第二章


 クラスの皆にお別れの挨拶をすることもなく、俺はあの中学から出る事ができた。
 皆は一体何を思っただろうか。
 少なくともあの派手な生徒だけは虐めが原因だと確信しただろう。
 負け犬と俺を嘲笑いながら、それは仲間達の間では武勇伝のように影で噂されて、決して咎められることはない。
 俺はあそこに居なくとも永遠に笑われ続ける。
 それって結局は見下されたまま、虐めが持続していることだと思う。
 逃げることだけでは解決されない悔しさがしこりのように残っていた。
 時は梅雨が始まろうとしていた頃だった。
 雨の鬱陶しい季節だったが、俺の心を代弁してくれてるようでその天気には好感が持てた。
 俺が新しく通うことになった中学は、伯母の家から歩いて20分くらいのところにあった。
 坂を上って超えた向こう側にその中学は建っていた。
 転校はすんなりできたけど、いくら学校が変わっても俺自身は変わったわけじゃないので、新しいクラスに配置されても俺は無愛想だった。
 最初は物珍しく声を掛けてくる奴もいたが、そういう奴はどことなくクラスでも派手なグループに所属してるやつらで、どうしても俺を殴ったあいつらとダブってしまう。
 そんな先入観があると、心を開くこともできず懐疑心で接するために、案の定、俺の評判は悪かった。
 それでも幸い、露骨に虐めようとする奴はおらず、その点では別に無視されようが友達がいなくとも気が楽だった。
 俺はそっとしておいて欲しかった。
 この中学の生徒達は程度がいいために、そういう俺の空気を読んで物分りがよかったのが唯一の救いだった。
 やはり地域性の問題だろうか。
 この街の人間はお金に余裕があるだけに、人間性が養われているように見えた。
 ただ無関心で、ステイタスがある分、自分に不利益になることを排除しているだけかもしれないが、理由はどうであれ、以前のような虐めがないことは安心するところだった。
 環境が確実に変わったのは、まず肌で直接実感し、次第にそれは浸透して体ごと慣れてきた。
 俺は葉羽と同じ中学に通うと思っていたが、葉羽は私立の中学へ進んでいた。
 そこは高校もそのまま進学できるところなので、葉羽は小学生で早くから受験に勤しんでいたらしい。
 こっちへ来てからまだ葉羽には会ってない。
 一応暫く伯母の家に世話になるとは花咲家も聞いてはいるだろうが、なんだかバタバタと忙しそうにみえた。
 初めて会った当時の俺と同じような年になった兜とは、「久し振り」と顔を合わせることがあった。
 兜はあの時の面影をそのまま残しつつ身長が伸びていた。
 まだ物怖じしない子供らしさが残り、俺のことはしっかりと覚えていて、再び会えた事を素直に喜んでくれた。
 サボテン爺さんの事を尋ねれば、残念なことに昨年亡くなったと教えてくれた。
 あの時見た、無茶苦茶な手品は二度と拝見できないと思うとなんだか寂しく思えてくる。
 葉羽が師匠と呼んだ、サボテンを愛したお爺さん。
 葉羽もショックだったに違いない。
「それで、葉羽は元気してるの?」
 さりげなく兜に聞いてみたが、兜は首を横に振る。
 そんなにサボテン爺さんのショックが強かったのだろうか。
 だが兜の口から出てきた言葉に俺は驚いた。
「お姉ちゃん、今入院してるの」
「えっ? どこが悪いんだ?」
「うーんとね、貧血」
「えっ? 貧血? それって病気なのか?」
「でも貧血って血の病気でしょ?」
「まあ、鉄分が異常に欠けた状態なら、深刻なんだろうけど」
「多分それだと思う。お姉ちゃん結構我慢したり、耐えるところがあるから、時々熱がでて眩暈がしても言わなかったみたい。だから『Mです』ってお医者さんに言われて、心配されてた」
「Mですって、それってマゾってことか?」
「詳しいことはわかんないんだけど、そうなんじゃないかな」
 兜はどこまで分かって答えているのだろうか。
 まあ、苦しいことや痛みが性的な快感に変わってそれを好むものをM(マゾ)とは言うが、そんな風に言われてしまうまで我慢してたなんて、葉羽の頑張りはこんなところにまで現れていたのか。
「いつ退院してくるんだ?」
「来週には帰ってくるよ。お兄ちゃんがこっちに戻ってきたこと伝えたら、すごく喜んでたよ」
「そっか」
 なんだか俺は嬉しかった。
 でもそんな嬉しい表情を素直に見せられずに、そっけなく答えてしまった。
 俺は家に戻って、自分の部屋のベッドにゴロンと横たわった。
 自分の部屋といっても、芳郎兄ちゃんの部屋を使わせてもらっている。
 受験戦争に勝ち抜いてきた部屋だから、ここにいるだけで、芳郎兄ちゃんのように頭が良くなるとまで思えてくるほど、その部屋は俺にとっては申し分のない贅沢な部屋だった。
 環境が整った部屋で、暫く葉羽の事を考えてみた。
 俺は葉羽に会ったとき果たして昔のように笑って喜べるだろうか。
 どこか自分の内面を晒すのが怖くて、そして意地を張ってしまいそうで、なんだか不安になってきた。
 それでも葉羽がどんな風に成長しているのか、好奇心は膨れるばかりだった。

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