第一章


 俺が小学4年生の頃、夏休みに母に連れられて伯母の家に数日の泊りがけで遊びに行ったことがあった。
 芳郎兄ちゃんはちょうど高校受験を控えた忙しい夏で、その時は塾の強化合宿があったらしく、家には居なかった。
 いつも相手してくれる芳郎兄ちゃんが居ないと、少しがっかりしたが、その分、伯父も伯母も自分の息子を補うように俺を可愛がってくれた。
「折角来てくれたのに、芳郎がいないと悠斗ちゃんも遊ぶ相手が居ないから、つまらないかもね」
 伯母が気を遣ってくれる。
 いつも遊んでくれる芳郎兄ちゃんがいないのは残念だったが、受験だし、いてもきっと遠慮して遊べなかったと思うと、俺は気を遣って首を横に振った。
「あっそうそう、お向かいに葉羽(はばね)ちゃんという女の子がいるんだけど、悠斗ちゃんと同じ学年だから、一緒に遊べるか頼んであげる」
 俺は一瞬、女の子と聞いて気が乗らなかった。
 そこまでして自分の遊び相手を無理に用意されなくてもいいのに。
 自分の意見を言いたいと唇が微かに動いたが、伯母に遠慮して声が伴わなかった。
 ニコニコとたおやかな笑顔の伯母に、逆らってはいけないものを子供心ながら感じ、俺はただ曖昧に笑ってごまかした。
 それを歓迎とみなした伯母は、俺のために躍起になって、早々と家を出て向かいの家に走り、その日の午後一緒に遊ぶ約束を取り繕ってきた。
 伯母の事だから、俺が是非とも遊びたがっていると、大げさに言ったことだろう。 
 伯母はこの近所でも頼られてるところがあり、何かあると面倒見がとてもいい。
 そうなるとその反対も然り、伯母が頼みごとをすれば、拒む人がいないくらい、とても信用された人望の厚い人だった。
 だから俺もそれを充分理解してたからこそ、気乗りしなくても断ることなどできなかった。
 伯母の意見は、素直に聞くのがいつも正解だった。
 自分の母親と言えば、そんな姉に甘えて頼りきっては、俺のことなどすっかり眼中から消えて好きな事をし始めた。
 手始めに買い物に行くと言い出して、伯母に車を出してもらってさっさと準備をしてしまうから、俺も同じように家からほっぽりだされて、そのお向かいの葉羽の家に嫌がおうでも行くことになってしまった。
「よろしく頼みます」
 頭を下げて、母も伯母も俺を向かいの家に置いて、さっさと去っていった。
 こんなことが出来るのも、伯母の近所付き合いの中で、花咲家は特に仲がいいからだった。
 芳郎兄ちゃんが、ときどき葉羽の勉強を見てやることもあるらしく、この花咲家は俺が芳郎兄ちゃんの従兄弟というだけで、面識なくとも、すでに芳郎兄ちゃんと同じ分類として信用しきって受け入れてくれた。
 実際俺は、芳郎兄ちゃんなんかと比べものにならないくらい、月とすっぽんだというのに。
 知らない家で気を遣うのも、かったるかった。
 あまり愛想もなく、その家の敷居をまたぐ。
「いらっしゃい」
 その家の母親が、上品な笑みを浮かべ明るく歓迎してくれた。
 庶民代表の生活に疲れきっている俺の母親と、全く対照的な気品と優雅さに、俺は一瞬たじろいだ。
 この街に住んでいるというだけで、この辺りは誰も彼もが生活に余裕を持った金持ちということなのだろう。
 それについては俺は子供過ぎてまだ妬みも感じなかったが、子供心ながら金があるところは生活に余裕があるだけじゃなく、心にも余裕ができて自然と優しくなれるんだと自分の生活と比べて感じていた。
 だから葉羽にもそういう気質が元から備わっていたから、むっつりした俺でも、気遣って優しくしてくれたに違いない。
 そういう気遣いを肌で感じ、俺はどういう態度で接したらいいのか困惑して、玄関先で棒のように突っ立っていた。
「ええと、芹藤悠斗君だったね。さあ、どうぞ遠慮せずに上がってちょうだい」
 葉羽の母親は、温かく俺を迎えてくれた。
 その後ろで、少し恥ずかしげに葉羽が様子を伺っていた。
 もう一人、小さい男の子が俺をじっと見ている。
 どちらも人見知りするのか、恥ずかしがって母親の服をつかみ、緊張しながらもじもじしていた。
 俺は、覚悟を決めて遠慮なく「お邪魔します」と、大きな声を出して家に上がると、二人はどきっとして、体がぴくりと反応していた。
「えっと、こっちが葉羽で、こっちが弟の兜(カブト)。ほら、挨拶は?」
 消え入るような声で葉羽は「こんにちは」といい、兜はただ目をらんらんとさせてじっとみていた。
 その時の葉羽は、お転婆を思わせるショートヘアーをしていた。
 でも、全然活発そうでなく、どちらかというと、体が細くて背も小さいので、ヒョロヒョロとしたもやしみたいだった。
 顔の印象は、会ったばかりだから、かわいいとか、そういうのを全く意識しなかった。
 ただここで一緒に遊ばないといけない苦痛を、どう乗り越えようかとそればかり気にしていた。
 まだお互い小学生であまりにも子供過ぎて、容姿など性的な魅力を気にかけるようなものじゃなかった。
 ただ、葉羽という名前の響きが、どうも唐辛子のハバネロを思い出させて、変な名前だななんて思ってはいたけど。
 でも、葉っぱの羽と書いてハバネと読む漢字を知ったとき、なんとなく昆虫のイメージがわくと、弟の兜もカブトムシを連想させた。
 花咲葉羽と苗字とくっつけば、葉羽は花咲くところで飛び回る妖精にも感じられた。
 実際彼女は妖精だったのかもしれない。
 そんな事をこの近所に住む緑川さん、通称サボテン爺さんもそう言っていた。
 サボテン爺さんとは名前のごとく、サボテン好きで、サボテンをいくつも育てているこの街の名物爺さんだった。
 家の周りにはサボテンが植えられて、そこだけアメリカのアリゾナ州か、またはメキシコのようになっている。
 別に、沢山サボテンを植えたからといって、人に迷惑をかけているわけでもないので、皆は親しみを込めてサボテン爺さんと呼ぶらしい。
 サボテン爺さんの話は、遊び出すとすぐに葉羽の口から出てきた。
 もしこの時、サボテン爺さんの話がでなかったら、俺は葉羽と深く交わる事がなかったかもしれない。
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