第三章


 あの後、自分がどうやって家に帰ってきたのか覚えてなかった。
 自分の部屋のベッドに横たわりずっと天井を見ていると、体がふわりふわりと浮いてる錯角を覚え、自分がどこにいるのかわからないようになってくる。
 弟の架が、派手にドアを開けて部屋に入ってきても、すぐには誰だか認識ができなくて思わず「誰?」と聞いてしまうほど、私の頭のヒューズは飛んでいた。
「はぁ? 誰って、冗談のつもりなの? 全然面白くないんだけど。それよりさっきから夕飯だって呼んでるのに、なんで来ないんだよ」
「夕飯?」
「そう、今日はすき焼きなんだぞ。お母さん、すでに用意初めてるんだから、煮詰まっちゃうじゃないか」
「好きっ、えっ、好きって、そんな、えっ」
 『好き』という言葉に異常に反応してしまい、私はベッドから起き上がって部屋の中をうろたえた。
「姉ちゃんどうしたんだよ。何やってるんだ」
「えっ?」
「えっ、じゃないよ。寝ぼけてるんだったら、早く目を覚ましな」
 架は頭をポンと叩くが、私は何の反応も見せなかった。
「えっ、姉ちゃん、ちょっと大丈夫か。いつもなら、食って掛かって追いかけてくるのに。一体どうしたんだよ」
「ん?」
「もう、話になんない。とにかく早く下りてきて。先食べちゃうからね、すき焼き」
「スキ……ヤキ……」
 架は私を放って、部屋を出て行ってしまった。
 開けっ放しになったドアの外にブンジが構って欲しそうに覗いている。
 いつもなら、猫なで声を出して「ブンちゃん〜」と呼んで抱っこするが、この時の私はそれどころじゃなかった。
 ブンジは相手にされないのを判断すると、静かに姿を消した。
 いつも何かある度にブンジを抱っこして話をしていたのに、それができないほど私は草壁先輩の告白に心を捉われ過ぎて、現実に帰ってこれない。
 まさか、サッカーボールが顔を直撃してから、私は意識不明の重体になり、今その生死の境目を彷徨って夢の世界に居るのではないだろうか。
 よくある現代ファンタジーの展開じゃないか。そして、トワイライトゾーンに入り込んでここから全てが上手くいきだして、信じられない事のオンパレード。
 落ちで実はいつまでも意識が戻らない、夢落ちパターン…… って一体私は何を考えてるんだ。
 それだったら不幸そのものだ。
 馬鹿げたことを考えている時、下から『すき焼き』のいい匂いがしてくる。好きと告白を受けた日にすき焼き。この日を『好きすき焼き記念日』と命名したくなった。
 食卓では電気鍋からぐつぐつと勢いよく湯気が立っていた。
 架はすでに箸を鍋に入れて、肉に手をだしていた。その隣でお父さんが相変わらず新聞を読んでいる。お母さんはテーブルの横に立って、鍋に具をいれていた。
「チーちゃん、早く座って食べなさい。ほら、架、欲張ってお肉ばっかり取らないで野菜も食べなさい。お父さんも、新聞は後回しにして早く食べて下さい」
 鍋奉行じゃないが、食卓の上で直接料理するのは気が高ぶって落ち着かないのだろう。みんなのために忙しく動き回って、すぐに食べられない母が気の毒だった。
「お母さん、私が具をいれるからゆっくり食べて」
「いいのよ、気にしないで早く食べなさい。ほら、お父さんも、いつまで新聞読んでるの。早く食べて下さい」
「時間がないんだから、好きなようにさせてくれ。ちゃんと食べるから」
 いつものようにご飯を食べる時間も惜しんで、新聞を読んでいる父。
 その新聞は、横文字でアルファベットが一杯並んでいる。そんなのを辞書なく読めるのは尊敬する。
 お父さんが、その新聞を読みながらご飯を食べていると、それは娯楽でも趣味でもなく、勉強しているように見えて仕方がない。そして時間を無駄にせずに勉強するといえば近江君を関連して思い出してしまうのも最近の傾向だった。
 別に今、近江君を思い出している余裕なんてないのに、こんなときでも近江君は私に何かを知らせようと気を遣って現われたんだろうか。
