第四章


 昼に雨は小降りになり、放課後には止みそうではあったが、グラウンドがぬかるんでは練習しにくいと判断し、私は前回の失敗を教訓に早めに行動を起こしていた。
 一時間目が終わればすぐ、場所の確保を行い、その足で加地さんに報告も済ませていた。
 加地さんは不機嫌な態度を隠しもせず私に見せ、最後はふんと鼻であしらって不貞腐れていた。
 朝の下駄箱に入っていた手紙の事も含め、これまた腹が立ったが、ここは怒っても火に油を注ぐ効果しかないので、私は我慢した。
 こういう人間は見下したものから何か言われたら、のらりくらりと恣意的に言葉を操って平気で嘘をいって逃れるタイプでもある。余程の証拠と証人をつけなければ、やりこめられなかった。
 私のような気弱なものには立ち向かえないから、こちらも戦える材料をまず用意しなければならない。
 しかし、告発したところで、人手不足のマネージャーなだけに、勝手に出て行かれたら一人しか残らない私がしんどいことになる。
 弱みを握られているようで耐えるしかなかった。私さえ注意すればなんとか乗り越えられるかもしれない。
 耐える事が美徳となり、加地さんの意地悪が当たり前の事に思えてくるから、私も損な役柄だった。
 そして、昼休み、愚痴の一つでも言いたい、発散したいと、心の拠り所を求めて図書室に向かった。
 やはりそこに行けば近江君がいるという期待を持っていた。
 だから、いつものように図書室で近江君を探してキョロキョロし、近江君が笑顔で振り向くその姿をイメージして、本棚の筋を一つ一つ見ていた。
 だがその時私の目に飛び込んできたのは、人目につかない奥の本棚の前で、櫻井さんと楽しそうに話している近江君の姿だった。
 てっきり近江君一人でいると思いこんで図書室の中を歩き回っていたから、私がそこに顔を出したとき、隠れる事もできず二人の目の前に堂々と姿を現してしまった。
 「おっ、遠山」「あら、遠山さん」と二人同時に私の名前を呼ばれ、私は櫻井さんが居たことで緊張して頭を下げた。
「何かしこまってんだよ。なんか俺に用か?」
 いつもの調子で近江君は私に話しかけてくれたが、私はそのいつもの調子で受け答えができなかった。
「遠山さんもよく本を借りに来るの?」
 櫻井さんは清楚に微笑み、美しい姿で私に問いかける。
「いえ、そんなに頻繁には」
 図書室には来ても、今迄まだ一度も本を借りたことがなかった。
「そういえば、昨日の部活の話聞いたわよ。何かの手違いがあったみたいね」
 櫻井さんは優しく笑っているところを見ると、責めているわけではなさそうだった。
 だけど私は、櫻井さんのようにマネージャーとして完璧に仕事がこなせないコンプレックスを感じ、しゅんとうな垂れてしまった。
「なんだよ、何があったんだ。また失敗したのか?」
 近江君が笑い話と思って軽く言っただけだろうが、私には重く圧し掛かる。
 また失敗……
 いつも失敗しまくって、問題ばかりが転がり込む私には辛い言葉だった。
「どうした、遠山、なんだか変じゃないか。いつもなら食いかかってくるのに」
「ううん、ちょっと思い出したくなかっただけ。どうせ私はドジで何をやらせても失敗ばかりだから」
「おいおい、何を自虐してるんだ。今日の遠山、おかしいぞ」
「だけど、昨日は本当に大失敗で、部活の皆に迷惑掛けたから、思い出すと罪悪感一杯になるの」
「遠山さん、気にしなくていいから。昨日はみんなで乗り切ったんでしょ。誰も遠山さんの事責めてないわよ。遠山さんはとてもよく頑張ってくれてるってみんなにはいい評判よ。あなたが来てくれたお蔭で私も助かったんだから」
 櫻井先輩は部活に居る時と比べて穏やかだった。
 責任感が強い分、部活の時は厳しく私を指導するけど、関係ないところでは優しく接してくれる。やはりできた人だと思うし、裏表がないから、こういう人程尊敬できる。
