第二章


 モヤモヤと抱え込み、上手くいかない毎日にイライラとしてしまい、それと同時に明日はどうなるかという不安も湧くし、どうしようもなく疲れ果てながら帰路についていた。
 家に戻ったとたん気の緩みで、普段の素の部分が飛び出してしまう。
 ストレスが溜まっているから乱雑に靴を脱ぎ、どたどたと廊下を歩いてキッチンに飛び込んだ。
 八つ当たり的な部分もあったが、一番自分の感情に素直になった姿でもあった。
「あーもうやだやだ」
 鞄を適当に床に置いたあと、私は冷蔵庫を開け、冷やしてあった麦茶のピッチャーを手に取り、戸棚からグラスを取り出すとそれをコポコポと注いだ。
 ピッチャーも手にしたまま、グラスを口許にもっていき、仁王立ちで一気にごくごくと息継ぎなしに麦茶を喉に流し込む。
 その後は肺に溜まっていた空気を鯨のように吐き出した。
 それではまだ足りないと、再びグラスにお茶を注ぐ。まるで自棄酒のように、無理して再び飲んでいた。
 しかし二杯目はグラス半分を飲んだ頃に、突然むせて咳き込んでしまった。
 腰を屈め苦しい思いをしながら、グラスをキッチンカウンターに置き、ピッチャーをまた冷蔵庫に戻してバタンと扉を閉めた。
 冷蔵庫の扉を背中で押さえたまま、咳き込んでいると後ろから声を掛けられた。
「姉ちゃん、何してるんだ?」
 先に帰っていた弟の架(かける)だった。
「ちょっとむせただけよ」
「なんかつっけんどんな言い方だな。学校でなんかあったんだろう」
「うるさいわね。あんたには関係ないの」
「あーそうですか。折角心配してやったのに」
「あんたの心配なんて要らないわよ。それよりもブンジはあんたの部屋なの? 家に帰ってきてもお出迎えがなかったから、あんた部屋に閉じ込めて独り占めしてるんでしょ」
「ブンジならお母さんが獣医に連れて行ったよ」
「えっ、どうして? ブンジどうかしたの?」
「なんか気だるそうにじっとしてたみたいなんだって。熱でもあるんじゃないかなって言ってた」
「やだ、ブンちゃんが病気だなんて」
「でも大丈夫なんじゃないの。猫だって風邪くらい引くだろうし。今季節の変わり目だから体調崩してるんだよ」
 私がオロオロとしているのに、架は何事もないように言いながら、居間のソファに座ってテレビを観だした。
 薄情な奴と思い、私は鞄を手にして自分の部屋に向かう。
 その途中で、架の部屋のドアが開いていてふと中を何気に覗いたとき、机の上に置いていたノートパソコンが目に入った。
 そこには猫の画像とともに、様々な猫の病気についての記述がなされているページが開いていた。色々と検索して調べていたようだった。
 架は架なりにブンジの事を心配していた。その行為がなんだかいじらしい。
 自分なりに納得しようと情報を集めた上で架は落ち着かない気持ちを解決しようとしていた。
 普段部屋で閉じこもり気味になるのに、ブンジが戻ってくるまで落ち着かず居間でテレビを観て過ごそうとしているのだろう。
 架の方が自分よりしっかりとしているように思えた。
 もちろん病気の事は心配だが、私は早くブンジを抱きしめて、愚痴を聞いてもらいたい気持ちの方が強かった。
 こういう時は猫を抱きしめると、とても落ち着く。
 ブンジは抱かれるのが大好きだから、いつまでも抱っこして気を紛らわしたい気分だった。
 嫌なときは猫を抱きしめていつまでもその可愛い顔を見つめていたい。
 それが私のストレス解消法でもある。猫好きな人なら絶対理解してもらえるだろう。
 ブンちゃん、ブンちゃん、ブンちゃん!
