第四章


 子供達が帰ったあと、静かになった教室の窓の戸締りをチェックして、俺は再びサボテンの鉢植えを抱えた。
 中学生の葉羽の面影を思い出し、あの頃を懐かしく、そして大切に思う。
「これでよかったのかな」
 中学の頃の葉羽と再会した一瞬の出来事に、もの悲しくて、俺は暫く感傷に浸っていた。
 大人になっても、あの少年だった時の気持ちはそのままに、涙が出る程あの時の葉羽の姿に胸が締め付けられた。
 あんなにも小さく、消えゆきそうに繊細だったのだろうか。
 年を重ねてから見た葉羽は、まさに妖精のように儚く、透き通って見えた。
 無垢過ぎて、今の俺には触れるのも恐れ多いものだった。
 それなのに、俺は自分が大人だと言う事も忘れて、葉羽にキスをしてしまった。
 俺がおっさんであっても、あの時だけは葉羽と同じ年の悠斗だと自分自身、信じてやまなかった。
 どんなに年をとっても、中身はいつも少年の時の気持ちが存在している。
 言い訳がましいけど、それが俺に与えられたチャンスとして、その奇跡を存分に味わった。
 あの時代の俺がもっと素直な中学生でいたら、葉羽を苦しめる事などなかったのに、また胸が締め付けられてしまう。
 色々な事を思い出す。
 今となっては懐かしくて、甘酸っぱく、時には苦みを感じて、恥ずかしく、胸がきゅんとしてくる。
 葉羽とのキスの後では、余韻がいつまでも残り、俺は幸せな気持ちにふわふわとしていた。
 葉羽の事ばかり考えていると、そわそわと落ち着かなかったが、俺は残っていた仕事を片付けて、やっとの思いで家路についた。
 時計を見ればまだ夕方くらいなのに、外はすっかり日が暮れ、暗かった。
 駐車場に停めてあった車に乗り込み、助手席の足元にサボテンを置いた。
 そして安全運転を試みて家に帰っていく。
 家といってもまだアパート暮らしだが、いつかは大きな家に住んで、花咲家のような温かい家庭を作るのが夢だった。
 やはり花咲家は俺の理想だった。
 秋が深まるこの時期、夜になると足が冷え、温度が下がっているのが肌で実感できる。
 それでも心の中はどこか温かく満たされ、ふわふわとした感情が、俺を中学生の気分に戻してくれた。
 捻くれていた暗かったあの頃が今となっては、それも大切に懐かしく感じられた。
 二度と戻ってこない日々、振り返ればもう少しこうすればよかったと、後悔してしまう。
 でも、結局あの時はあの時の俺だからそうなってしまった。
 なるべくしてなってしまった日々の生活。
 あれもまた、決して無駄ではなかったのかもしれない。
 辛さや痛みを知って、役に立つことだってあると、大人になるとつくづく思う。
 例えその時は悔しくて、腹立たしくてたまらなかったとしても、それもまた必要な時に起こったことだったと、時間が経てば思えるから不思議だった。
 だから現在はそれを教訓に、もう少しまともになろうと日々努力している。
 こんな風に思って、自分が変われたのも、全て葉羽のお陰だった。
 俺は葉羽のことで頭が一杯になりながら、サボテンを抱えて、アパートの階段を上って二階にあがっていく。
 玄関のドアの前に来たとき、腕に力を入れてサボテンの鉢植えをぎゅっと抱えた。
 どこかしら緊張していた。
 過去に戻ったとはいえ、そうすることが約束されたにしろ、俺は中学生の女の子に本気になってキスをしてしまったことを、この時恥ずかしく思えてならなかった。
 どんな顔をして、妻と向き合えばいいのか。
 なんだか浮気をしたようで、罪悪感に苛まれた。
 何事もないように装えば、なんとかごまかせるかもしれない。
 俺は一呼吸おいてから、ドアノブに手をかけて、覚悟を決めてドアを開けた。
 「だだいま」と普段通りに家の中に入れば、「お帰り」と俺の妻が明るく迎えてくれた。
 俺も一人前に所帯を持っていたわけだ。
 俺の妻はちょっとした変化に過敏に反応するから、この時、俺は少し向き合うのが怖かった。
 俺の目が泳いでいたのだろう。
 視線が定まらないのをすぐさま感知し、案の定、俺を見るなり妻の顔色が変わった。
「ん? なんかいつもと違うね」
「えっ、そう?」
「あー、もしかして浮気した?」
「そ、そんなことない」
「だけど、そのサボテン、何?」
「あっ、こ、これは、その」
「何も隠さなくていいじゃない」
 妻は俺にキスをしてきた。
 そしてサボテンの鉢植えを俺から奪い取ると、懐かしそうにそれを笑顔で眺めていた。
「そっか、今日だったんだ」
「葉羽、そんなにニヤニヤするなよ」
「ねぇ、あの時の私どうだった? まさかあのことは言ってないよね」
「もちろん」
 葉羽は疑るような目をして、俺を見つめていたが、それはわざとからかって虐めて楽しんでいた。
 本当は自分にキスをしたことを、冷かしていた。
 俺はあの時とった行動がなんだか恥ずかしくて、まともに葉羽の顔が見られない。
 だけど、葉羽はあの時からこうなる事をずっと知っていて、俺に隠していた。
 葉羽のファーストキスが、30前の俺、即ちおっさんだったという事もなんか複雑で、俺が葉羽と初めてキスしたときは、葉羽には初めてじゃなかった。
 ん?
