第三章


 リーフはその後また書斎に篭り、その日は一切出てくることはなかった。
 マスカートとムッカはドルーを街まで送り届け、その日は暗くなってから屋敷に戻ってきた。
 先に戻ってきたカルマンとバルジが、時々ぼんやりとしてボーっとしているジュジュの様子がおかしい事に気がつき、様子を尋ねるもジュジュは首を横に振るだけで、何が起こったか一言も喋らなかった。
 書斎に篭りっ放しのリーフも説明するわけもなく、カルマンは知りたくて好奇心が押さえきれずにヤキモキしていた。
 マスカートとムッカが屋敷に戻ってきた時も、二人して暗く口を閉ざし、食事時も一言も喋らない。
 皆で食事をしていたダイニングルームは食器とシルバーウェアーがカチャカチャ音を立てるだけで静かなものだった。
 モンモンシューまでも、周りを気にして静かに食べていた。
 バルジは元々無口で静かに行動するため、この場合除外できるが、マスカート、ムッカ、そしてジュジュまでも明らかにいつもと違う態度に、カルマンは食事が食べ終わって口許を拭った後、我慢の限界で不満を口にだした。
「ちょっと、皆、なんかおかしいよ。一体何があったの?」
 一番能天気で、普段から空気を読まないカルマンが声を上げると、マスカートは面倒ごとのように顔を歪める。
 そのマスカートの表情をムッカは素早く読んで、ダイニングテーブルから立ち上がり、カルマンに顎で指図する。そして先に部屋から出て行くと、カルマンも何かが聞けるとばかりに、喜んでついて行った。ついでにモンモンシューも便乗していた。
 マスカートは静かに席を立ち、ジュジュに食事がおいしかったと伝える。そして悩んだ末に、後で裏庭に来て欲しいと伝えてから出て行った。
 バルジの瞳はそれを見て、何かを言いたそうにしていたが、敢えて何も言わず、立ち上がっては皆が食べ終わった皿を黙々と片付けだした。
 ジュジュもそれに続いて、片付けだした。
「今夜の食事もとても美味しかった」
 バルジは片付けながらさりげなく伝える。
 ジュジュは笑顔を作ってバルジに向けた。いつもならもっと明るく鞠が跳ねるように言葉を返すジュジュが、精一杯に微笑んでいる姿を見て、バルジも無視が出来なかった。
「ジュジュ、大丈夫か? 私はリーフからすでに聞いた」
 リーフに食事を持っていくのはバルジの役目だった。その時に話を簡単に聞いたらしかった。
 バルジが騒動の顛末を知っていると伝えたことで、ジュジュの目は見開いた。
 そして気を取り直して、無理に笑顔を作って答えた。
「ええ、大丈夫よ……」
「そっか」
 もう少しリーフがどのように話したのかジュジュは訊きたかったが、無駄にバルジは喋ってこない。バルジもどうしていいのかわからなかったのもあるだろうが、ジュジュは催促するように、チラチラとバルジの顔を見ていた。
 この後も食器洗いを手伝ってくれるものの、バルジは何も話さなかった。
 ドルーに包丁を向けられ、恐ろしい思いをしてショックを受けたが、そんな事はジュジュの頭からすでに抜けていた。ジュジュがこの時気にしていたのは、リーフによって抱きしめられたことだった。
 避けられて嫌われていると感じていただけあって、あのリーフが取った行動はジュジュの思考能力を麻痺させ、それで頭が一杯になってしまう。
 一瞬の出来事だったが、ジュジュのためを思って、慰めてくれたリーフの思いが、ジュジュにはとても嬉しかった。
 それと同時に、ドキドキと胸が高鳴り、あの時抱いたぬくもりが、思い出すたびに蘇りまだ体に残っている。ジュジュにとってはこっちの方が大事件だった。
 片づけが終わってしまうと、バルジは台所から出て行こうとする。ジュジュは思わず呼び止めた。
「バルジ、リーフは何か言ってなかった?」
