第四章


 ジュジュは心臓をドキドキとさせ、屋敷に戻ってきた。走ってきたことで息も荒く、咳が出てくる。新鮮な空気を吸いたいのに、上手く吸えずに苦しく喘ぐ。
 やがて咳は止まり、ようやく深く息も深く吸えるようになっても、胸につかえた苦しさは中々抜けてくれなかった。
 セイボルが嫌いで逃げたわけじゃない。寧ろセイボルの事は好きだといえる。
 恥かしがってジュジュに接する態度も、涼しい目元が優しくなって笑う笑顔も、子供じみて一生懸命になるところも、何よりジュジュを喜ばそうと常に自分の事を考えてくれるところも、心を満たしてくれて心地よい。
 その一方で、ジュジュは同じようにリーフも見ていた。
 人前に出ることを嫌い、冷たく突き放しては、事務的に振舞う態度。意地を張って悪ぶれているのに、それらは全て本心を見せないようにしている。どこかで何かを試すようにわざと振舞う裏で、ジュジュには優しさを覗かせる。
 セイボルと会えば、リーフを考え、リーフに会えばセイボルを考える。どうしても二人の事を同時に思ってしまう。
 同じ顔がジュジュの目に見えているものを混乱させる。
 セイボルがリーフのように振舞ってキスをしようとしてきた時、ジュジュは自分の迷いを見られているようでどうしても受け付けられなかった。
 セイボルが好きだとはっきり言えるが、その対となってしまったリーフの事もジュジュは好きだと言えてしまう。
 自分でも説明がつかないくらいに、同じ顔を交互に見てしまうと、どっちがどっちだかわからなくて、そんな答え方になってしまう。
 一時のただの気の迷いかもしれない。これが恋なのか、この状況にただ酔ってるだけなのか、本来の好きになった人を探すことを諦めたとたん、優柔不断に恋を楽しむだけに成り下がってるように思えてならない。
 何しにここに来たのだろうか。
 ジュジュは森の中に迷い込み、出口がわかっていても、ずっと混迷した状態を自ら続けているように思う。
 この状態に慣れ過ぎて、ずっとこのままでいたくて、先に進みたくない甘えがあった。現実が怖い。いつかはお城に戻らないといけない、自分に課せられた使命。
 まっすぐある道をわざと見ないで、横道にそれてそれを楽しんでいる。そこに恋もしたいと、乙女心にはしゃいで、夢見心地になっている。
 自由になったとたん、手に入れたものを全て失いたくない欲。
 セイボルとリーフの存在も、自分の中で位置づけて、二人と接触することを楽しんでいるようなものだった。
 モンモンシューがジュジュに向かってうるさく鳴いている。それは文句を言ってるように聞こえた。
「グゥー、ギャーゥ、モッキュ、ブォーン」
「わかってるって。そんなに怒らなくても」
 モンモンシューは首を横に振っていた。目を凝らして真剣にジュジュに向かって訴えても、モンモンシューが言いたい事はこの時ジュジュには伝わらなかった。
「クー、クー」
 最後は悲しくなって、落ち込んでいる。
「モンモンシューごめんね」
 ジュジュが抱きしめようとすると、モンモンシューはするりと抜けて、どこかへ飛んでってしまった。
 モンモンシューがジュジュに対して怒ったところなど見た事がない。
 余程腹に据えかねた様子だった。

 玄関先から、マスカートとムッカの声がする。
「ただいま」
 二人の表情が疲れている。いつもなら、何気にその様子を伺うが、今は自分の事で精一杯で、ジュジュは「おかえり」と挨拶するだけだった。
「おーい、バルジ、マーカスに馬車が待ってること伝えてきてくれ。私は少し部屋で休むよ」
 マスカートは二階へ上がって行った。その様子からドルーとの問題がまだ解決してなさそうに思えた。本人もそのことについては話したくないから、さっさと部屋に行ったのだろうが、そんな事を考える前に、自分の事をまずなんとかしなければならなかった。
 ジュジュもまた、マスカートの疲れが移ったように、顔が曇っていた。
「お、ジュジュ、なんか元気なさそうだな」
 ムッカに言われて、ジュジュはハッとする。
「もしかして俺達が居なくて寂しかったとか? だったら嬉しいけどな……」
 ムッカは勝手に喋って、広間に入っていった。ドシッとソファーに勢いで座り込む音が聞こえ、ムッカも疲れていることが伺えた。
 奥から、バルジに付き添われてマーカスが足をふらつかせてやってきた。顔も真っ赤で、相当飲んで酔っている。
「よぉ、ジュジュ。会えて嬉しかったよ。あんたはかわいい。今度はもっとゆっくり喋ろうな」
 屋敷の外では馬車が待っていた。御者はあたりをキョロキョロしていたが、カルマンを見つけると急に笑顔になり、走って近寄って行った。
 二人はコソコソと周りを気にするように何か話していた。
 バルジは馬車にマーカスを乗せるが、ふらふらしてずり落ちそうに不安定だった。
「あっ、マントを忘れたわい。バルジとってきてくれ」
 バルジはすぐさま戻って取りに行く。
 マーカスは一人馬車の上で今にも落ちそうにゆらゆらしていた。ジュジュは心配になり、マーカスに近づいた。
「帰る時は揺れますから、落ちないように気をつけて下さいね」
「おー、優しい子じゃのう。ありがとうな。ジュジュ。リーフから聞いたけど、あんた昔、腰掛毒キノコの生息地に入って、花粉を浴びて、逃げる途中で沼地に落ちたんだってな。よく助かったこっちゃ。この森は危ないからくれぐれも気をつけるんじゃぞ」
「えっ、今、なんて? 腰掛毒キノコ? 沼地? えっ? えっ?」
 ジュジュの気が動転していると、バルジがマントを持ってきた。それと同時に御者も何かを抱えて戻ってきて、そそくさと馬車に乗り込んだ。
「あ、あの、マーカスさん?」
 マーカスはすでに船をこぎコックリしていた。
 そうしているうちに、馬車は動き出し、長居は無用だと言わんばかりにさっさと行ってしまった。
 ジュジュは耳にした言葉に捉われすぎて、呆然として小さくなる馬車を眺めていた。
 そこにカルマンがやってきて、無邪気に質問してくる。
「ジュジュ、今日の夕食の献立は何?」
「腰掛毒キノコ……」
 ジュジュは無意識に答えていた。
「えっ、毒キノコ? ジュジュ、冗談きついよ」
 カルマンは笑っていた。そして走りよってバルジに近づく。
「あっ、バルジ、リーフっていつまた出かけるんだろう」
「どうしてそんな事を訊く?」
「なんかジュジュが来てから、家にずっといる時間が長くなったなって思っただけ。余程ジュジュの事が気に入ってるんだね」
 何気にカルマンが言った言葉に、ジュジュは反応した。
 振り返れば、カルマンとバルジが肩を並べてドアを潜ったところだった。
 ジュジュはマーカスが言った言葉を何度も反芻はんすうしていた。
『リーフから聞いたけど、あんた昔、腰掛毒キノコの生息地に入って、花粉を浴びて、逃げる途中で沼地に落ちたんだってな』
 それはジュジュにしか知りえない事実。この言葉が意味することは……一つしかない。
 自分を助けだした人物は、リーフ──
 ジュジュは屋敷を見上げて、放心状態になっていた。
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