第二章


 静けさの中でコンコンコンと小さく響く音にジュジュは、ビクッと体が反応した。すぐにそのノックに応えられず、身だけは起こしながら暫くベッドの中で固まっていた。
 モンモンシューは疲れていたために、それくらいの音では起きるのが億劫なのか、そのまま寝続けていた。
 ジュジュが何も答えないでいると、もう一度ノックの音がして、今度は遠慮がちに小さい声が篭って聞こえてきた。
「ジュジュ、もう寝ちゃった?」
 その声の質から、すぐにカルマンだと判別できた。
 ジュジュはベッドから起き上がり、閂(かんぬき)を外し、ドアを少しだけそっと開けて顔を覗かせた。
 すでに服は脱ぎ、寝巻き用に持ってきたすっぽりと頭からかぶるだけの簡素な白い布を纏ってるだけなので、躊躇いがちに様子を伺う。
 ドアの開いた隙間から見えるジュジュの姿にカルマンも一応ジュジュの恥じらいを察したが、それでも物怖じせず、カルマンらしくいたずらっ子のように、にやっと笑って、悪びれる態度なく振舞った。
「もう寝てた?」
「ううん、まだ寝る前だった。一体どうしたの?」
「あのさ、これをジュジュに渡したくて」
 カルマンは小さなガラスの花瓶をドアの隙間から差し出した。そこには一輪の赤いバラが差し込まれていた。
 突然目に飛び込んできた赤色にジュジュは圧倒される。それほどまでにそのバラの赤さは艶やかだった。
「あ、ありがとう」
 差し出されたからには、それを手にするが、突然の贈り物に戸惑いながらも、そのバラは美しいと素直に思った。そしてまろやかな芳香も微かに匂ってくる。
「みんなには内緒で渡したかったから、こんな時間にごめん。それじゃもう遅いから、また朝にね」
 カルマンは用が済むと、潔くさっさと去っていった。
 ジュジュはドアから顔を出し、廊下を歩いていくカルマンの後姿を確認して、そして静かにドアを閉めた。
 手にしたバラをまじかで眺め、そして鼻に近づけ軽く匂いを嗅げば、優しい匂いにうっとりしてしまう。
 殺風景で色の無い部屋に、その赤いバラは際立ち、香りが夢の世界へ誘(いざな)う魔力を帯びてるようだった。
「とても綺麗だけど、この屋敷にバラなんて咲いてたかしら?」
 どこで手に入れたのか、自分のために持ってきてくれた美しい花。それは女性なら素直に嬉しいと感じ、喜ばしてくれるものだった。
 赤色は希望が湧くように、力を与えてくれる魅力がある。例え一輪の花が部屋にあるだけで視覚と嗅覚が働き、心は落ち着く。
 カルマンの心遣いは確実にジュジュの心に入り込み、自然と顔が綻び笑顔になっていた。
「それにしても、見事な赤。浮き上がって見えるようだわ。そして香りもいい」
 うっとりと見つめていると、リラックスし、ついでにあくびまででてしまった。
 ジュジュは花瓶を枕元の近くに置き、そして手元のランプの灯を消してから、ベッドの中へ潜り込む。その後、眠りに落ちるまでそんなに時間が掛からなかった。
 暗闇となった部屋は、闇に包み込まれてその姿を消すはずなのに、赤いバラだけがその場所で妖艶に発色していた。
 まるでそれ自身が光を出しているように、それはジュジュが眠りについた後、さらに赤さが増して闇を赤く染めていき、芳しき匂いも、部屋一杯に充満していく。
 それはジュジュが体で感じ取った感覚が夢の中で誇張されただけかもしれない。
 それのお蔭か、ジュジュは気持ちよく熟睡していた。
 やがて夜の暗さが薄まって朝が近づきかけてくる。森の中の鳥達が囀(さえず)りだし、一日が始まる準備に取り掛かってあちこちでざわめき出した。
 真新しい光が徐々に強さを増していく中、生き物も植物も目覚めて姿を現し、屋敷もまたスポットライトに照らされるように朝日を浴びた。
 辺りがすっかり明るくなり、ジュジュの部屋にも光が届き、眩しい光がジュジュにも浴びせられた。モンモンシューはそれが邪魔で、光に背を向けるように寝返りを打ち、そのまま睡眠を続ける。
 枕元でごそごそと動かれ、ジュジュはそれに反応し、眠りから覚めて目が開いた。まだぼやけた視界と混乱している頭では瞬時に体は反応してくれないが、視界に飛び込んできた予期しなかった光景に、ジュジュはびっくりして飛び上がった。
「おはよう」
 ジュジュが驚いて我を忘れている状態の中、暢気に微笑んでいる輩がベッドの淵に腰掛けて挨拶を交わしてきた。
「か、カルマン!」
 目の前に突如と現れたカルマン。しかも足を組んで優雅にベッドに座り、ジュジュを見つめていた。
「寝心地はどうだった? 朝の気分はどうだい?」
「なぜ、あなたがここに居るの?」
 ジュジュは気が動転していた。シーツを掴み胸元に持ち上げ怯えきっている。
 その態度がカルマンには不服なのか、少し顔色が変わり怪訝になっていた。
