第四章


 戸賀崎恒也は中学校でもその存在を知らない生徒がいないほど、生活指導の厳しい先生で知られていた。
 顔つきも常に怒っているようで、隙をみせない尖った部分があった。
 羽目を外す生徒に厳しく目を向け、風紀を守るために容赦はしない。
 自分自身にも厳しく、あまり温かみを感じられない冷たい顔つきをしていた。
 いつも角ばって、笑う事もあまりないような先生で、先生同士の間でも近寄りがたい雰囲気があった。
 先生と生徒という一線は絶対に越えさせない、絶対的な区別をもって生徒を監視する。
 そういう先生だからと、係わればややこしくなって、生徒は敬遠する。
 馴れ馴れしさがまったくないので、生徒もよってこない、一匹狼。
 生徒によっては怖がったりするので、抑制効果もあり、何か問題が起これば戸賀崎に任せばいいと、このときばかりは重宝される、学校には必要な先生だった。
 美代ですら、係わりたくないと尻尾を巻いて逃げていた。
 唯香は特別指導室の部屋の中、椅子に座って、戸賀崎に見下ろされ自分の不運を呪っていた。
「戸賀崎先生、三田さんはクラスでも大人しい生徒なんです。何かの間違いじゃないですか?」
 連絡を受け、後から駆け付けた担任の市川早苗が弁明する。
「しかしですね、この目で女子生徒を叩いているところを見まして、しかも反抗して私まで暴力的な態度を取りましたので、反省させないと今後に影響する可能性があります」
 聞く耳をもたない、頑固な戸賀崎に担任の市川までもが委縮していた。
 担任は自分の生徒を守りたくて、優しく唯香に話しかけた。
「三田さん、一体何があったの? 先生に説明して」
 担任の市川は唯香の行動が信じられずにいる。
 さすが毎日クラスで見ているだけ、唯香の性格を理解していた。
 しかし、唯香はすでに心閉ざしてしまい、憤って説明する気にもなれなかった。
 なったところで、自分の万引きをしようとしていた事を知られるのも怖かった。
 美代が簡単に逃げおおせ、全て自分に降りかかっている事が悔しくてたまらない。
 入り組んだ感情と、抜け出せない絶望で、ずっと口を閉ざしていた。
「おい、何か言ったらどうだ。黙ってたらわからないだろうが」
「戸賀崎先生、すみませんが、もう少し優しくお願いします」
「市川先生が優し過ぎるから生徒は甘えてるんじゃないですか? ここは厳しくしないと」
「でも、三田さんは、そんな子じゃないんですって。それに女の子同士の喧嘩ですから、よくある事かと」
「そんな子じゃないといいながら、よくある事って、矛盾してませんか? 首尾一貫させてないから、こうやって生徒は非行に走って行くんですよ」
 市川は指摘をされて、黙り込んでしまった。
 まだ教師になりたてなところがあるので、戸賀崎のようなベテランに言われると、簡単に意気消沈してしまう。
 戸賀崎は先生の間でもはっきりとものを言うタイプで、手ごわかった。
 その時、ドアがガラッと音を立てて開いた。
「失礼します」
 サトミがナズナと綾を連れて入って来た。
 それを見て、唯香は叫んだ。
「おばさん!」
 また会えた嬉しさと、ここに現れた驚きで、唯香はドキドキと高揚した。
「あら、三田さんのおばさん?」
 親戚か何かかと市川は思い、とりあえず頭を下げ挨拶をした。
「突然、お邪魔してすみません。私、一応この中学校の卒業生です。初めまして」
 サトミは唯香を見て、にこっと微笑んだ。
 その笑顔に唯香は元気つけられて、立ち上がり、嬉しさのあまりサトミに走り寄り抱き着いた。
「唯香ちゃん、とんだ災難だったね。おばちゃんが来たからもう大丈夫だからね」
「おばさん、どうしてここにいるの?」
「きっとね、唯香ちゃんを助けるために、導かれたんだと思う。それにしても、なんで唯香ちゃんが注意を受けないといけないのかしら」
 二人のやりとりを見ていた戸賀崎は、眉根を寄せて難しい顔つきをしていた。
「失礼ですが、どういった御用ですか」
「唯香ちゃんを助けに来ました。唯香ちゃんは虐められていて、それに立ち向かったら、たまたま悪者と先生に誤解されただけなんです」
「虐められていた? そうなの三田さん?」
 初めて知ったというような顔で担任の市川は唯香を見て、そして傍にいたナズナと綾にも視線を向けた。
「唯香ちゃん、まだ何も言ってないみたいね。勇気だそう。一体何がどうなってこんなことになったのか。一から話そう」
 助けに来てくれたサトミを見ると心強く、唯香はその支えに勇気づけられて「うん」と頷き、事の発端を訥々ながら話し出した。
