第五章


 外は蝉が至る所でうるさく鳴き、日差しは強く汗がじわりと肌からにじむ。ただただ熱くダレてしまうが、これぞ日本の夏として私は嫌いじゃなかった。
 近江君がいるシアトルはどんな夏なのだろう。調べても活字で説明を見るだけでは想像がつかなかった。
 季節に関係なく近江君はせっせと勉学に励んでいることだけはイメージできた。
 櫻井さんもアメリカに旅立ち、近江君と向こうで会ってることだろう。
 近江君は時間があれば勉強に費やす人だから、櫻井さんと一緒に過ごす時間もそんなにないかもしれない。
 櫻井さんだって、いくら近江君が好きと言っても恋に現を抜かせるほどの余裕をもてるだろうか。
 忙しい近江君は周りに人を近づけなさそうに思える。二人はきっとすれ違って……
 自分のいい様に考えようとしたが、実際現地を見ない限り、憶測だけではなんの役にも立たなかった。
 近江君のお母さんに慰められても、現実は不安だらけだった。
 どっちにしろ、近江君がどの道を進みたいかが大事だから、私がとやかく言っても無駄なだけ。
 ただそれが私と同じ方向に行くことを強く望むのだけども、どこかで道を誤りそうになったとき、きっとブンジが道しるべになって近江君を導いてくれるはず。きっと、絶対、そうだよね、ブンちゃん。
 毎日近江君の新聞配達を見て、道しるべになってたくらいだから、近江君の夢枕に現われないはずがない。
 そんな期待を込めて、毎日ブンジの遺骨に出ろ出ろと催促している。今では拝んで崇めるほどの神様になってしまった。
 ブンジが居なくなって、近江君も異国に行ってしまった。大切な人(ブンジは猫だけど)が離れていく。
 足元みれば、ブンジが居そうに思えるし、朝バイクのエンジンの音が聞こえたら、近江君のようにも思える。
 ぽっかりと穴が開いて、不意に寂しさがこみあげるけど、でも、その先の未来のためにまっすぐ前を向きたい。
 私はこの夏、部活、宿題、希莉と柚実との付き合い、そして父が教えてくれる英会話──近江君に感化されて私がリクエスト──に忙しい。
 私だって近江君に負けないくらい成長したい。同じ一年を過ごして、近江君だけが立派に成長しているなんて悔しい。
 自由に自分で作る一年。これもまた、同じ方向へ進んでいる過程のうちなのかもしれないと私は思うことにした。

 そんなある日の事。
 近江君からメールが届いた。メールする暇ないと言っていたのは嘘だったのか。ただの虚勢か。
 でも、近江君から連絡が入ったことは舞い上がるくらい嬉しかった。
 だが、メールの中を開ければがっかりする。
 そこにはURLが書いてるだけでクリックすれば、そのリンク先に飛べるようになっているだけだった。
 しかしそのURLが恐ろしく長かった。
「一体なんのリンク先?」
 本文はないし、訳のわからないURLのアドレスに、むすっとした気分でクリックした。
 だけど繋がったとき私は息を飲んだ。そこには出窓に座るブンジが写り込んでいた。
 近江君はグーグルマップを見ていて、これを見つけたんだろう。新聞配達のルートでも懐かしがってみていたのかもしれない。
 自分の家がネットで見られるのもすごいが、そこに偶然ブンジが写り込んでいたこの奇跡に感動してしまった。
 かしこまって座っているブンジ。その姿はやっぱりかわいい。
 またこんな風に会えるとは思わなかった。
 近江君もこれを見て、はっとしたから、メールを送らずにはいられなかったのだろう。
 何も言葉が書いてなくても、私には充分その意味がわかる。
 ブンジの道しるべ。
 私の願い通りに、近江君の前に現れてくれた。
 ブンちゃん、グッドジョブ。
 机の端に置いているブンジの遺骨が入った骨袋を私は抱いた。
 その後、すぐに近江君に返信した。
 『ブンジは見ている』と。
 私も余計な事は書かなかった。これだけで近江君には何の事かわかるはずだ。
 そして、その後近江君から再びメールが届くことはなかった。
 私も出さなかった。