 バルジは大きな山のごとく泰然と立ち、暫く考え込んでから口を開いた。
「何があったか事実を聞いただけで、特にジュジュに対しては何も言わなかった」
「そう……」
 ジュジュ自身、何を期待して、バルジに訊いたかわからなかった。
 バルジは台所から出て行こうとしたが、この時逡巡して、もう一度立ち止まった。少しだけ振り返るように首の角度を変え呟いた。
「毎日の食事が美味しいとは言っていた」
「えっ?」
 ジュジュが聞き返すも、バルジは話をするつもりはなく、さっさと去って行った。
 その言葉の意味がじわじわと心に沁み込んで、ジュジュは自然と顔を綻ばしていた。

 台所の裏口を開ければ、マスカートが裏庭でぼんやりとして夜空を眺めていた。風がひんやりと流れている。少し肌寒く、足を一歩外に踏み入れると身が引き締まる。
 そんなに長くは居られないような気温の中、マスカートはまるで凍ったように動かず突っ立っていた。
「マスカート」
 小さく名前を呼べば、静かに振り向く。
「ジュジュ……」
 消え行きそうに声が震えていた。
 お互いの顔がやっと至近距離で見える薄暗い中、二人は向き合った。
「本当に申し訳なかった」
 マスカートは心からジュジュに謝罪をする。ジュジュはそれを素直に受け入れた。
「大丈夫よ。もうなんとも思ってないから。それよりも、マスカートの方が……」
「私はいろんなことが見えてなかった。ドルーという女性に惚れた時も、失恋した時も、今までの毎日も。いや、見ようとしてなかった。なんて私は愚かだったのだろう。ジュジュをあんな危険な目に合わせてしまうし」
「私はもういいって言ってるでしょ。それに誰だって愚かな事は犯すわ。マスカートだけじゃない」
「ジュジュ」
「そして皆、気がついてその都度学んでいくんだと思うわ」
 マスカートは身を震わしていた。ぐっと歯を食いしばり、自分の感情を押さえ込んでいる。
 ジュジュはそんな姿を見ていると、慰めてやりたくなる。その思いが自然に行動に現れ、全てを包み込むようにそっとマスカートに抱きついた。
「何も我慢しなくていいと思うわ」
 マスカートが抱き返すことで、押さえ込んでいた感情が、体から抜けていくのがジュジュには感じ取れた。辛い時、悲しい時、耐えられない時、誰かが支えてくれると気持ちが楽になる。
 抱きしめる事は気持ちをやわらげる効果が確実にあった。
 リーフもあの時、ジュジュを見てそう思ったに違いない。
 ジュジュは夜空の星を仰ぎながら、暗闇によって現れる星の光に隠れた優しさを重ね合わせていた。
 気がつかなければ見えないもの。
 この屋敷には、それが沢山あるような気がした。
 マスカートが落ち着いたところで、急に我に返ったのか、ハッとして、慌ててジュジュから離れた。
 コホンと空咳を一つすると、今度は照れたようにモジモジしていた。
「何度もすまない、ジュジュ。私は本当に情けない。ジュジュのやさしさに甘えてしまった」
「お互い助け合えることがあるのなら、私はそれでいいと思う。マスカートがそれで気持ちが楽になるのなら私は嬉しいわ」
「ありがとう。それじゃ私もジュジュが助けを必要とする時は、喜んでこの身を捧げようではないか」
「ちょっとそれ、大げさよ」
 ジュジュとマスカートは夜空を見上げて笑いあった。
 マスカートの心にはジュジュへの思いが募るが、それは敢えて言わない。自分が星を眺めてその美しさを楽しむように、遠くから見つめているだけで充分だった。
 ジュジュには自分のような男よりも、もっと立派な男が似合う。マスカートには高嶺の花だという事を充分に理解していた。

 広間では、ムッカが一通りカルマンにこの日起こったことを説明していた。
 カルマンは時々突っ込んで茶化していたが、ジュジュが刃物を向けられて命を脅かされたことには、真剣に怒りを露にした。
