第四章


 キスをするのもマネージャーの仕事? 
 そんなとんでもないローカルルールをぶつけられて、さらに草壁先輩の顔が近づいて、これは焦る。
 私はすぐさま持っていたサッカーボールを、草壁先輩の顔にむぎゅって押し付けてしまった。
「うげっ」
 草壁先輩は力強く押し付けられて固まっていた。
 その間に椅子から立ち上がり逃げようとするが、草壁先輩はすぐさま私の腕を掴んだ。
 その足元で、ボールが床に軽く跳ねて転がっていった。
「この扱いはないだろう。酷いな。仮にも俺は先輩だろ」
「でも、私そんなのできません。は、離して下さい」
 私の手を取ったまま、草壁先輩は椅子から立ち上がった。その身長の差から、私を上から見下ろしている。
「千咲都ちゃん。もっと肩の力を抜きなよ。俺のキスを受け入れたら、君も考えが変わると思うんだけどな」
「む、む、無理です」
「それって、好きな人が居るって事かい?」
「えっ」
「この俺のキスを拒むくらいだ。余程の理由がなければおかしいじゃないか。他に俺を納得させる理由があるのなら、それを答えなさい」
 まただ。
 付き合うことを断ったときも理由を求められた。
 何をそんなに明確に理由を話さないといけないのだろう。
 草壁先輩はこういう人だっけ? 以前はもっと気さくで一年の差など大したことないと大らかに笑っていたのに、急に主従関係を持ち出すようになってしまった。
「あの、こういうの誰だって戸惑うと思うんですけど」
「本当にそうかい。ただ恥かしいだけで、本音は興味があるんじゃないのかい」
 草壁先輩に引っ張られ体を引き寄せられてしまった。
「ひぃぃ〜」
「おい、その奇声はやめてくれ。なんかゴキブリが現われて驚いてるみたいじゃないか。千咲都ちゃん、色気ないな」
 ゴキブリ扱いされて草壁先輩は萎えたのか、諦めて解放してくれた。
 すぐさま適当な距離をもって離れるも、まだ警戒心が解けなかった。
「そういう初心な所が、チャレンジ精神を引き出してくれるんだけど、千咲都ちゃんも、もう少し学んだ方がいいよ」
 何を学べというのだろう。
「ところで、今度デートしようか。そうだな、ハルと櫻井も呼んでダブルデートなんてどうだろう」
 近江君と櫻井さん……
「ハルはこの先も櫻井と一緒だし、異国で一緒に過ごせば、連帯感もあってこの先二人はもっといい仲になるだろうね。これで俺も安心かな」
 草壁先輩は櫻井さんに酷いことをしてきた罪悪感から、二人がくっ付けばいいと望んでいる。
 なぜこんなに私はモヤモヤしているのだろう。自分でも処理しきれなかった。
 体が小刻みに震え、私は感情を押さえ込もうと力んで踏ん張っていた。
「千咲都ちゃん、どうかした? キスを迫って刺激強すぎたかな。ごめんごめん。ちょっと調子に乗りすぎたかもしれな……」
 草壁先輩が最後まで言い終わらないうちに私は叫んでいた。
「先輩!」
「ん?」
「やっぱりキスして下さい」
「えっ!?」
 私は強張った体を突っ張らせてぎこちなく草壁先輩の前に近づいた。
 草壁先輩は私の気力に蹴落とされ、立場が逆になったように戸惑っていた。
「本当にいいのかい?」
 無言で私は頷いた。
 草壁先輩と私は暫く真剣に見詰め合っていた。
 しかし、私の瞳をじっと見つめた後、草壁先輩はふと溜息を漏らした。
「やっぱりやり直し!」
「えっ? やり直し?」
 私が覚悟を決め、意気込みを入れて全力で向かって行ってるのに、今度は草壁先輩がダメだしした。
「うん。その目が気に入らない」
「えっ? どうして」
「だって、睨みつけてるんだよ。怖いじゃないか。そんなの俺とのキスを望んでる目じゃないね。ヤケクソが入ってるぞ。俺がせかしすぎたのが悪かった。ごめん」
