第二章 見守るサボテン
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家に帰る準備が整い、伯母の家を去ろうとしていた朝、すでに気温が上がりつつある中で、葉羽と兜も一緒に見送ってくれた。
突然の俺の訪問。
それなりに退屈しない日々を一緒に過ごし、兜とは男同士の友情も芽生え、そして葉羽ともこのまま去るのが少しもったいないような気分にさせられた。
だが、ここでの生活は俺には夢の中の出来事に過ぎなかった。
俺は覚悟を決めて、現実のあのつまらない生活に戻る事を受け入れる。
いつまでも感傷に浸ることすら諦めないといけない虚しさに、俺はなんだか泣きたくなってしまった。
でもそんな顔見せられる訳がない。
何事もなかったように、そっけない表情をしながら、足だけ踏ん張って耐えていた。
「また来るでしょ?」
葉羽に力強く念押しされると少し気が緩んで涙腺が熱くなりかけた。
それを飲み込み、なんでもない事のようにあっさり返事した。
「うん」
伯母の家がここにある限り、必ずまた戻ってこれる事を自分に言い聞かせ、口元を少し上げて余裕の笑みを装ってみた。
葉羽はそんな俺の顔をどこか心配そうに瞳を潤わせてみていた。
別れが惜しいほど、そんなに気に入られたのだろうか。
男ならそれは嬉しい事でもあるが、それに対して気の利いた言葉を掛けられる訳もなく、俺はどうリアクションを取っていいのか少し戸惑って、ぎこちなく視線を背けた。
駅まで送ってくれるという伯母の車に乗り込み、ドアを閉めたとき、葉羽は俺が座っている後部座席の窓に顔を寄せる。
手動では窓が開けられず、まだエンジンもかかってなかったのでボタン操作で動かすことも出来ず、ただ窓越しに俺たちは見つめていた。
葉羽が何か言おうとして口を開けたとき、閉まった車のドア越しからくぐもった「頑張って」という声が聞こえた。
なぜこの時そんな事を言われたのかわからなかったが、バイバイというよりはいい挨拶だと思ったのかもしれない。
英語に訳してみればグッドラックみたいなやり取りだった。
何を頑張ればいいのかわからなかったが、俺は葉羽に最後だからと笑顔で受け答えた。
そんな事が素直にできたのも、当分会えないのがわかっていたし、窓越しから伝える俺の精一杯の感謝の気持ちだった。
まだこの時は幾分か子供らしい素直な部分が残っていたらしい。
俺はこの姉弟と別れることを寂しく思っていると認めていた。
最後に二人は去っていく車に思いっきり手を振ってくれた。
葉羽は少しでも俺を見ようと、一緒に走って追いかけて来ていた。
車の速さにはついていけず、すぐに立ち止まってしまったが、俺は後ろを振り返り、小さくなっていく葉羽に弱々しく手を振りながらずっと見ていた。
夏の終わりを告げるツクツクボウシの声が、くぐもってどこからか聞こえて流れていった。
なんとなくそれがもの哀しくて、夏の終わりを急激に感じた。
葉羽と別れたら、夏も一緒に過ぎ去って行ったように思えた。
少し、鼻の奥がツンとした。
またすぐに会えると高を括っていたが、次、この姉弟と会うのは俺が中学の2年生になった頃だった。
結構な時間が空いてしまい、その年月の中で、俺自身やその周辺もかなり変化を遂げてしまった。
この間に、俺の家族は完全に崩壊してしまい、母親は離婚を決意。
その準備のために働き出して、俺と二人の生活をするために資金を貯め込み出した。
母親が忙しくなると、伯母の家に遊びに行く時間がなくなった。
離婚の話しを母が持ち出したとき、感情で動く父親はまず激怒した。
その後、なかなか離婚を承諾しないために調停へと持ち込むことになっていった。
そして、おまけのように俺の親権で揉めに揉め、ぐだぐだな修羅場が続く。
結局は母親が親権を取り、めでたく離婚になったが、この場合めでたいと表現していいのか子供心ながらに悩む。
その後の生活は少し苦しくなり、一層狭いアパートで母子家庭となってしまった。
父親の暴力を見て育っていたので、居ない方が平和かなとも思ったが、多感なときに両親が離婚するという経験はこんな俺にでもしっかりとダメージを与えていた。
あんな父親でも家族が欠けるということは、世間一般の法則を破るような不自然な違和感を覚えるし、突然目の前の道が塞がって、やむを得ず見知らぬ道を入り込んでいくという先行きの見えない不安があった。
無理して見かけは平気を装ってみても、お金に余裕がないと欲しいものも買えず、最低限の生活を強いられるという窮屈さが、心の余裕までも失くしていく。