「どうして怖がるんだい?」
「どうやって、ここに入ったの?」
「えっ、ドアからだけど」
 ジュジュは咄嗟にドアを見つめた。昨晩、バラを届けられた後、そのバラに気を取られて閂(かんぬき)を再び閉めるのを忘れたことに気がついた。
「なぜ、こ、ここに」
「ジュジュの事が心配でさ、様子を伺いにきてドアに触れたら、開いたからびっくりしちゃった。それでつい、好奇心から覗き込んじゃった。そしたら、あまりにも寝顔が可愛かったからつい見取れちゃって、まるで眠れるプリンセスみたいだったよ」
「えっ」
 ジュジュは思わずドキッとしてしまう。もしかしてカルマンは自分の正体に気がついているのだろうか。思わずカルマンの目を見つめてしまい、その様子を探ってしまう。
 カルマンもそれを受け止め、見つめ合う形で、笑っていた目が真剣みを帯びだし、あどけない表情から急に真顔になった。少年のあどけなさが消えたカルマンは急に男の魅力を表情で形どる。
 ジュジュはその表情に困惑し、訝しげになりながらも、操られたように視線が固定された。
「ジュジュ、君は本当にかわいい」
 カルマンの手がジュジュの頬に触れ、ジュジュはドキッとして体が固まって動けなくなった。
「柔らかいきめの細かい肌。薄っすらとピンクに染まった頬。美しい輝きのグリーンの目。そして何より、君のその誘うようなぷっくりした唇。全てが完璧だ」
 前日とうって変わったカルマンの態度にジュジュは目を白黒させ、対応に困っていると、ゆっくりと目を閉じたカルマンの顔が近づいてくる。
 声も出す暇もなく、このままでは唇が重なってしまうと思ったとき、何かがジュジュの顔を横から押しやり、というより蹴りが入ったように衝撃を食らった。
 ジュジュが痛みを感じて、顔を擦るように触れながら体を斜めにしていたその隣で、カルマンがモンモンシューとキスをしていた。
 モンモンシューが咄嗟に体当たりして、自分を救ってくれた? それにしてもやり方が雑で痛さが伴った。
 暫く、カルマンとモンモンシューの口と口の重なりを見ていると、モンモンシューが舌をチョロチョロと出して異様に舐めまくっていた。
「ジュジュ、くすぐったい。そんなに大胆にならなくても」
 カルマンが目を開け、自分が何にキスをしていたかがわかると、驚きと共に容赦なくそれを手で思いっきりはたいた。
 モンモンシューは軽く部屋の隅まで飛ばされていった。
 カルマンはもう一度、ジュジュに向き直り、全てをリセットした上で、再び真面目な顔つきになりもう一度同じ台詞を繰り返した。
「柔らかいきめの細かい肌。薄っすらとピンクに染まった頬。美しい輝きのグリーンの目。そして何より、君のその誘うようなぷっくりとした唇。全てが完璧だ」
 先ほどと同じシチュエーションを執拗に繰り返すカルマンに、疑問符は湧くが、すでに呪縛から解き放たれた二度目は、カルマンを思いっきり突き飛ばす余裕があった。
「カルマン、やめて!」
 ジュジュに拒絶され、カルマンは酷くショックを受けて動揺しだした。
「ジュジュ、なぜだ、なぜ、僕を拒否する?」
「拒否も何も、寝てる間に勝手に部屋に入り込んで、キスなんてする方がおかしいわ」
「どうして?」
 ジュジュが立腹しているのに、カルマンからは反省も、悪気すら全く感じられず、無邪気な答え方をされるとジュジュの方が却って戸惑った。
「えっ、どうしてって、カルマン、あなたおかしいわ。こんなのフェアーじゃないし、こんな事していいと思ったの?」
「ああ、一応そう思ったんだけど…… だって君はそうされることを喜ぶはずなんだ」
「ちょっと待って、あなたってどこまで、思い上がりが激しい人なの」
 ジュジュが拒んでいるというのに、カルマンはまだ諦めようとはせず、側にあったバラの花を手にしてそれをジュジュに向けた。
「ほら、これだよ。このバラを君は受け取った」
「確かに受け取ったわ。素直にその行為は嬉しかったけど、だからと言って、その結果がこれって度が過ぎてるわ」
「えっ?」
 カルマンは呆然としてジュジュを見つめ、ジュジュがここまで取る態度に納得いかないでいた。
「おかしい……」
「おかしいのはカルマン、あなたよ」
 それでもカルマンは懲りずに、無理やりにも顔を近づけキスを迫るので、ジュジュはベッドから抜け出し、身近にあった花瓶を手にして構えた。
「これ以上近づかないで」
「ジュジュ、ちょっと待って。落ち着いて」
 カルマンはなんとかしようとジュジュに近寄ろうとするが、ジュジュは退ける。このままでは一向に平行線を辿り、自分の力だけではどうする事もできないと判断したその時、「誰か来て! 助けて!」と声を上げていた。
 その直後、モンモンシューもカルマンの顔をめがけて突進し、そしてへばりついた。