「なぜ、草壁先輩が謝るんですか」
「ちょっと千咲都ちゃんには難易度高かったからだよ。だけど次は、もっと素直に僕の気持ちを受けて欲しい。そういう気持ちになったとき、僕は何度でも君にキスをする。その時まで楽しみにしてるよ。それじゃそろそろ練習に戻るよ」
 かき回すだけかき回して、草壁先輩は部室から出て行った。
 私は放心状態になり、側にあった椅子にどすんと座り込んだ。
 一体何をしたかったのだろう。
 今日という一日は全てが悪い方向に行っているように思えてならない。
 落ちていたボールを手にして、私は力任せに磨きだした。ボールはキュッキュと痛くて悲鳴を上げているようだった。
 部活が終わった後、寄って来る草壁先輩をかわして、マネージャーの事で聞きたいことがあるからと理由を述べて、櫻井先輩と一緒に帰りたいと申し出た。
 櫻井さんは嫌な顔をせず、私の申し出を快く承諾してくれた。その背景に近江君がどんな風に一年の教室で過ごしているのか私の口から聞きたがってもいた。
 私は櫻井さんをまじまじと見つめ、自分が手に入れられないすぐれた能力と容姿に嫉妬してしまっていた。
 昨日まではそれが憧れで、崇めていたのに、この変わりようはなんなのだろう。
 年上でもあり、学校の先輩で最初から同等ではない隔たりがあっても、この瞬間はどうしようもないコンプレックスに私は苦しくなる。
「遠山さん、さっきから私をじろじろ見てるけど、どうしたの」
「いえ、今こうやって一緒に歩いていることが信じられなくて」
「遠山さんは本当に真面目ね。その一心不乱に一途になれるところも、素直だからできるのね」
「いいえ、私は素直なんかじゃないです」
「いいのよ、そんなにムキにならなくても。でもそういうところは私は好きだな」
「いいえ、私なんか最低です。本音と建前が全然違って、ずるいです」
「何をそんなに自分を卑下してるの? 面白いわね。だけど、もっと自信持って。遠山さんは秘めたものを持ってると思うわ。私が留学から帰ってきたら、きっとあなたは変わってる。そんな気がする」
「櫻井先輩はどうして、留学しようと思ったんですか?」
「そうね、それはチャンスを生かしたいって気持ちがあったから」
「チャンス……」
 近江君と一緒に留学できるチャンスだろうか。
「きっとこれが私の未来に影響を与えると思うと、私は選んでみたくなったの」
 前をしっかりと見ている櫻井さんの横顔はキリッとしていた。
 この人なら未来も近江君のハートもきっちり掴んでくることだろう。
 私は敵わないものを感じ、嫉妬心もあっけなくしぼんでいった。
「先輩、応援してます。先輩ならきっと明るい未来が待ってると思います」
「ありがとう、遠山さん。あなたも頑張ってね」
 私はコクリと頷いたが、櫻井さんに爽やかな笑顔を向けられると内心忸怩たる思いで後ろめたくなった。
 後ろの方で草壁先輩とその他の部員達が騒いでいる声が聞こえてくる。櫻井さんは後ろを振り返り、愛おしそうに見ていた。マネージャーを辞めてしまうことで感慨深いものがあるのだろう。
 だけど私は違った。同じように振り返って見た時、自分がここに所属する価値があるのだろうかと思ってしまった。
 一応無理して笑顔を作ったが、虚しかった。

 駅でみんなと別れ、それぞれの家路につくが、一人になったとき、空虚感がどっと押し寄せた。
 無意味に学校辞めたいなんて軽々しく思ってしまう。
 そんな勇気もないくせに、全てが投げやりに苦しさだけが表面に現われて、好き勝手に荒ぶっているような状態だった。
 そして最後にそんな私を懲らしめる止(とど)めが来てしまった。
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