第五章


 私が『艶』とエプロンの関係を訊いたら、ヒロヤさんはにこやかになり、千佳は驚いていた。
 私が何かに気がついていると思い込んでるヒロヤさんの柔らかな笑みが、私には吸収されないまま、私は目をパチパチと何度も瞬いて一人浮いていた。
 千佳に助けを乞おうとするも、千佳はもどかしい思いで唇をかすかに震わせ、目を見開いているだけだった。
 どうもそれは口にしにくいことのように思える。
 それでも、私は千佳が話すのを待っていたが、千佳はどこかの次元に飛んでしまったように、目の前にいながら反応が何もなかった。
 異様な空気の流れに不安になって、事の真相が知りたいと私は再びヒロヤさんを見た。
 ヒロヤさんはやはり菩薩のように穏やかに笑い、何も心配することはないと私を和ませてから口を開いた。
「じゃ、僕が言うね」
「ヒロヤさん!」
 今まで凍っていた千佳が突然危機を感じ、まるで氷をかち割るように鋭く叫んだ。
「千佳ちゃん、真由ちゃんは理解力のある人だから、心配ないよ」
 私はひたすら「へっ」と頭に疑問符を乗せて二人の顔を交互に見ていた。
 そしてとうとう、ヒロヤさんは話した。
「『艶』は豊かな色とりどりの色と引っ掛けて婉曲に虹を意味してるんだ。ほんとは『虹』という漢字も考えたんだけど、直接的だったので、もろ強調しちゃうと思ったから『艶』にしたんだ」
「虹?」
「そう、虹には意味があって、同性愛のシンボルマークとして使われてるんだよ。そして、この店もそういうことをサポートしてるんだけど、実際この僕もゲイなんだ」
「えっ、ええー!」
 失礼だったけど、私も予期せぬことだったし、初めてゲイの人をまじかに見て正直驚いてしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい。あのその」
 声を出して驚いた事をなんとか理由をつけて誤魔化そうとしたが、ヒロヤさんは笑顔を絶やさずに大きな器で受け入れてくれた。
「いいんだよ、真由ちゃん、気を遣わなくても。そりゃ驚くよね。いきなりこんなこと聞かされて。でも、これだけは僕のありのままの姿なんだ」
「あの、その」
 どう受け答えしていいかわからずにしどろもどろだった。
 それはいいですね。
 いや、それはおかしい、この場合何を言えばいいのか全く分からず、突然額から吹き出る汗を手で抑えては、なんとか笑おうとしていた。
 そして千佳を見たとき、寂しげな瞳が揺れていたが、口元には諦めたように薄っすらとやるせない笑みが浮かんでいた。
 その時、私は何もかも理解した。
 なぜ千佳が男っぽい姿でいるのか。
 千佳は自分が男っぽくなれば、もしかしたらヒロヤさんが好きになってくれるのではという淡い気持ちを抱いてたに違いない。
 明彦が女の格好をするにしても、趣味がはいっているとはいえ、やはり姉の恋心を気にしてボーイッシュが不自然に見えないように、双子の利点を利用し、お互い心の性別が逆転しているかのように見せていた。
 だから姉思いの弟と千佳は表現していた。
『ああ、ほんと不公平だと思う。一層のこと変わってやりたいくらい。私もこんな風貌だから男だったらよかったのに』
 千佳が試食会で女装していた明彦を見て言った言葉だったが、あれは明彦のためじゃなく、自分に発した願いだった。
 ヒロヤさんがゲイだと分かれば、必然的にヒロヤさんを好きでいる千佳の心理がパズルのピースが埋まるように理解できた。
「千佳……」
 私は彼女の名前を無意識に呼び、そしてヒロヤさんを見た。
 ヒロヤさんは何も恥じることなく、私に真実が話せた事を心から喜んでいた。
 私もヒロヤさんがゲイだからといって、別に何も変わらない。
 ヒロヤさんはとても優しく、人情に厚い親切な人。
 私もこのまま変わらない友達でいたい。
「正直、びっくりしましたけど、それがなんなんですか。上手く言えないけど、私はヒロヤさんのお人柄が大好きですし、ヒロヤさんの事は大好きです」
「真由ちゃん、無理しなくっていいって。僕は何も隠してるつもりはなかったんだ。分かる人にはわかるからね。真由ちゃんも店の名前の意味がとうとう分かってくれたかって、ちょっと嬉しかったんだ」
 そのとき、拓登の顔色が変わった意味が分かった。
