第三章


「危ない!」
 四方八方から悲鳴に似た声が聞こえたとたん、バーンというとてつもないエネルギーを顔に感じ、鼻にスイカが押し入ってくるツーンとする衝撃が走った。
 脳天をつくようなかち割られた痛さ、そして後ろに倒れ込んでお尻まで痛い。
 気が遠くなりかけて痛さに悶えて蹲(うずくま)っているとドタドタと何本もの足が慌しく集まってきて私を取り囲んだ。
「大丈夫か」
 大丈夫じゃない。痛すぎる。
 フンガーと息も絶え絶えに苦しんで地面に座り込んでいた私の体が、引き上げられた。
「ほら、立つんだ。しっかりしろ」
 がっしりと支えられ、部室へと連れて行かれる。
「だ、大丈夫ですがら゛」
 鼻にかかっただみ声で懸命に答えるも、実は全く大丈夫ではない。
 ヨタヨタとふらついて、崩れるように椅子に座ればやっと気がついた。私を支えて運んできたのは草壁先輩だった。
「もう、一体何やってるのよ」
 サクライさんが部室に駆け込んできた。
「すみません」
 鼻を押さえながら涙目で謝った。
「仕方ないだろ、あんなスピードで飛んできたら咄嗟に避けろって方が無理だよ」
「草壁先輩、私は大丈夫ですから、どうぞ練習続けて下さい」
 弱々しく答えたが、実際痛くて目に涙が溜まっていた。
「ん、もう。世話が焼けるわね。マネージャーが怪我してどうするの」
 そういいながら、サクライさんは準備周到に濡れたタオルを私の顔に当ててくれた。瞬時に判断して用意してくれたのだろう。
 ひんやりとした感触が熱を持った鼻の痛みを和らげて行く。
「でも、あんなボールをまともに顔に受けて、鼻血が出ないってすごい頑丈な鼻だな」
 草壁先輩に言われ、私は鼻をすすってみた。鼻はもげることなくそこにあったのでとりあえず無事のようだ。
「もう、バカなんだから。ほら良く見せて」
「おい、櫻井、もっと優しくしてやれよ。お前の代わりに無理を言って来てくれたんだぞ」
「分かってるわよ。とにかくここは私に任せて、草壁君は練習に戻って!」
「ハイハイ、わかりました。マネージャー殿」
 草壁先輩は部室を出て行った。
 二人の会話になんだか違和感を覚えるのはどうしてだろう。何かがしっくり来ない感じがあった。
「ほら、ぼけっとしてないで、こっち見て」
 櫻井さんは乱暴に私の顔を自分に向けた。
 まじかでみる櫻井さんはやっぱり美しかった。なぜこんな美女を草壁先輩は放っておくのだろう。二人とも美男美女でお似合いのカップルなのに。
「後で腫れるかもしれないわね。まあ、血も出ず、傷つかなかっただけよかったけど。あら、手がちょっとすりむいてるわね」
 尻餅をついたとき、とっさに手が地面について手のひらが擦れたのだろう。擦り傷から薄っすらと血がにじんでいた。
 櫻井さんは救急箱を取り出し、慣れた手つきで私の手を消毒してくれた。
 こんな美人に傷の手当なんてされたら、もういちころでほれてしまいそうな気分だった。
 こういう人程、サッカー部には必要なのに、なぜ恋に破れただけで辞めなければいけないのだろう。
 私ですらずっと居てほしいと思ってしまう。
 サクライさんに嫌われていると分かっていても、私はサクライさんに頼りたくなる。
「サクライ先輩、どうか辞めないで下さい。私には代わりは務まりません」
「今更何を言うの。もうすでに決まったことなの。大失態をしてショックかもしれないけど、すぐに慣れるわよ。とにかく遠山さんには頑張ってもらわないと。こんなことで弱気になってるんじゃないの! あなたもっとしっかりとしなくっちゃだめよ」
 プリプリと怒っているみたいで、私は萎縮してしまう。
「はい」
 とりあえず返事はしておくが、自分が嫌われているのが少し辛かった。いつか下駄箱に入っていた手紙を思い出してしまう。
 きっとサクライさんは葛藤してるのだろう。こじれてしまった草壁先輩との恋。そして急にしゃしゃり出て草壁先輩に接近してしまった生意気な一年生、そう、それが私。
 だけど自分がマネージャーを辞めることで、急遽代わりが必要なところ、皮肉にも私が後釜に決まってしまった。
 クラブのためには必要なマネージャーだが、その反面、草壁先輩に益々近づいてしまった私の存在。
 それでもサクライさんはクラブの事を優先して、大人な対応をしている。
 だけど私はサクライさんに嫌われても、そんなことお構いなしに彼女に好感を持っている。
 なぜだかサクライさんを見ていると、好きにならずにはいられない。
 外見の美しさもさることながら、キビキビとした姉御肌の性格が頼りたくなってくるほどに惹かれてしまう。
 自己管理ができて、瞬時に判断してテキパキと動ける活発さがとても魅力的だった。
 頭のよさも伺え、こんな女性になれたらどんなに素敵だろうと憧れてしまう。
 でも恋に関しては不器用な所があるのだろうか。草壁先輩となぜ上手くいかないのか私には不思議だった。
「ほら、またぼーっとしてるじゃないの」
「すみません」
「いい? みんなが練習してる時は常に先の事を考える癖をつけるのよ。不測の事態も含め、いろんな『もしも』の過程を想定しておくの。ぼーっとして立ってるだけでいいのなら、人形と同じよ」
「はい」
「分かったらそれでいいから。それじゃ、今日は早く帰った方がいいわ。私から皆に伝えておくから」
「でも」
「何がでもなの。そんな放心状態で練習してる場所に立ってたら、またボールが飛んできて避けられないわよ」
「わかりました。ありがとうございます。ご心配お掛けしてすみませんでした」
 サクライさんは機敏にグラウンドに戻っていった。私は言われた通り早く帰ることにした。
 部室を去ろうとした時、加地さんが用事で戻ってきてちょうど入れ違いになる。
 何も言わなかったが、冷たい視線が全てを物語っていた。
「今日はお先に失礼します。迷惑掛けてごめんなさい」
 最低限の礼儀をしたつもりだったが、加地さんはそれには答えてくれなかった。
 露骨に無視されるのも辛いが、マネージャー同士が仲が悪いのはやりきれない。
「あの、加地さん……」
 私が振り返って声を掛けると、加地さんは嫌悪感をあらわにして私を睨んだ。
「えっと、その、気に入らない事があったら直接行って下さい。直しますから」
「別に……」
 本当は腹に抱えているのに、敢えて言わずに威嚇するような答えだった。
「それならいいんだけど。それじゃお先です」
 今度こそ帰ろうとしたとき、草壁先輩が慌てて部室に駆け込んできた。
「千咲都ちゃん、帰るんだって。俺も一緒に帰るよ。どうせ今日は早めに切り上げる予定だったから」
「えっ、そんな」
「いや、後から症状がでる場合もあるから、念のため誰か側に居た方がいいだろ」
「は、はあ」
 草壁先輩の申し出を断りきれず、曖昧に受け入れてしまった。
 この時加地さんが一層キーっとしたのが、ピリッと肌に感じたように思えた。
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