第一章 雨の日だったから


「一組の山之内君ってかっこいいよね。どこか大人びてさ、気品があって」
「そうそう、入学式の時に見たときから思ってた。すでにたくさんの女子達が狙ってるみたいだよ。まだ高校一年が始まって入学したばかりなのに、女子達の噂はあっと言う間に広がって、すでに有名人だよ」
 一年二組の教室の端っこで、女の子達が休憩中に話をしていた。
 たまたまそこに私もいたんだけど、とりあえず聞いているふりだけはしておいた。
「ちょっと、倉持さん、もしかして影ながら山之内君狙ってるんじゃないの?」
 いきなり話を振られてしまって少しびっくりしてしまった。
「そんな訳ないでしょ」
 否定はしてみるも、ちょっとドキッとはしている。
 というのも、山之内君を全く知らないわけでもないし、一応接触があっただけに、その事を彼女達に言ってしまうと、絶対に嫉妬されてしまうから。
 だけどあれはただの偶然で、まさか同じ学校の生徒だとは思ってもみなかった。
 
 私、倉持真由はこの春、高校一年生になったばかり。
 春麗らかな柔らかい日差しを受け、期待に胸を膨らませて高校生活をスタートさせたところだった。
 事の発端は、ほんの少し遡った、入学式を待ちわびる春休みの時のことだった。
 外に出かけようと家の玄関を開け、すぐに空の様子を見上げた。
 それは空一面を覆う灰色の雲が広がり、今にも雨が降りそうでどんよりと重たい。
 だから迷わず傘を手にして、家の門を開け、駅に向かおうと歩きだしたその時、待ってましたのようにすぐに雨が降り出した。
 やっぱり来たかと、傘を差せば、その雨はすぐに激しさを増してくるようだった。
 天気の悪さに気をとられていたので周りを気にしてなかったが、視線を動かすと、ふと電信柱が視界に入り、そこに重なるように人が居たことに気がついた。
 その時は、見知らぬ人で誰だか全くわからなかったけど、それが女子達の話している山之内君だった。
 傘を持ってないのか、突然の雨に慌てている様子だったから、私は自分の傘を咄嗟に彼に差し出した。
「良かったら、これ使って下さい。まだ家に傘があるので、私はまたちょっと取ってきます」
「いや、別に、いいよ。これぐらい濡れても平気だから」
 てっきり遠慮していると思ったから、私は傘を無理やり彼の手に持たせてやった。
 そして素早くまた家に戻り、新たな傘を手にした。
 再びその傘を差して外に出たとき、彼は私の家の前で居心地悪そうに突っ立っていた。
「あ、あの……」
「あっ、その、気になさらないで下さい。遠慮はいりませんし、家がここなので、使い終わったら、適当にこの門にでも引っ掛けておいて下さったらいいですから。それじゃ私、ちょっと急ぎますので」
 条件反射で頭を下げ、早足でその場を去ろうとして、背中を向けたその直後、「ありがとう!」と声が返ってきた。
 また私が振り返ると、彼は私に笑顔を向けた。
 とりあえず再び頭を下げて、お愛想程度にそれに答えたけど、実際どうしていいのか戸惑いながらも、うやむやにその場を濁して私は早足に先を急ぐことにした。
 貸してから傘が赤色だったことを思い出し、あれでよかったのだろうかとぼんやり考えながら、腕時計で時間を確認すると、それどころじゃなくなり、足が急に慌てだした。
 その時は彼に関してはなんとも思わず、後に傘を貸した事も忘れてしまった。
 夜、家に戻ってから、彼が律儀に傘をその日のうちに返しに来たことを母から聞いて、また思い出した程度だった。
 母はニヤニヤしながら私に質問する。
「なかなかかっこいい男の子だったけど、知り合い?」
 かっこいい?
 雨と傘に気をとられて、あまり彼の顔を見ていなかったのであやふやなイメージしかなかった。
 でも入学式の時、山之内君の顔をチラリと見て、どこかで見た顔だと不思議に思っていたそのとき、傘を貸した人だと突然脳裏に蘇った。
 まだ面と向かってお互い顔を見合わせた事はないけど、きっと山之内君もまさか傘を借りた本人が同じ学校にいるとは思ってないだろうし、私の事には気がついてない様子に見えた。
 隣のクラスだし、滅多に会うことも話すこともないから、不意に廊下ですれ違っても傘を貸したという記憶は薄れてしまって、結局はお互い面識がないような感じだった。
 その方が私も楽。
 変に話をしたり挨拶したら、あれだけ目立つ人だから女子からは意地悪されそうだし、こっちも変に気を遣って疲れそう。
 かっこいい人だとは思うけど、私には関係ないと思うところがあった。
 でも、そう思い込もうとしてたかも──。