「なんでマスカートもムッカも近くに居たのに、ジュジュを守りきれなかったんだよ。リーフが現れてなかったら一体どうなってたことか。何やってたんだよ、全く」
「だから分かってるって。充分堪えてるよ。それで落ち込んでるっていうのに。あれは本当に隙をつかれた一瞬だった。あんなこと起こるなんて想像もつかなかったんだ」
「何言い訳してるんだよ。なんとでもなっただろう」
「だったら、カルマンなら助けられたとでもいうのか?」
「ああ、僕なら絶対に助けられた」
「好きなように言えばいい、俺を罵ったっていい。今更何を言ったところで、自分の汚点には変わらない。本当に何も出来なくて悔しい」
「へぇ、ムッカにしてはえらく殊勝だな。とにかく無事に済んだから、もういいけどさ。ジュジュ大丈夫だろうか」
「なんとか気丈に振舞ってるけど、ショックは大きいと思う」
「まあ、後で僕がなんとか慰めるよ」
「おいっ、変なことするなよ。お前も危ないんだから」
「それで、マスカートの方はどうなの?」
「かなり参ってるのは確かだ。あれからドルーを街まで送り届けたけど、送り届けた後で、耳打ちしてきた奴がいて、どうやらドルーは今、金持ちの男を漁ってるらしいと噂されてた」
「あれ? 金持ちと付き合ってたんじゃないの?」
「それが、その男が破産して無一文になったらしい。地位も家も何もかも奪われてしまい、それでドルーは捨てたんだとさ」
「わぉ、第二のマスカートじゃないか」
「それで、オーガの森で活躍しているマスカートの噂を聞いて、取り入ろうとしてたらしい。充分に稼いでると思ったんだろう。実際はそうでもないけどさ、名声だけは上がったからな」
「ということは、ドルーって女は相当守銭奴ってことだな。そんな女と知り合ってしまったマスカートが可哀想」
「カルマンに同情されるなんて、私も安っぽく見られてるな」
「マスカート」
 突然広間にやってきたマスカートにムッカとカルマンは居心地悪くなった。
「いいよ、別に続けてくれて。私は気にしないから」
「どうしたんだよ、マスカート。なんか急に逞しくなって」
 カルマンが突っ込んだ。
「まあね、ちょっとね。それより、一部だけ訂正させてもらう。私がドルーと知り合った時、彼女は素直で優しい女性であった事は確かなんだ。だが、彼女の家 は貧しくて、苦労ばかりしていた。私もできる限り助けてあげたかったが、自分の事で精一杯で勉強が忙しく充分構ってやれなかった。学力があればいい仕事が 見つかると必死だったんだが、ドルーは年を取ることで焦りを感じ、待てなかっただけだ。親が金持ちとの付き合いを勧め、仕方なかった部分は本当にあったと 思う。私は彼女を責められないよ」
 少し口許を上向きにさせ、マスカートは寂しく笑う。
 以前のように、自分の世界に入り込んで全てを否定して逃げていたマスカートではなかった。
 ムッカとカルマンは顔を見合わせて面食らっていた。
「なんか急に大人びたみたいだね。一体何が起こったの?」
 カルマンに突っ込まれて、マスカートはにこやかな笑顔を向けた。
「ちょっと、学んで賢くなったってことさ」
「けっ、結局はかっこつけてるだけかよ。自分で揉め事持ち込んで、一人だけ爽やかに解決しやがって、巻き込まれた俺の身にもなれ」
 ムッカはマスカートに飛び掛った。二人はもみ合うも、笑顔でじゃれあっていた。
 広間の隅で、バルジはモンモンシューを相手にしながら静かに話を聞いていた。少しずつだが、この屋敷の空気の流れが変わってきているのを感じていた。
 バルジは何かを問いかけるようにモンモンシューと目を合わせていた。
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