 カルマンはその衝撃でよたよたし、バランスを崩して床に転げてしまい、暫くモンモンシューとバタバタ格闘する。カルマンが引き離そうと試みるが、モンモンシューは接着剤でくっ付けたようにぴったりとしがみ付いていた。
 ジュジュはハラハラしてそれを見守っている。
 そこにジュジュの叫びを聞いたマスカート、ムッカ、バルジが次々と駆け込んできた。
「何事だ! ジュジュどうした?」
 寝巻き姿ながらマスカートは威勢よく構え、非常事態に緊張していた。後ろには同じく寝巻き姿で頭をぼさぼさにしたムッカが、血相を変えている。バルジだけがすでに身だしなみを整えていた。一番警戒し、誰よりも素早く戦えるように手には斧が握られていた。
 そんな三人が飛び込んできたその足元で、カルマンはまだ床に転がって、モンモンシューに襲われている。三人は咄嗟に状況が判断できず、ジュジュに視線を向けた。
 ジュジュは注目を浴びたことで、自分がまだ寝巻き姿だったことに恥じらいを持ち、急にモジモジしてしまった。
「あの、その……」
 その気持ちを覆い隠そうと、思わずベッドのシーツを引っ張り、それを体の前に掲げた。
 その時、赤いバラの花も一緒に床に零れ落ちた。
 それを見て、バルジがはっとした。
「まさか、カルマンがジュジュに手を出したのか」
 バルジの低い声で、目を覚ますようにマスカートとムッカもはっとし、カルマンがこの部屋に居ることの意味にやっと気がついた。
「カルマン、奥の手って、まさかこのことだったのか」
 ムッカが前夜に交わした話を思い出し、その事態の重さに驚愕する。
「お前、一体何を考えているんだ」
 今度ばかりは度を越え、やりすぎだといわんばかりにマスカートは怒鳴った。
「ちょっと、とにかくまずは、このチビをなんとかしてくれ」
 モンモンシューの攻撃は一向に収まることなく、カルマンの顔を覆っている。だがそれは傷つけるというより、離れたくないという執着の方が強い。
「モンモンシュー、もう大丈夫だから」
 ジュジュが離れるように施しても、それは収まることがなかった。まだ気が動転して、最後までジュジュを助けようとしているのかもしれない。
「お前が先に落ち着け」
 バルジがカルマンの首根っこを掴みそれを引き上げた。カルマンが大人しくなっても、モンモンシューは顔に引っ付いたままだったが、それ以上ひっぺはがす気力も抜け、カルマンはそのままで突っ立っていた。
「カルマン、ジュジュに何をしようとしたんだ」
 マスカートがリーダーらしく問い詰めるが、寝巻き姿ではカッコがついてない。それを見て、カルマンはつい笑ってしまう。
「無様な姿は僕だけじゃなくて助かった」
「馬鹿ヤロー」
 マスカートが手を出しそうになる寸前でバルジがその手を掴んだ。バルジはモンモンシューにまで危害が加わることを懸念していた。それに気がつき、マスカートは「コホン」と喉を鳴らしてから落ち着きを取り戻した。
 モンモンシューが顔にへばりついたまま、カルマンは大きく溜息をついた。
「とにかく、まだ何もしてない。未遂で終わった」
「カルマン! なんだよ、その開き直った態度は。未遂って、それってやる気満々だったって言ってるのと同じじゃないか」
 ムッカが呆れ返った。
「未遂だったんだからいいじゃないか」
「いいことあるわけがないだろう。どこまでお前はふざけているんだ」
 マスカートも我慢できずに声を張り上げてしまう。
「ふざけてなんていないよ。ジュジュは僕を好きになってもおかしくはなかったんだ!」
「お前、まさか昨晩の話を有言実行しようとして……」
 マスカートは思わずムッカと顔を合わせた。
「昨晩の話?」
 ジュジュが首を傾げ、訝しんでいる表情はマスカートとムッカには居心地が悪かった。
「な、なんでもないんだ。だけど、ジュジュ本当にすまない」
「マスカートが謝る事はないんですけど、私も何か勘違いさせる行き違いがあったのかも。あまりにも話が通じなくて」
 ちらりと横目でカルマンを見れば、モンモンシューがへばりついたまま、うな垂れて意気消沈している。その姿も哀れみを誘い、なんだか不思議だった。
「ジュジュ、こんな事になっても、まだここにいたいと思うか?」
 バルジがこれを機にして、質問を投げた。
 ジュジュだけじゃなく、そこに居た誰もがハッとするようにジュジュを見つめた。
 一度に視線を浴びてドキッとしたのもあるが、そのストレートな質問にどう答えていいのか、ジュジュは逡巡する。
 皆がその質問の答えを待っている時、その輪に加わってない、第三者が代わりに答えた。
「そこで何をしている?」
 一同が一斉に声がした方向を振り返った。
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