 頭の中がこんがらがってきて、俺は困惑していた。
「葉羽はおっさんにキスされて、これって、フェアじゃないよな」
「相手は同じだから、全然気にしてないよ」
「でも」
 俺が時系列にこんがらがると、葉羽は益々茶化すように、くすっと笑った。
「さてと、お腹すいてるよね。ご飯食べようか」
 そしてサボテンもテーブルの上、おかずの横に並べて一緒に食卓を囲んで、あの時の話を懐かしく語り合った。
 葉羽は本当にもう一度奇跡を起こした。
 それがサボテンに頼らず、自分で起こした真の奇跡だった。
 病室で横たわっていた葉羽は、確かに命を刻々と削られていた。
 あのままでは助からないとまでいわれていた。
 葉羽はあの後、大きな病院に移されて、ちょうどその入れ替わりに、俺があの病院に入って来た。
 看護師に葉羽がどうなったのか尋ねれば、それは教えられないと頑なに口を閉ざされ、それ以上のことは何も教えてくれなかった。
 あの時、俺は何も出来ずに、絶望して家に帰った。
 葉羽の家は電気もついてなく真っ暗で、まだ誰も帰ってきていない状態だった。
 これが何を意味するのか、俺は胸が苦しくなっていった。
 家では伯父と伯母が心配していたが、俺の気持ちを察してそっとしてくれた。
 その夜遅く、葉羽を病院に残したまま一家は戻ってきたようだった。
 そして、後に詳しく葉羽の状態を聞くと、葉羽はやはり造血障害を起こす病気で、命に係わるものだと、辛そうに教えてくれた。
 この病気は高齢に多いらしいが、稀に若年者も発症することがあるらしい。
 ただ、病状によっては完治する方法があり、葉羽の場合造血幹細胞移植をすれば助かるということだった。
 しかし、その葉羽に適合するドナーを探すのが一苦労とあり、一番適合の確立が高い弟の兜ですら適合しなかった。
 病院のベッドに横たわる葉羽は助からないと諦めていたが、あの時大人になって呼びだされた俺は葉羽が助かる事を知っていた。
 でも大人の葉羽から、過去に戻ったとき未来のことは何一つ絶対に中学生の自分に言うなと釘を刺されていたのだった。
 だから俺はなんだかもどかしく、すごく息苦しくて、あの時助かるんだって喉まで出掛かっていたのを必死で堪えていた。
 葉羽にしてみれば、ドナーが見つかるという奇跡が起こったのは、絶望感の中で必死にもがいたから起こったことだと思っている。
 少しでも何かの要素が加わったら、ぴったりと行くべきところへたどり着けなかったように思う。
 俺が何度も励まそうと葉羽の前で手品をしたり、明るく振舞って葉羽を笑わそうとした努力が、生きる希望に繋がった。
 俺が強く支えて、奇跡が起こると信じていたのが葉羽の気持ちを変えさせたみたいだった。
 俺の言葉を信じて諦めなかったから、生きる希望が強くなって病気の進行にも影響したと思う。
 葉羽は俺のお陰で奇跡が起こったと、今になって語っている。
 だけど俺は全て葉羽の力だと思っている。
 もし、あの時未来から来た俺が簡単に結果を言っていたら、葉羽は努力を怠って本来迎える未来が変わってしまう結果になったのかもしれない。
 あの時の踏ん張りがあるから葉羽は勝ち取った。
 移植をしてから葉羽はすっかり元気になり、そして成長して大人になって俺の妻となった。
 混乱がないようにと予め俺には中学生の葉羽が授業を見に行くことや、病院に呼び寄せることを話してくれた。
 俺はまさかと思っていたが、実際授業中に葉羽が現れたときは、びっくりしたもんだった。
 でもタネを前もってあかされていたので、慌てることなく、存分に自分のやってることをみせたという訳だった。
 これがこの物語の手品の種明かし。
 サボテンの花が三回咲いた奇跡はサボテンの力がなかったらできなかったけど、真の奇跡は葉羽自身がやり遂げた。
 まあ少しは俺も関係していたかもしれないけど。
 とにかく諦めないで希望を持つという力が奇跡を起こした。
 葉羽は本当にすごいんだって俺は思ってしまう。
 だけど、時々披露してくれる手品はやっぱりどこか下手くそだけど。
 俺の妻となったかわいい葉羽。
 俺は今、最高に幸せだ。
「だけどさ、最近の葉羽はなんかよく食うよな。なんか太ったんじゃないのか。いくら食欲の秋だからといって食いすぎるなよ」
 俺がそういうと、葉羽は突然箸を置いた。
「悠斗君にもう一つの奇跡のこと話しちゃおうかな」
「なんだよ。まだあるのか?」
「うん。ここに」
 葉羽は優しく自分のお腹をさすっていた。
「えっ?」
 俺は椅子から勢いつけて立ち上がって興奮し、思いっきり体に力が入ってテーブルをつい叩いてしまった。
 その勢いで、食卓の上の茶碗や食器、そしてサボテンの鉢植えが一緒になってびっくりして揺れていた。

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