この先の生活の不安を考えたとき、自分で何かできるようにと勉強には打ち込んだつもりだ。
それでも時折感じる圧迫感が不安を引き起こし、時々眠れない夜を過ごすこともあった。
そんな時に伯母の家のことや、あの街の居心地のよさを思い出すとなんだか惨めになっていった。
でも男だし、そんな愚痴も言ってられないと思っていたが、心に受けた衝撃は少なくとも自分の性格形成に影響を与え、ひねくれに拍車がかかったようだった。
人と付き合うのも億劫になり、コミュニケーションも次第と不得意になっていった俺は、中学生に上がった頃からどうやら世間一般でいう虐めというものにぶち当たってしまった。
当たり障りのない目立たない生徒だと思っていたが、黙りこくっていることが不遜な態度にみえるのか、虫が好かない奴と思われてなめられてしまった。
きっかけは些細なことだったのかもしれない。
派手な生徒と廊下で肩が触れてしまい、俺は軽く会釈して悪かったと意思表示したつもりだったが、それを見てなかったその生徒は謝りもしないと誤解して、俺が生意気な態度ととらえたのだろう。
チェっと舌打ちされて睨まれてしまった。
まだそれは中学一年の頃でクラスも違ってたから、その場限りのものだと思っていた。
ところが二年に上がって、その派手な生徒と同じクラスになったときには、地獄の始まりだった。
そいつは肩が触れ合ったときの事をしっかりと覚えていて根に持ち、そして同じクラスになって毎日顔を合わしているうちに、イライラしてくるようになっていった。
俺はすっかり忘れていたから無表情でいたが、それが却って無視をした見下した態度と誤解されていった。
また勉強を頑張ったお陰で、クラスで一番の成績となり、それも気に食わない様子だった。
大人しめのグループに身を置いてはいたけど、俺がその派手な生徒に目をつけられると、周りは係わりたくなくて、よそよそしくなっていった。
また俺を貶めようとする輩もいて、変に近づいて俺から聞き出した情報をあることない事好き放題に言いふらされたりもした。
要するに俺は嫌われ者だった。
自分を守るために、人との距離を持ち保守的になるのは仕方がないことと、肩身の狭い思いをしていたが、家庭でも学校でも規制をかけられているみたいで、あちこちで鬱憤が溜まるようになってきた。
それで自分も苛付くところがあったと思う。
派手な生徒と目が会った時、俺は普段の無表情から一脱して、気の強い目つきをして睨むようになってしまった。
それが挑発とでも思われたのか、ある日の放課後、学校の校舎の裏に来いとそいつとその仲間達に呼び出され、俺はサンドバッグのように殴られた。
俺もそれなりに応戦しようとしたが、数で負け、無勢に多勢に手足を押さえられてしまえば攻撃しようがなかった。
そいつらは殴り方を心得ていた。
人から見える部分は一切傷つけない。
腹ばかりを殴られて、俺は気持ち悪くなってその場で嘔吐してしまった。
「うわ、きたねぇ、こいつゲロまみれ」
「くっさー」
最後に背中をけられて俺は自分の吐いた上に倒れこみ、制服は本当にゲロまみれとなってしまった。
馬鹿にするような笑いを残し、最後は唾を吐いて、奴らは去っていった。
この時の屈辱感は相当なものだった。
派手なグループに所属している生徒達は、俺と違って両親も揃っているし、お金にも苦労していない。
派手なだけあって、女の子たちの間でも目立ち、それなりに楽しい中学生活を送っているだろうに、どうして気に入らないというだけで人を傷つけるのだろう。
俺は自由な金もないし、不満だらけの苦しい生活だけど、人を傷つけることなんて考えたこともないし、ただひっそりと中学生活を送ってるだけなのに、なぜ追い討ちをかけるようにこんな目に遭わないといけないんだ。
ただ無念で悔しくて、心の中の唯一守っていた小さな誇りが、粉々に音を立てて砕けていく辛さに打ちひしがれた。
屈辱で持っていきようのない気持ちに声を上げ、狂ったように地面の砂に向かって爪を立てて引っ掻く。
その光景が異様に思った誰かが後ろを通りかかったのだろう。
俺を心配するかのごとく、名前を呼ばれたように聞こえた。
でも俺は今の姿を見られるのが怖くて、クラスで言いふらされて、また笑いものにされるのがいやで、芹藤悠斗じゃないフリを情けなくもしてしまう。
顔を上げずに立ち上がって、そのまま走り去った。
こんな事をしても無駄だとわかっていたけど、逃げることしかできなかった。
誰に心配されたところで、何の気休めにもならなかった。
そして俺は次の日、学校を休んでしまった。