 早く帰って来て。
 自分の部屋に入るなり、鞄を放りなげ、そしてどかっとベッドに腰を下ろせば、背中が丸まりそして溜息が大きく一つ出てきた。
 暫くそのままでボーっと過ごしてしまった。
 そうしてるうちに母がブンジと獣医から戻ってきた。私も架もすぐに母とブンジを取り囲んだ。
 床にそっとケージが置かれ、それを覗き込むと、ブンジは緊張した面持ちで体を縮こませ、這い蹲るように伏せていた。
 ケージのドアを開けると、ブンジはうなぎみたいにするっと滑べるように出てきて、自分の慣れ親しんでる家でありながら警戒して体を低く保ってスタスタと走っていった。
 私はブンジを追いかけるが、追い詰めた先でブンジは気分を害していて体を強張らせ、少し怯えたような振舞いを見せた。
「ブンちゃん、大丈夫だよ」
 そっと優しく体を撫ぜてやると、ブンジはいつものように喉をゴロゴロと鳴らしだした。これが聞きたかった。
「それで、ブンジはどこが悪かったんだよ」
 架がキッチンでバタバタとせわしなく動く母に訊いていた。
 冷蔵庫から夕食の食材を取り出しながら母はさらっと答える。
「便秘だって。年を取ると排便がしにくくて、便が固まって出にくくなるんだって。それで獣医さんに出してもらったら、すぐに良くなっちゃったみたい」
「それじゃかなり溜まってたんだな。かわいそうに」
 架は食卓の上に置かれていたブンジの薬を手に取り、それを眺めながらほっとしていた。それは液体が入ったボトルだった。
 ブンジはこれからそれを毎日摂取しなければならない。でもそれは人間にも適応するようで、舐めるととても甘いらしい。
 そういうものなら、錠剤の薬よりかはちょっとは楽にあげられそうだった。
「ブンちゃん、便秘だったのか。そっかそっか」
 私はブンジを抱き上げ、そしてソファーに深く腰掛けた。ブンジはすっかり落ち着いて私の腕の中で喉をゴロゴロ言わせている。
 つい見つめたくて目を合わせてしまうのだが、猫にとってそれは敵意を持った威嚇のしぐさになるので、やってはいけない行為である。
 でもこのときブンジは目をゆっくりと閉じて瞬いた。
 ブンジにとってこれは、自分は敵ではないという意味で、私に心許してるから自ら折れるしぐさでもある。
 それは猫にとってはストレスの元になってしまうけど、目を瞬いて安心させようとするブンジの仕草が愛おしくてついわざとやってしまう。
 その後は私も思いっきり目を瞑って、敵意を持ってない事を伝える。
 それだけで、ブンジに愛されてると思えて、私は満足してしまうのだ。
 やっぱりブンジはかわいい。
 学校であったいやなことをブンジに愚痴りたいが、家族の前ではさすがにできずに、私は赤ちゃんのようにブンジを思う存分抱いていた。
 そんなとき、架がおやつの入ったパウチを見せるから、ブンジが落ち着きをなくして、私の腕から飛び出そうとしだした。
「ちょっと、架! 邪魔しないでよ」
「獣医のとこいって嫌な思いしたんだから、ご褒美くらいあげてもいいだろう。ブンジ、おいで。ほらほら」
 こうなると動物の本能は私への愛よりも食欲にいってしまう。ブンジは軽く暴れた後、私の腕から飛び出して架の方へと行ってしまった。
 でもブンジがアグレッシブに餌を求めている姿に少し安心する。
 架から餌を貰うと、必死になって噛み砕いて食べている姿は、まだまだ大丈夫だという気持ちにさせてくれた。
「架の指もいっしょに噛んじゃえ」
 そう言ったとたん、本当に噛まれて架の「うわぁ」という悲鳴が聞こえた。
「ブンちゃん、グッドジョブよ」
 思わず笑ってしまう。少しだけ気が紛れる瞬間だった。
 でもまた明日が来れば、希莉と会うのも怖いし、上級生と出くわすのも怖い。
 不安定な気持ちを抱え、それを払拭しようとブンジをじっと見つめることしかできなかった。
 おやつを貰った後のブンジはしきりに口の周りを舐め、そして次に手も舐めてその後は顔を洗いだした。それを暫く見つめていると、やっぱり和んでくる。
 悩んでも仕方がないと明日の事はその時が来たら考えることにした。
 ブンジの毛づくろいを見ているとき、また近江君の事を考えてしまう。
 近江君がブンジを見たら、同じように可愛いと思ってくれることだろう。この姿を見せてあげたい。
 そんな事を考えていると、まだなんとか教室に足を踏み込めそうに、少しだけ勇気が湧いてくる。
 明日は何気に近江君に話しかけてみようか。まずはブンジが獣医に行ったことをいってみようか。
 ブンジの話ならきっと近江君は聞いてくれる。
 勝手にシミュレーションして、近江君と向かい合っているその時の様子を頭に思い浮かべていた。
 そしてブンジにスマホを向け、毛づくろいしているところを動画で撮っていた。
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