 アメリカ帰りの拓登には同性愛のシンボルマークが虹という事は知っていたのだろう。
 アメリカは特にそういういことにはオープンだから、自然と知識として身についていていてもおかしくない。
 そしてそれを関連付けてはっとして気がついた。
 そして瑛太も分かっていたから、本当の意味を語る前にその一歩手前の説明をしただけだった。
 真相をぼやかしていたために、そこに触れないようにそっぽを向いていたわけだった。
 なるほど、これで疑問が解けた。
「理解を示してくれる人には僕は正直にカミングアウトするんだ。だって友達になりたいし、大切な人たちだから、隠し事なんてしたくないでしょ」
「私もヒロヤさんにそんな風に思って頂けて嬉しいです」
 ヒロヤさんはハミングをしながら、上機嫌にカウンター内を片付けだした。
 そして私は千佳に振り向いて、何も言わずに全てを理解したと軽く何度か頷いて微笑んだ。
 できるだけ自然にしようとしすぎて、余計に少し引き攣っていたかもしれないが。
「その調子じゃ、何もかも分かったみたいだね。なんだ、半分くらいまでは気がついてたのか。だったらあんな回りくどいこと言わなければよかった」
「えっ、回りくどいことって、あれって、この事を言おうとしてたの? 私のことじゃなかったの?」
「えっ、真由、何それ、あんたどこまで鈍感なの? もうすでに全部分かったかと思ったのに。まだ気がついてないの?」
「えっ、まだ気がつく事があるの?」
「ちょっと、さっきから、えっ、えって、なんでそうなるのよ」
「だって、何のことかわからないんだもん」
「だから、真由の三角関係のことじゃない。なんで池谷君が真由を目の仇にするのか、これでわからないの?」
「はっ?」
「私はとっくに気がついたよ。あの試食会の時で。池谷くんが、山之内君を真由と座らせないように腕を引っ張ってカウンターに座らせたこと。試食後、どれが 一番美味しかったかと聞いたとき、山之内君の意見のあと池谷君も嬉しそうに同じだと言って合わせてたこと。池谷君の山之内君を見る目や、喋ってる時の楽しそうな笑い声もそうだけ ど、それを総合して、なぜ真由に敵意を向けるのか、その理由は一つしかない」
 私はここまで聞いて唖然としていた。
 私もわかりかけていた。
「それって、瑛太は拓登の事が好きってこと?」
「そう」
「うそっ」
「そう考えたら、しっくりとくるんだ。私がそう思うようになったのは、うちのアキと仲良くなれたっていうのが、ピピピと来たんだよ。アキは見かけが女っぽ いから、からかう男が多いんだ。アキは気にせずに適当にやり過ごしてるけど、心を開くことは絶対にないんだ。よほど理解してくれる人じゃないと。その点、 池谷君はそういう気質があるからか、アキとは真面目に接してくれて、アキはそこで信頼を抱いたんだ。それがあったから池谷君がどこか違う風に見えたんだ」
 そんな風に言われると、私も思い当たる事があった。
 瑛太はとにかく私の前ではネチネチしてしつこい。
 これは女性独特の性格に値するかもしれない。
 中学の時は女嫌いで有名だったと友達の萌もいっていた。
 やっぱり当てはまる。
「まさか」
 それでも私はどこかで否定をしようとしていた。
 そして何かの証拠を探すように、私はヒロヤさんの方を見た。
 ヒロヤさんはヤハリ聞いていたのか、それが良心の呵責で苦笑いだったけど、しっかりと私に答えてくれた。
「今度は瑛ちゃんのことかい。僕も見ててすぐにわかったよ。でも、僕はまだ知らないって事にしといて。どうせ瑛ちゃんは僕の事は疾うに気がついているんだ ろうけど、お互い知らないフリで通しておくよ。僕と違って瑛ちゃんはまだ高校生だから、かなり葛藤があると思うんだ。もしかしたら本人はまだどこかで否定 している段階なんじゃないかな」
 その道のことはその道に聞けじゃないが、ヒロヤさんは瑛太の事をとても心配している様子だった。
 その後はまた忙しく手元を動かしてその辺を掃除し出した。
 私は暫く、ぼーっとしてしまい、何を考えていいのか分からなくなってしまった。
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