 夏休みは部活の合宿もあり、加地さんと常盤さんと何が楽しくて一緒に寝泊りしなければならないのだろうと思った事もあったけど、その頃になると意地悪をする余裕がないくらい、忙しくなっていた。
 それに常盤さんがなぜか私に優しくなっていて、加地さんが私に対立しようとすると、庇ってくれることがあった。
 二年生の常盤さんに言われると、加地さんは大人しくなり丸く収まるからその後はやりやすくなっていく。
 私としたら、あの二人はものすごく意気投合しそうに思え、フュージョンして意地悪されるのではと恐れていたから驚きだった。
 まず常盤さんが変わった背景に彼氏ができたというのが一番大きかった。
 なんでも私に敵意をぶつけようとしたときに、攻撃に失敗してぶつかってしまった男子との出会いがきっかけとなり、その後お互い意識するようになっていったらしい。
 常盤さんは、少し言いにくそうにわざとツンとすましてたけど、結局は私が媒介となって怪我の功名となったので、邪険にできなくなったらしい。
 そこに櫻井さんがいなくなったことで、親衛隊のフリをする意味もなく、やっとバカなことをやっていたと気がついたそうだ。
 恋をする常盤さんの変わり様は、棘棘のきつい女性から、刺がとれてきりっとした美しさが出ていた。
 心が変わるだけで顔つきが変わってくるから、恋の威力はすごいと思った。
 それは自分がどういうイメージで見るかでも、相手の顔を違って見せるのかもしれない。
 一度常盤さんと心を通わせれば、不思議と打ち解けてしまい、常盤さんも気軽に私に話しかけるようになった。
 そして、部活が終わって一緒に帰りを共にしてきた時、私に訊いてきた。
「あんなかっこいい草壁君が、あなたにアプローチしてるのに、どうして好きにならないの?」
「草壁先輩は犬好きだから。私は猫が好きなんです」
 明確な答えになってなかったが、常盤さんは笑っていた。
 見かけが好みだと、すぐさま心に入り込んで好きという感情が芽生えやすいかもしれないが、私の目に映ったとき、それは恋をする根拠にはならない。
 私は自分を偽って嫌われたくないと保守的になることに疲れてしまった。
 何でも話せない人じゃないと、私は付き合えない。
 そしてやっぱり犬より猫が好きだと言ってくれる人じゃないと、嫌。
「そうよね、やっぱり自分と合うかが一番の問題よね。それで私の彼もね……」
 あっ、始まった。
 結局は常盤さんは自分の恋をのろけたいのだ。
 その時の常盤さんがとてもいじらしくて、可愛く見えるから不思議だった。一時はナマハゲのように追いかけられて、思いっきり睨まれていたというのに。
 人はこうも変われるものなのだろうか。
 近江君も、私が見てきた姿と、過去の姿とでは違うと聞いた。
 自分でもかなりの不良だったとは言っていたが、そんな近江君の姿が私には想像できなかった。
 常盤さんの彼氏の話が一段落した時、質問してみた。
「常盤先輩は、近江君の事知ってますか?」
「うん、知ってる。金髪に染めてすごい派手だった。それでも結構持ててたわ。今思うと草壁君より人気があったかも」
「えっ、そうなんですか」
「目立ってたからね。ちょっとした悪っぽい感じがドキドキするっていうのか、それに女性には優しくて扱いが上手かったの。かなり手馴れている感じだった」
「全然、想像できない」
「昨年事件に巻き込まれて、大怪我したことがあってね、多分あれがきっかけで、変わったのかも。だけど、その方がより一層魅力的になったと思う。すごくしっかりして、男らしくなった。そういえば、近江君、あなたの事守ってたわね」
「守ってた?」
「うん、以前、私があなたに絡んでたとき、ほら電話が掛かってきたでしょ。あれ、近江君よ。あなたを守ろうとして私を脅してきたわ。なんでもあの時、近くにいたそうよ」
 その時の事を振り返れば、側をバイクが走っていたのを思い出し、あれが近江君だったと気がつくと自然と笑みがこぼれていた。
「近江君、戻ってくる時は金髪の彼女ができてるかもね」
「えっ!」
「意地悪言うわけじゃないけど、近江君、手が早いわよ」
 私の顔に翳りが出たのをみた常盤さんは、クスッと笑った。
「あなたが、近江君を惹き付けられるように魅力的になればいいだけじゃない」
 ふと、視線を感じてそちらを見れば、雑居ビルの間の路地からキジトラの猫が顔を出していた。
 色は違うけどなんとなくブンジに似ていた。私と目が合って警戒し、微動だにせず用心深く見ている。
 私は目をぎゅっと瞑ると、その猫は呪縛から解き放たれたようにいきなり体を舐め出して毛づくろいを始めた。
 私も同じように、心配ばかりせず、まずは自分を磨かなければと思った。
 その一年後の未来、私は近江君と同じ目的地に辿り着いている事を切に願った。
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