 そういえば近江君も『草壁と上手くいってるか』とかちらりと訊いてきたように思う。
 あのときは深く考えなかったけど、なぜあんなことを早くから聞いてきたのだろうか。
 だけど、ほんとに草壁先輩が私に秘密を打ち明けて、告白してきた。近江君はすでにこの事もお見通しだったんだろうか。
 告白されて、戸惑っているけど、正直乙女心が疼いてドキドキと心地よい。やっぱり憧れていた漫画のシチュエーションが現実に起これば嬉しいもんだ。
 しかも、サッカー部のエースという肩書き、そしてハンサムで女子生徒の憧れという存在。
 そんな王子様が私を好きだなんていうんだから、舞い上がらないはずがない。
 でも私はあの時、返事ができなかった。素直にその告白を受け入れられなかった。
 決してじらした訳ではない。
 嬉しかったのは事実としても、そこに私が付き合いたいという気持ちが乗っかってなかった。
 まだブレーキがかかって、どこかで警告音が鳴り響く。何を恐れているのか、なぜ憧れていたこのチャンスを素直に受け入れないのか、それは自分でもはっきりと説明できなかった。
 だからといって、きっぱり断ったわけでもなかった。私はどうしていいのかわからないだけで、適切な言葉が口から出てこなかった。
 あの時、草壁先輩はすっきりとした顔をして言った。
「今すぐに返事してとは言わない。千咲都ちゃんだって、急にこんな事言われて困るよね。それに君のそのリアクションは僕の想像通りだったんだ。君ならまず驚いて言葉に詰まるだろうって、なぜか感じた」
「でも、私、そんな、恐れ多くて、信じられなくて、その、えっと、草壁先輩は本当に素敵な人です。そんな人から言われたらやっぱりびっくりして、その、つまり、わ、わかりません」
 その後は、目の前のアイスティを一気に飲み干してしまった。
 あの時、心の底ではやっぱり憧れもあったから、はっきりとは断れなかった。だけど自分は草壁先輩の彼女になるだなんて考えられなかったし、まずレベルがあってないと申し訳ない気持ちの方が大きかった。
 いつも会う度に緊張しているというのに、こんなのがずっと続いたら、余計にストレスたまりそう。
 私こそ嫌われたくないという気持ちに縛られて、背伸びをした猫かぶりになってしまう。
 慣れないから、恋の駆け引きやら、付き合う意味がまだピンとこなくて、その後は考えすぎて血迷ってしまった。
 ただ、乙女心を刺激されてぽわーんとしてしまって、その部分はドキドキと快感だった。
 櫻井さんが草壁先輩を好きではなかった事も、かつて草壁先輩が櫻井さんを好きであったことも結構衝撃だったから、そんな事を聞いた後すぐに、はい分かりましたなんて納得するのも抵抗があった。
 草壁先輩だって、まだきっと櫻井さんのことで引きずってる事もあるから、それを払拭しようと血走った可能性だってある。
 櫻井さんは容姿共に申し分のない女子力の高い存在だから、そんな人の代わりになんてなれるはずもない。
 嬉しいのに、困ってしまう。
 それでもどこかで楽しんでいるようでもあり、苦しんでいるようでもあり、もう一度サッカーボールに顔面をやられて痛みに集中してしまいたいような複雑な心境だった。
 こういうとき、希莉や柚実に相談に乗ってほしい。やっと浮いた話が私にもできたのに、それを話せる友達がいないのが寂しかった。
「チーちゃん、さっきから小鉢に入れるだけで、全然食べてないじゃないの。何そのタワーのようなてんこ盛りは」
 気がついたら無意識で鍋の中のものを取るだけとって、積み重ねていた。
「あっ」
 またそれを鍋に戻そうとしたら架が嫌がった。
「自分で取ったんだから責任とって食べろよ」
 責任。
 いい加減なことができない。告白の返事だって同じだった。
「食べればいいんでしょ、食べれば」
 私はヤケクソになって頬張った。
 沢山口に入れすぎて上手く咀嚼できずにいつまでもモゴモゴしていた。
inserted by FC2 system