第五章


 朝の父とのやり取りは、とてつもなく大事な事を気づかせてくれた。満足が行くまで話し合う。自分の納得が相手にも伝わらなければ、そこに妥協点は発生しない。考え方が違うからお互いの事を理解した上で譲歩し、そこに合った答えを導き出す大切さ。
 どちらかが一方我慢すれば、それは対等ではなくなり、強制になってしまう。
 表面上受け入れたと見せかけても、中身がそうじゃないとわだかまりだけが溜まって、本心とは違う虚構だけが膨れ上がる。
 そうなると関係は崩れ、決して接点がないままに、上辺だけになってしまう。
 まさにそれは、私と希莉の関係だった。
 希莉は早くからそのことに気がついていて、私の態度を疑っていた。
 私がすぐに謝る事も、我慢していることも、何も言い返さないことも、希莉にしてみればそれは友達じゃなかった。
 私も表面上は何もない振りしても、その下にわだかまりを膨らませていた。
 私は一杯我慢しているのに、相手はしてくれない。なんともお門違いの言い分だろう。
 希莉は私と対等でありたかった。フリをして嘘を重ねて欲しくなかった。それが友達だから。
 希莉は私が本心で向かってくることを待っていたんだ。
 それは私が気がつかなければ、人から言われてできることじゃない。希莉はそこをいいたかったんじゃないだろうか。
 人にいつもいい顔していたら、主体がなくてただの八方美人。
 そういうのを見ていたら、私だって白けて楽しくない。
 私は本当に無理をしていた。いいように思われたいと体裁を繕うだけで、偽りで笑ってばかりだった。
 つまらないしがらみに自分自身縛りつけ、臆病になっていた。
 でももう怖がらないで、一歩足を踏み出そうと思う。ブンジと近江君が勇気付けてくれた。
 私だって、一言希莉に言わなくっちゃ。

 朝、これほど学校に行くのがもどかしいと思った事はなかった。電車はのろく感じられ、人々が私の行く前を邪魔する。
 先走る気持ちが、周りの全てを障害物に変えていくようだった。
 足に力を入れ、無理に早足で歩いたものだから、足は攣りそうに強張っていた。おまけ暑さも増して夏の到来を感じ、汗も噴出してくる。
 学校についた時は、喉がからからで、廊下に備え付けられていた冷水気でごくごく水を飲んでしまった。
 濡れた口許を豪快に手の甲で拭い、私は体に力を込め、教室に向かった。
 教室に足を踏み入れれば、すぐさま希莉の姿が目に飛び込んだ
 いつもなら私の方が早く来ているのに、この日は早く登校していた。前日の私が取った態度をずっと気にしてたに違いない。
 希莉もまた私と同じように悩んでいた。悩みながらも頑固に自分を貫き通していた。私が気がつくのをひたすら待って。
 希莉は私を待っていたように、ゆっくりと向かってきた。私も引き寄せられるように希莉に近づいた。
 お互いの顔を見合わせた時、同時に口が開いた。
「話があるの」
 息ぴったりに声が重なった。
「えっ」
 その重なりに驚いた声もまた息ぴったりだった。
「何?」
 二度あることは三度もあった。
 急におかしくなって私達は笑いあった。本当に久し振りの笑いだった。
「希莉の言いたいこと。わかった」
「それで?」
「希莉は私が好きなんでしょ」
「うん」
「私も希莉が大好き」
「そんなのわかってる」
「希莉は頑固で、ちょっと偉そうで、きつい」
「今頃気がついたの?」
「ううん、前から気がついていた」
「じゃあ、なんでもっと早く言わなかったの?」
「なんでだろう。私が臆病だった。でももう我慢しない」
「本当?」
「うーん、やっぱりどうかな。希莉は怖いから……」
「千咲都! 誰が怖いだ!」
「ほらすぐに力ずくでくるじゃない。希莉だって時には私を立ててよ」
「やだ、私は千咲都を虐めるのが趣味だもん」
「そんなの不公平。そしたら宿題もノートももう見せないからね」
「あっ、それ困る。千咲都さま、あなたは偉い、天才、かわいい」
「調子に乗りすぎ」
 私は希莉の頭を軽くポンと叩いた。そんなこと今までしたことなかったのに。
「私に暴力を振るとは10年早い」
「希莉はいつも私にするぞ」
「あれ、そうだっけなぁ」
 私達は漫才の掛け合いのように会話をしていた。しまいには馬鹿らしくなって笑ってしまう。
 それは初めて知り合った時のように新鮮だった。 
「おはよう、千咲都、希莉。何、私抜きで仲良くしてるの。仲間はずれはやだ」
 柚実が中に入ってきた。
「大丈夫だって。柚実がいないと困るもん。ね、希莉」
「うん」
「そっか、私がいないとやっぱり困るか。そうだと思った」
 柚実はわだかまりがなくなって笑顔になっている私と希莉を見て、楽しそうにしていた。
 私が一歩前に踏み出すだけでよかった。希莉も柚実も私を待っていてくれた。
「昨日は荒れてて、八つ当たってごめんね」
 私はブンジが死んだことを説明した。二人は私の気持ちを察して、しんみりとしていた。
「それともう一つ二人に聞いてほしい話があるんだ」
 私がモジモジとしながら、恥かしがると、柚実はピンときたみたいだった。
「もしかして、近江君の話?」
「えっ、なんでわかったの」
「そんなの前からわかってたよ。よしよし、お姉さんがしっかりと聞いてあげるからね」
 柚実のニヤニヤした笑みに、恥かしさが込み上げてくる。
「千咲都、噂をすればなんとやら。彼が来たよ」
 希莉に肘鉄で知らされた。
「彼もこっち見てるじゃない。とりあえず挨拶してきたら」
 柚実に肩を押され、私は戸惑いつつも、近江君に近づいた。
「近江君、昨日はありがとう。それと父が失礼なこと言ってごめんなさい。あの後父も反省してた」
「なんだよ、改まって。別に気にしてねーよ。それより、俺、英語ヤバイんだ。遠山はいいよな。英語ができる父親がいて。俺羨ましいよ」
 近江君は英語の教科書を出して単語をぶつぶつ言い出した。
 私は邪魔になってはいけないとそっと離れようとしたとき近江君がボソッと言った。
「毎朝、早く起きるのが辛かった。でもブンジがいつもあそこで俺を待ってるような気がして、頑張れた。そしてある日、濡れた髪の女の子がブンジと現われた のを見ちまったんだ。まさかその女の子と同じ教室で一緒になるとは思わなかった。それから気になって遠山の事見ちまったんだ」
 近江君はずっと前からブンジを知っていた。今思えば、いろんなことが意味を成して辻褄が合ってくる。
「遠山……」
 近江君が何か話したそうに顔を上げた。
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