだ」
「どうしたの急に?」
 私はカバンから例の手紙を出した。
 希莉の前にそれを出すと、訝しげな表情でそれを見つめた。
 柚実も、何も言わずに何が始まるのかをじっと見ていた。
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