「だけどさ、山之内君って寡黙な人そうだよね」
「もうすでに何人かは山之内君に告白したみたいだけど、全て振られたんだって」
「まだ知り合って間もないのに、早い。それは断られるわ」
「だけど、シャイかもしれないじゃない。あまり女性になれてないのかもよ」
「一体どんな人がタイプなんだろうね」
 皆は好き好きに喋っていながら、時折うっとりとした目になっている。
 自分が山之内君のタイプじゃないかと、どこかで願っているような様子だった。
 そう思いたくなるのも分からなくもないけど、確かにあれだけかっこいいと気にはなるかもしれない。
 どこか周りの男子達と違って、しっかりとした大人びた表情が特に印象的だった。
 自信が溢れていて、落ち着いた優雅さがあった。
 その雰囲気だけでも気品があって、余計にかっこよさが目立っている。
 中から表面に滲み出てくるものがあるから、自然に精悍さが現れているのかもしれない。
 私も傘を貸したことで、正直意識してしまうけど、本人はすでにあやふやになってるだろうし、今更傘の話なんてできないところがあった。
 思春期の男女って、見てみぬふりで、ぎこちないもんだと思う。
 
「あーあ、なんかまた雨降ってきたみたいだよ」
 誰かが言った。
 窓を見ればポツリポツリと水滴がついていた。
 雨といえば傘は付き物。
 その組み合わせは珍しくもないけど、私にはふと時々記憶を刺激されるときがある。
 雨の日に傘を持って、登下校しているランドセルを背負った子供達を見ると特に思い出す。
 私もかつてはあんな感じだったのだろうが、あの当時の事をぼんやりと思い浮かべてしまう。
 夢だったのか、分からないままに、今では曖昧に記憶が残っている感じ。
 小学一年生の時に起こったことだから、記憶が薄れても仕方がない。
 ただ衝撃だけは覚えていて、子供心ながら『えっ!』とびっくりしていた。
 それは突然、頬にキスされたからだった。

 思い出せる範囲で話をすると、雨の日の下校中、傘をすっぽりと被るようにして学校の校門をくぐった。
 周りには何人かいて、多分皆で一緒に帰っていたのだと思う。
 皆、傘をさして、金魚が泳ぐように好き勝手に動いては無邪気に歩いていた。
 その時、私の後ろで誰かが囃し立てるように騒ぎ出した。
 私が立ち止まって、後を振り向いたとき、黒いランドセルを背負った男の子が近づいてきた。
 傘で顔が良く見えなくて、半ズボンだったし男の子ということだけはわかった。
 その近づいてきている男の子の向こう側で、他の子供達がなにやら揉めていて、騒がしい雰囲気だった。
 激しい雨ではなかったけど、傘の先から雫がゆっくりぽたりと落ちていく。
 その時、近づいてきた男の子は持っていた黄色い傘を放りだした。
 傘は開いたまま反対向けに私の足元にころがって、まるで大きなコマのようにみえた。
 それに気を取られていると、私の傘の中に男の子の顔が入り込んで、気がついたら、頬に何か触れたように感じた。
 なんだかわからないままに、ぼーっとしていると、足元に転がっていた傘がまた持ち上げられて、その男の子は後に居た子供達の下へと駆けて行った。
 一瞬のことで、自分が何をされたのかわからず、騒ぎ立てている子供達を眺めていた。
 無意識に何かが触れた頬を触って、そこで初めて自分はキスをされたのではとはっとした。 
 それに気がついたとき、私は驚いて走って逃げていった。
 その後はどうしたのか、すっかり記憶が抜け落ちているけど、そのことだけはぼんやりとして残っている。
 今となってはどこまで信用できる記憶なのかわからない。
 口ではなかったのが不幸中の幸いだったけど。

 外はいつしかどんよりとした暗さに包まれて、雨は次第に強まって行く。
 これで桜が散って行くのだろうと、なんだか寂しくなるが、雨を見るとまた思い出す事が増えたかもしれない。
 山之内君に傘を貸したということが、また何年か後に雨と共に思い出される記憶となるのだろう。
 傘を貸したときはなんとも思わなかったのに、友達が山之内君の噂をしただけで気になるなんて、結局私もかっこいい人に弱いってことなのだろうか。
 妙に山之内君のことになると意識をしてしまうようになった。
 
 そしてその日の放課後。
「倉持さん」
 自分の名前が呼ばれた。
 顔を上げて、その声の方向を見て、私はビクッとしてしまった。
 教室のドアのところで、今一番ホットな話題の山之内君が立っていたからだった。
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