 だけど、いくら優しい言葉をかけてくれても、なんだか今日は素直に受け入れられなかった。
 少しだけ抵抗もしたくなってくる。
「櫻井先輩、私はやっぱり力不足でこのままでは心配です。どうかマネジャーやめないで下さい。考え直してくれませんか?」
「まだ言ってるのね。でももう無理なの。それは変えられないの」
「どうしてですか?」
「私、この夏、交換留学生としてアメリカに一年留学することが決まってるの。だから部活が続けられないってわけなの」
「えっ!」
 草壁先輩が原因じゃない事はすでにわかっていたが、そういえば、職員室で江坂先生に会った時、桜井さんの進路変更でマネージャーが続けられないと言っていた事を思い出した。
 なるほど、それで急遽部活が続けられなくなって、やめることになった。
「こればっかりはどうしようもないわ。だから、やめなくっちゃならなくなって、その代わりに遠山さんみたいないい人が入ってきてくれて、本当に感謝してるのよ。遠山さんになら安心して任せられるわ。草壁君も太鼓判押してるわよ」
 草壁先輩の事はどうでもいい。
 そっか、櫻井さんはアメリカに留学するのか。なんだかそれを聞いてほっとした。
 この学校はアメリカにも姉妹校があって、海外交流は盛んだった。毎年、希望者は一定の条件が揃えば留学できることになっていた。
 ただその分、ハードなカリキュラムらしいので、かなりの覚悟がいるらしい。余程普段から勉強ができる人じゃなければ行けないと噂は聞いていた。
 櫻井さんなら才女そうで、やって行けるだろう。夏から居なくなってしまうと知ったとたん、さっきまでのモヤモヤが解消された。
 安心感から急に笑顔になって、近江君を見れば、なぜか近江君が笑ってなかった。
 まさか近江君、櫻井さんが留学することが寂しいのだろうか。
 私が再び戸惑いだしたその時、櫻井さんの言葉が脳天を貫くように耳に届いた。
「それからね、近江君も一緒に留学するのよ」
「えっ?」
 私は聞き間違えたかと思った。
「それでね、準備の事で色々と話をしてたの」
「おい、準備は期末試験が終わってからでいいっていってるだろ。そっちの方が今は大事なんだから……」
 近江君は気まずく、伏目がちに私から目を逸らした。
 近江君が留学。
 この夏、アメリカに行く。
 そして二学期からは教室に近江君が居ない。
 私はどのようにリアクションを取るべきなのだろうか。
 無理してでも笑う、それとも、嘘! と驚く、それとも、嫌だと泣き叫ぶ、それとも、なんでずっと黙ってたのよと怒る、それとも、それとも……
 どれも私の取りたいリアクションだった。だけど水を浴びせられたように驚くことしかできなかった。
「あっ、それじゃ私、そろそろ行くわ。草壁君から聞いたけど、近江君はいつも昼休み図書室にいるのよね。また時々覗くわ」
「別に来なくていいよ」
「何言ってるのよ。本来なら二年生でいつでも会えたのに、一年生のままなんだから」
「仕方がないだろ。自業自得さ」
「いいえ、近江君はわざとその道を選んだのは分かってる。全く知らない環境で一からやり直したかったことも」
「櫻井はうるさいからな」
「これからはもっと覚悟してね。私も一緒にアメリカ行くんだから」
 櫻井さんは楽しみとでも言わんばかりの笑顔を近江君に向けていた。
「それじゃ、遠山さん、また部活でね」
 爽やかに櫻井さんは去っていった。
 全てが完璧な人だった。
 スタイルも、性格もよく、そして何より容姿も美しい。
 敵わない人だから、最初から雲の上の存在だと思って憧れていたが、櫻井さんはこれから近江君のもっとも近いところで一緒に勉強する事になると、話は別だった。
 そして近江君が居なくなる。
 私はどんな顔をして近江君を見ていたのだろう。
 近江君は居心地悪そうに、私の様子を伺っていた。
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