第二章


 手紙が係わってこなければ、草壁先輩とも会う事はなかったし、更に肩を並べて一緒に歩く事もなかった。その手紙も近江君のピンチを助けるために受け取ったことだが、近江君と草壁先輩も繋がりがあった。
 近江君と知り合った事が全ての起因となって思いもよらない方向へ流れていく。
 草壁先輩が身近にいて、私に話しかける今、どうしてこうなった? と地に足がつかずにソワソワしてしまった。
 意味もなくチラリチラリと草壁先輩の横顔を見てしまう。目が合えば、その都度ドキッとしてヘラヘラする。
 草壁先輩はかっこいいし、そんな人に親しくされれば、少しだけ優越感も現われるが、この状況が自分には合ってないというのもヒシヒシと感じるから、無理をしてしているのが苦しい。
 でもこのドキドキが癖になりそうでもあり、訳がわからないと目が回りそうだった。
 駅に辿り着いてホームが違うと知った時、やっと開放されて落ち着いた。
 頭を深く下げて、さよならをすれば草壁先輩は「またね」と手を振ってくれた。
 一度声を交わして知り合ってしまったその後、再び草壁先輩と出会うことが怖く感じてしまった。できることなら一期一会でお願いします。
 あまりにも住むべき場所が違うと、知り合っても重荷になってしまう。
 しかし、一人になって振り返れば、後から恥かしさがじわじわとこみ上げてきた。こうなると、体全体がむず痒くなり、のた打ち回りそうなのを必死に耐えて、電車のつり革の握る手に力が入った。
 話そうと無理をしていた事もあるけど、調子に乗ってベラベラと自分の悩みを話してしまったことがこの時になって悔やまれる。
 自分は一体何をしてたのか、こんがらかって全てを上手く整理できないでいた。
 波乱万丈な高校生活。こんなはずじゃなかったのに──。
 やっとの思いで家に帰れば、ブンジが玄関で「ニャー」とお出迎えしてくれた。
「あっ、ブンジ」
 ブンジには記憶力がないのか、それとも懐が大きいのか、昨晩八つ当たりしたことを微塵とも感じさせずに接してくれている。
「ブンジ、昨日はごめんね」
 頭を撫ぜてやるといつものようにゴロゴロと喉を鳴らして目を細めていた。
 私も力尽きていたこともあり、疲れた足取りで自分の部屋に向かい、ブンジの事をそれ以上構ってあげられなかった。
 自分の事で精一杯。
 ブンジも空気を読んだように、じっと座ったまま目で私を追っていたけど、その後はお気に入りの場所へと行ってしまった。
 自分の部屋に入ると、カバンを放り投げ、ベッドに横たわる。
 じっと天井を見つめ、とりとめもなくこの日の出来事を振り返る。
 ──希莉。
 このまま仲が戻らなかったら私は残りの高校一年生をどうやって過ごせばいいのだろう。
 近江君を見習い、私も本を読むなりして休み時間を過ごそうか。
 近江君が先にそうしてくれてるから、そういうのが教室にもう一人増えたところで、あまり不自然に思われないかもしれない。
 でも近江君は好き好んでそうやってるし、私は仕方がないからそうなってしまったとでは意味が違ってくる。
 正真正銘のぼっちではないか。
 こんなことならもっと幅広く知り合いを作って、どこにでも所属できるようにしとけばよかった。
 それを希莉や柚実と一緒に居ることが最高のように思い、ずっとそれにしがみついて結局は失速してしまった。
 草壁先輩は全てを話した方がいいようなことを言っていたが、近江君の虐めの問題を話したところで、私がお節介をなことをバカにしないだろうか。
 希莉はそういうことを持ち出して冷やかしてくるから、それも嫌だ。
 しかしその前に、そんな事で自分を利用しようとしてたと思われて余計に怒ったらどうしよう。
 そっちの方向もありえる。
 希莉ってなんだか気難しい。
 思った事を何でも口にしては、私はいつも聞く側だったけど、時々引っかかってアレって思うこともあった。
 それでも何も言わずに、うんうんと同意して、希莉に反論することなくいつもニコニコして済ませてた。
 例えそれが自分の納得いかない事であっても。
 私は常に希莉の味方でありたかったし、希莉に合わせて溶け込みたかった。
 そんな私の努力も考慮されずに、一方的に『鬱陶しい』なんて、自分が馬鹿みたいで情けない。
 それだけ希莉は私の事、友達と思ってなかったんだろうか。
 あれだけ可愛く、自分の意見もはっきりといって、しっかりした性格だけど、希莉はそれらを鼻にかけずに私と接してくれてると思ってた。
 どうしてもため息が漏れてしまう。
 頭の中で考えるだけでは何も解決しないのに。この問題を乗り切るためにはどう対策をとればいいのか。
 それを考えたとき、閃いてガバッと身を起こした。
「そうだ、本だ」
 休み時間を一人で過ごすための道具。まずは保守的に一人になってもおかしくないための理由を作ればいい。
 自分の本棚を覗き、持っていけそうな本を探した。だけどそこにあるものは殆ど漫画ばかり。
 仕方がないので、弟の部屋のドアを叩いて、入っていった。
 机に向かっている弟が、鬱陶しそうに私に振り向いて、露骨に顔を歪めた。
「なんだよ。勝手に入ってくるなよ。俺、今宿題してるんだけど」
「あのさ、なんか面白い小説持ってない?」
「小説? 何すんだよ」
