第三章


「く、草壁先輩、なぜここに」
「あの後どう? 大丈夫だった?」
 えっ、あの後? もしかして告白の事? そんな、こんな公衆の面前で、その話題は困ってしまう。
「遠山、すごいな。話聞いたけど、顔面でボールを受けたんだってな。ほんとだ、顔が平らになってる」
「えっ、ボール?」
 近江君に言われ、思わず顔に触れてしまう。
「ハル、からかうなよ。だけど、千咲都ちゃん、どこも悪いところはないかい?」
「は、はい」
 どうやら、怪我の心配をしてくれているだけだった。
 それにしても自分の教室で草壁先輩に出会うなんて、考えてもみなかった。
「そろそろ、自分の教室に行かないと遅れてしまうな。とにかくだ。ハル、さっきの話宜しく」
「ああ、わかったよ。しかし、いちいち一年の教室に来るなよ。皆驚いてるだろ」
「お前のバケの皮剥がしに来たのさ。千咲都ちゃん、こいつに騙されるなよ」
「えっ?」
「ふん、余計なお世話だ。遠山も真に受けるな」
「じゃあ、千咲都ちゃん、また後でね」
 草壁先輩が私にウインクをする。
 なんかビビビビーっと体の中を走りぬけた。
 なんていうんだろう、ビリビリとした電流というのか、ぞわっとした奮えというのか、とてつもない衝撃。
 教室の隅で、相田さんたちが声を上げている。
 また後で何か言われると思うと、益々居心地悪くなった。
 クラスの人達の目は教室を去っていく草壁先輩を追いかける。大勢が同じ方向を見ているその様は凄まじかった。
 その後はヒソヒソと私を見て話し出した。
「ちょっと、近江君」
「なんだよ、何、涙目になってんるんだよ」
 私の感情が高ぶって、処理できずに目が潤んでいた。
「なんで草壁先輩が来たのよ」
「そんな事言われても、俺だってちょっと胸糞悪いんだ。あいつ、時々俺に対して意地悪したくなるんだよ。用事を装って俺に会いに来たけど、もしかして、昨日何かあったのか?」
「えっ、それは、べ、べ、べ、べ、別に……」
「やっぱりあったんだな。あいつ、絶対何か企んでる。そうじゃなきゃこんな事しない」
「何、何を企んでるっていうの?」
 近江君はじっと私の顔を見ていた。
「な、何よ」
「ううん、何でもない。それより、草壁のせいで、俺の朝の時間が奪われちまった」
 近江君は手に持っていた本を私に露骨に見せた。その仕草が、私にも向こういけと言っているようで、少し気まずい空気が流れた。
「邪魔してごめん」
 私がしぶしぶ離れると、近江君はすぐに本を読み出した。振り返ってチラリともう一度見れば、近江君の表情が少し怒っているような、そんな機嫌の悪いものを感じた。
 私が自分の席に着くと同時に、相田さんが案の定寄ってきた。
「ちょっと、ちょっと、今のアレ何? 草壁先輩、遠山さんにウインクしたよね。ちょっとどういうこと、ねぇねぇ」
 なんとも鬱陶しいのに、私は強く何も言えない。
 私の周りはその真相が知りたい女子達に取り囲まれ、希莉と柚実とは挨拶もできなかった。
 皆、自分勝手過ぎる。
 それともこれが高校生の典型的なノリというものなのだろうか。
 燻った感情が体の中に蓄積されていくのに、私はそれを隠していつものようにヘラヘラとして、自分に群がる女子達と適当に付き合う。
 結局自分も情けない。
「ちょっと、いい加減に白状しなさいよ。草壁先輩と付き合ってるんでしょ」
 じれったいと、この場に及んでまた一人仲良くもないクラスメートが首を突っ込んでくる。
 あなたにそんな事言われる筋合いなんてないと、つい不快な気持ちを抱いてその女子を見た。
「ちょっと草壁先輩に言い寄られたからって、すぐに鼻にかけるのね」
 いやみったらしい言葉だった。
「井上さん、言いすぎよ」
 相田さんが肘鉄を食らわせて牽制していた。
「いいじゃない、別に。皆思ってることなんだから」
 開き直っていた。
 それをフォローしようと相田さんが気を遣っていた。
「遠山さんだって、根掘り葉掘り聞かれて答えられないよね。小出しでいいからね。ゆっくり教えて」
 結局は情報が欲しいから、今私を怒らせたくないだけで機嫌をとってる態度だった。
 こんな人達に囲まれても全然嬉しくもなんともなかった。こんなの友達でもなんでもない。
 私は無性に希莉と柚実が恋しくなって、そっちを見れば、二人はそれぞれの席についていた。
 なんで、私を助けてくれないのだろう。どうしてバラバラになっちゃったんだろう。
 チャイムが鳴ったとき、今日の第一幕が終わったような気になった。
 どんなに一幕が終わろうとも、場面はいつも同じ繰り返しで一向に変わろうとしない。
 そこに問題だけは増えて行くというのに。
 外はまた雨が降り出していた。部活の場所取りの事がぼんやりと頭に浮かんでいた。

