第四章


 駅とは違う方向へ、私の腕を引っ張ったまま近江君は歩いていく。
「いい加減に離して」
 私が強く振り払おうとする前に近江君はパッと手を離し、勢いが空振りになって前につんのめってしまった。
「まあ、落ち着け」
「落ち着いてもいられないの」
 よたつきながら、近江君に引っ張られていた手をもう片方の手で庇うように触れた。
「とにかく、こっちこい」
 近江君が入り組んだ路地を入って抜けた先で大通りに出くわした。車がひっきりなしに通っている。ビルがポツポツと建ち、周りは見通しがよく、都心へ向かう街の外れと言った雰囲気があった。
 街路樹が植えられた広い歩道のその横に一台の黒いセダンの車が停まっているのが見えた。
 近江君はその車めがけて歩いていった。
 そして後ろのドアを開け、手招く。
「早く来い」
 近江君はさっさとその車に乗り込むので、私は小走りに掛けていった。
「ちょっと、どういうこと」
「いいから、早く乗れ」
 運転席を見れば、初老の男性が振り向きざまに軽く頭を下げた。人がよさそうに笑っている。
 私もまたすぐさま頭を下げ、訳も分からずその車に乗り込み、ドアを閉めた。
「ぼっちゃん、お友達が一緒だなんて、珍しいですね。しかもかわいらしいお嬢さんだ。どこへ行くんですか」
「三井さん、そんなんじゃないんですって」
「それじゃいつもの場所でいいんですね」
「はい、お願いします」
 三井と呼ばれた運転手は、辺りを確認してから車を走らせた。私はまだこの状況が把握し切れてない。
 近江君がぼっちゃんと呼ばれ、お抱え運転手が送り迎えをしている?
 近江君は一体何者なんだろう。近江君は車の中で何も言わずにいたので、私も大人しく黙っていた。
 車は十分も走らないままに目的地に着いた。そこは住宅街に位置し、普通にマンションが建ってるだけで、別に特別な場所ではなかった。
 エントランスの前で車を降り、運転手の三井さんに軽く頭を下げると、三井さんの運転する車はそのままマンションの前で止まっていた。三井さんは私達を降ろした後、スマホを取り出し電話を掛けだした。
 私がきょとんとしてると、近江君はそのマンションの中へ入っていこうとする。
 五階建てのそのマンションは一階の入り口が建物の半分を占め、もう半分には小さなオフィスがあり、ガラス張りの窓から人が働いている様子が見えた。
 どこにでも良くありそうなマンションだが、比較的新しい外装で、落ち着いた色合いが高級っぽく見える。入り口には暗証番号を入力する設備も備えられセキュリティも万端に整っていた。そこで番号を打ち込み、近江君は来いと顎で指図した。
 一緒に中に入れば、オフィスのような開放的なロビーがあり、応接間のようにソファーが添えられていた。その先にはエレベータが二つあった。
 丁度誰かが降りてきて、扉が開くと、ケバイ化粧で派手なドレスを着た女性と、もう一人着物を着こなした艶やかな女性が出てきた。
 どちらも普通に見かけるような人じゃなく、見てるだけで後ずさりするくらい圧倒された。夜のその道の人というのか、ホステスといった雰囲気がモロにした。
「あら、ハルちゃん、お帰り。まあ、今日は女の子がいる」
 派手なドレスの女性が親しく語りかける。
 着物を着た方は、全てを見通すような鋭い眼差しでじっと私を見ていた。高貴な雰囲気につつまれ、近づきがたい恐れがある。
 私は落ち着かなくて、モジモジしていると、着物を着ていた方が「ハルを宜しく」とにこやかな笑みを添え、洗礼された物腰で礼をした。
 先ほどの畏怖が少し和らぎ、気品あるその笑みに暫し釘付けになる。
「いえ、そんな、どうも」
 慌ててお辞儀を返したが、困惑しておどおどしてしまった。
「今日は早いんだな。酒は程ほどにな」
 近江君が生意気な口を聞く。
「分かってるわよ」
 着物の女性は鼻でクスッと笑って答えていた。
 そして二人は優雅な物腰で去っていき、外で待機していた三井さんの車に乗り込んだ。暫くその様子をポカンとしながら私が見てると、いつの間にかエレベーターに乗り込んでいた近江君が顔だけ出して叫んだ。
「ほら、早く来いよ」
 訳がわからないまま、私は小走りでそれに乗った。
 エレベーターは一番最上階へ向かう。
 着いた先で近江君が降り、私も当たり前のように後を続いたが、そこではっとした。
「ちょっと、ここどこ?」
「俺んちさ」
「近江君のうち?」
「因みに、さっき着物を着てた女が俺の母親」
「えーっ」
 その風貌にも驚いたが、何も知らずにさらっと近江君の母親に会ってしまったことにも驚いた。
「ちょ、ちょっと」
 近江君はすでに一番端の部屋の鍵をドアに差して開けていた。
「いつまでも廊下にいても仕方がないだろ。ほら、中に入れよ」
 私は恐る恐る近江君の後をついて入っていく。モダンなその造りの部屋は、きれいに掃除されていて住み心地よさそうだった。
「遠慮なく上がれ」
「お邪魔します。いいところに住んでるのね」 
「まあな。なんか飲むか」
 キッチンとダイニングが一緒になった場所。その仕切りになっているキッチンカウンターの中に近江君は入って、ごそごそと下から、色んな形のボトルを取り出した。
「えっ、それ、お酒じゃないの」
「ああ、そうだ。カクテルも作れるぜ」
「ちょっと待ってよ、お酒なんて飲める訳ないでしょ」
「自分が壊れるにはアルコールが一番手っ取りばやい方法さ」
「いいわよ。未成年が自棄酒飲めるはずがないでしょ。そこまでしたくないわ」
「なんだよ。つまんねぇな。遠山の壊れっぷり見たかったのに」
「一体何を考えてるの?」
「もちろん、ブンジの弔いさ。派手に送ってやればいいじゃないか。俺、協力するっていっただろ」
 近江君がじわりじわりと私に近づいてきた。
 そのとき、いつもの勉強を真面目にしている近江君じゃなかった。妙に世間を知ったような貫禄があって、目つきも動物が獲物を狙うような鋭さがあった。
 私は知らずと後ずさりする。
「近江君?」
 ずっと強気で突っ慳貪(けんどん)だった私が一瞬にして気弱になる。
 今のこの状況を例えていうなら、狼が羊をねらっているという比喩がとてもしっくりきた。
「悲しみで自棄になって、全てを壊したいんだろ。自分も壊れたいんだろ。何もかも嫌になったんだろ」
「だからって、何をするつもりなの?」
 近江君にまた腕を取られ、強く引っ張られて私は無理やり引き寄せられる。
「俺がめちゃくちゃにしてやろうか。それで、気が済むんだろ」
「えっ」
「どうした、何を怖がってるんだよ。さっきまで全てがどうでもよくなったって言ってただろ。だったら、壊れろよ。とことん自分を壊してみろよ。俺がお前を思う存分抱いてやるよ」
 頭の中がパニックになって、足が急に震えだした。
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