「もちろん読むに決まってるでしょ。あったら貸してよ」
 どんな本を持っているのか知りたくて、勝手に弟の本棚を物色する。
「ちょっと、勝手に触るな」
 弟は荒ぶりたい年頃で、私との接触を嫌がる。丁度難しい中学二年生のときだから、一度は通る道なのだろう。
 小さい時はまだ可愛げがあったのに、身長も私より少し高くなって、ふてぶてしくなった。
 弟が嫌がるのも気にせず、遠慮なく本を手にとってみる。
「ちょっとこれ何よ、ゲーム攻略本とか、漫画ばっかり」
「人の事言えるのかよ」
 もちろん言えない。
 かろうじて字が詰まった小説と呼べる本があったので、それを借りることにした。
 しかし、表紙は漫画みたいな絵が書いてあって、内容がなさそうな本だった。
 私の持ってる漫画よりかは、活字で埋められてるからまだましだったけど。
「これ借りるね」
 それを手にして部屋をでようとしたとき、弟が話しかけてきた。
「姉ちゃん、最近さ、ブンジよく吐くよね」
「昨日もやってくれたしね。猫は毛玉とか胃に溜まるとすぐに吐いちゃうし、よくあるから仕方ない。お蔭で今日一日大変だったんだから」
「なんでブンジが吐いたら、姉ちゃんが大変になるんだよ」
「連鎖反応でそうなったの。今、お姉ちゃんは高校で大ピンチなの。あーあ」
「変なの」
 弟の部屋のドアを閉めた後もまたため息が出ていた。
 夕飯を食べるときも、あまり食欲がなくご飯が喉に通らなかった。
「あら、チーちゃん、ダイエットなの?」
 母は暢気に軽々しく言ってくれる。その隣で父は新聞を読みながら、茶碗だけを母に向けた。
「お母さん、ご飯お代わり」
 二人とも私がどれほど悩んでいるか知る由もなかった。
 知られても詳しく追求されれば困ってしまうし、もし気付いて聞かれたとしても、やっぱり『別に』の一言で済ましてしまうことだろう。
 結局放って欲しいのか、構って欲しいのか自分でもよくわからない。
 私は父と母を上目遣いに、お味噌汁をすすりながら何気に見ていた。
 ご飯中も新聞を読んでる父に対してどこか不満げになっている母は、諦め気味にご飯をよそったお茶碗を差し出した。
 父もせめて受け取る時くらい、母の顔を見ろよといいたくなるくらい、機械的にそれを受け取っていた。
 でも、父の読んでる新聞は英語だから、そんなのが理解できる方がすごいし、食事中は読むななんて偉そうなことは私には言えない。それもビジネスの一環とわかってるからだ。
 時間に追われる毎日だから、食事中も無駄にはできない。逆に良くやってくれてると感謝するくらいかもしれない。
 母親もそれが分かってるから、文句も言わず無理して放っておいているだけなのだ。きっと私に対しても本当は何か言いたくてもわざとはぐらかしてるだけなのかもしれない。
 父を見ても、やはり目の動きが機敏だった。速読するくらいの速さで父も英字新聞の内容を頭に入れようと必死なんだろう。
 まさに時間に追われてご飯を食べているその姿は、なんだか気の毒に感じてきてしまった。
 忙しそう──
 そういえば近江君も時間がないと言っていた。一体何をしてそんなに忙しいのだろうか。
 こんな時に近江君の事を考えても仕方がないと、私は気を取り直し、目の前のおかずをお箸でつつく。
 足元から小さく「ミー」という声が聞こえた。
 ブンジがかしこまって座り、首を上に向けて私の様子を伺っていた。目が合うと、期待を込めて瞳孔を真ん丸く大きくして私をじっと見つめだした。次に前足を私の膝まで持たせかけて二本足で立ち上がって催促する。
 ここまでされると無視できず、おかずを差し出せば、ブンジは喜びいさんでそれを口にした。
「姉ちゃん、人間の食べるものはブンジに与えるなよ。体に悪いんだから」
「少しぐらい大丈夫だって。それに無視できないくらいかわいいんだもん。ねぇ、ブンちゃん」
 八つ当たった罪滅ぼしも入っていた。
 ブンジがおかわりを欲しそうにしている姿がたまらなくかわいくて、私はどうしても放っておけなくなり、またあげてしまった。
「そういえばなんだかブンジは痩せたみたいだな」
 読み終わった新聞紙を閉じながら、父が言った。
「今まで太り気味だったから丁度いいんじゃないの」
 私がそれに答えた。
 自分の話題が食卓でされてることも知らずに、ブンジはまだ餌がもらえないか、私の顔をじっと見ていた。
 私だけを頼るブンジがかわいい。私とブンジの間には信頼感があるように思う。
 ブンジは犬のような性格と近江君にも紹介したけど、まさに今そんな感じだった。
 ブンジの事を気にかけてくれる近江君にも、この姿を見せてあげたいとふと思った。
 実物のブンジを見せたら喜ぶかもしれない。なんだか近江君にブンジを無性に見せたくなってくる。
 学校に連れて行くことはできないけど、私はスマホでブンジの写真を撮って、それを近江君に見せることを思いついた。
 そう考えると、少しは楽しみができて希望が持てるようだった。近江君なら構ってくれそうな期待もあった。
 猫好きの近江君。クラスではいつも一人。だけど私には声を掛けてくる。本当に不思議な奴。
 足元でかしこまるブンジの頭を撫ぜながら、私は近江君の事を考えていた。
inserted by FC2 system