 一時間目が終わるとすぐに私は隣のクラスの加地さんの所へ行った。
 マネージャーを辞めた、いや、辞めさせられたと言った方がしっくり繰るような岡本さんの証言を気にしながら、この日の部活の練習場所を相談した。
 三年生のマネージャー二人は、すでに引退したも同然でアドバイザー的に在籍してる状態。
 櫻井さんもまた一年生の私達に仕事を覚えさせるために身を引いている。
 だから雨の日の場所を、私と加地さんとで場所取りしないといけなかった。
 これは部活のためだからと割り切り、私は普通に接していた。
「今日は雨だね。部活の場所の確保どうしよう」
 すでに櫻井さんから空いている部屋の申請の仕方を教えてもらっていたが、まだ私は入って間もないので、加地さんに確認しないといけなかった。
 本当なら、一人で勝手にしたい。
「そうね。この調子じゃ午後も雨が降りそうだね。それに止んでも運動場は水溜りで使えそうもないし」
 部活の話はなんとか普通に話してくれてほっとした。
「どうする。いつものあの場所、早めに使用許可取る?」
 私はすぐにでもしたかった。
「それじゃ私がしておく」
「えっ、加地さんが? いいの? 一緒に行こうか?」
「そんなの一人でできるわよ」
「それなら、いいんだけど。それじゃお願いします」
 とりあえずは無事に済んでほっとする。
 下駄箱に入っていた手紙、岡本さんの証言、この先も思いやられそうだけど、加地さんがそういう人だとはっきり分かってしまうと、おどおどすることはなくなった。
 でも私は加地さんが嫌がらせすることを知っていたのに、その後の予測ができなかったことは大いに抜けていた。
 もう少し、不測の事態を想定すべきだった。
 まだこの時は他の事に気を取られてそれどころじゃなかった。
 
 草壁先輩が教室に現われたことで変化を感じたのは私だけじゃなく、近江君もしっかり影響を受けていた。
 近江君の場合、その日はずっと機嫌が悪そうにイライラしている様子で、休み時間一人で本を読もうとしても集中できずに、時々虚空を見たり机に突っ伏したりしている。
 私もその様子を気にして見ていたから、時々近江君と目が合ったが、近江君はすぐに逸らしたり、急に席を立ったりして部屋から出て行った。
 いつもと様子が違うその態度に、私は気になってランチが終わった昼休み、近江君を探しに図書室に向かった。
 草壁先輩が教室にやってきてから、興奮冷めやらない相田さんたちに取り囲まれるのも辟易して、逃げ出したいのもあった。
 教室を出る時、柚実が気にして声を掛けてくれたが、希莉があの状態では三人でまだまだ以前のように楽しく話せる状態でもなかった。
 すぐ戻ってくると適当に交わし笑顔を向けたが、廊下を歩けばふと虚しくなってくる。
 何もかも中途半端で、周りにかき回されて毎日が過ぎ去っていく。
 これでいいのだろうか。
 先行きが見えない綱渡り的な状態に不満だけがどんどん溜まっていった。
 唯一、安らぎを感じて話せるのは近江君だけっていうのも、なんだか奇妙に思うが、その首尾一貫しているはずの近江君の様子がおかしいのがとても引っかかった。
 明らかにあれは草壁先輩に何かを言われたから、気にしているとしか思えなかった。
 図書室に入れば、窓際の勉強用のテーブルに向かって何かを読んでいる近江君の背中を見つけた。
 足をそこに向けたとき、近くの本棚の影から本を抱えた女生徒がでてきて、近江君の隣に座った。
 周りに迷惑がかからないようにしながら話しをしている二人は、とても親しそうに見える。
 そしてその女生徒は私も最近知り合いになった人だから、その光景は面食らった。
 私も憧れている櫻井さんだったからだ。
 なぜかそれを見たとき、私はドキッとして、後ずさりした。
 どこか邪魔してはいけない雰囲気を感じ取った。というより、私は怖気てしまった。
 見つからないように後ろ向きに下がっていると、運悪く人とぶつかってしまいヒヤッと驚いた。
「す、すみません」
 振り返りざま謝れば、その人は見上げるくらい背が高く、ニコニコしていた。
inserted by FC2 system