 自分の弟が、ナズナの弟のペンを壊したことから、ナズナに責められたこと、そして美代が絡んで、コンビニで万引きを強制させられそうになった事、それで美代との確執が起こった事と順序立てて説明した。
 途中でナズナも綾も相槌を入れ、コンビニの件はサトミが証人となって補足した。
 全ての事の真相を知ったサトミはここで初めて、唯香の弟が貴光である事に気が付いた。
 なぜ貴光があのペンを喜んだのか、これで全てが、ピタッと重なり合った。
「壮大な大河ドラマのような繋がりね」
 サトミは思わず大げさに口にしてしまう。
 唯香が話し終えるまで静かに聞いていた戸賀崎だったが、そこで呆れた声を出した。
「だったら、最初からそう説明すべきだろう。何を意固地にずっと黙ってたんだ」
 担任の市川は自分の生徒を守るために反論したかったが、超ベテランの先生に口答えできないでいると、サトミが代わりに言った。
「えっと、戸賀崎先生ですね。先生こそどうして唯香ちゃんが悪いと決めつけたんですか。最初にまず何があったのか、双方から話を聞くべきだったと思います」
「私の責任だとおっしゃるんですか」
「はい!」
 潔く、サトミは返事した。
 戸賀崎のイラつきが教室の温度を下げたような気がして、市川は横で見ていてハラハラしていた。
 しかし、戸賀崎は礼儀を弁えていた。
「分かりました。そのように肝に命じておきます」
 渋々ながら、戸賀崎はサトミの前では無理をして形だけの対応を取った。
「それでしたら、唯香ちゃんに謝ってもらえませんか?」
「はっ?」
 殊勝になれば図に乗りやがってと戸賀崎は一瞬思った。
 だが、一方的に決めつけて事をややこしくした罪の意識もあり、どうすればいいのか迷っていた。
 学校では注意をする側で、同じ立場の先生たちからも諌められたことはない。
 それをサトミにはっきりと間違っていると言われると、ハッとするものがあり、固くなっていた物にひびが入った気分だった。
 はっきりものを言うサトミをついまじまじと見つめ、どう反応していいのかわからなくなっていた。
「おばさん、もういいよ。正直に話せたし、戸賀崎先生はもう関係ないから。それにこの問題は、私とナズナちゃんの弟たちの事だから、私たちがちゃんと解決するから」
「あっ、唯香ちゃんの弟って貴光君だよね」
「えっ、なんで、私の弟の事知ってるの?」
「へへへ、貴光君の問題も、今頃は解決してると思うよ」
 サトミは笑っていた。
 唯香はきょとんとして、サトミを見ていた。
 その時、戸賀崎の心に唯香の言葉が入り込み、心の中に忘れていた事がぼんやりと浮かび上がった。
 そこで「こほっ!」と喉を鳴らし、注意をひいた。
 サトミたちが視線を向けると、戸賀崎が鼻から空気を漏らし、気持ちを落ち着け口を開いた。
「三田、一部分だけ見て、お前を悪者にしてすまなかった。お前は必死に弟を助けようとしていたんだな。いい姉だ。その理由を最初に聞かなくて悪かった」
 怖い戸賀崎が生徒に謝罪した。
 全てを話して穏やかさを取り戻した唯香は、「いえいえ」と何度も手をひらひらと横に振って恐縮していた。
 側で見ていた者はこのやり取りにほっとするようだった。
「そして、そこのお前」
 戸賀崎はナズナを指差した。
 ナズナはビクッと肩を震わせた。
 自分が怒られると思い、目を固く瞑って覚悟する。
「お節介に弟の問題で関係ないものを責めたけど、それもまた弟可愛さで助けたかった気持ちには変わらない。やり方は間違ってたかもしれないが、弟を思う気持ちはいいことだと思う」
 思っていたのとは違った、戸賀崎の気遣いの言葉に、ナズナは目をパチクリとしていた。
「あら、戸賀崎先生って、怖い先生だと思っていたけど、話がわかる人なんですね」
 無遠慮にサトミが言うと、戸賀崎は自虐したように笑った。
「私にも姉が、昔居ましてね、小さい頃とてもかわいがってくれたんですよ。この子たちをみてたら、それを思い出しただけです」
「昔、居た……と言う事は、今は」
「もう何十年も前の事です。交通事故で小学生の時に亡くなってしまいました」
 皆、その話に「えっ!」となってしまった。
 湿った空気が流れ、皆そわそわとして、どう声をかけていいかわからなかった。
 その中で一番驚いたのはサトミだった。
「ちょっと、待って、それって、まさか和恵ちゃん?」
「えっ、姉をご存じなんですか?」
「知ってるも何も、小学校の時、同じクラスだったわ。しかも、交換日記をしてたくらい仲がよかった。あらー、そうなのー、あなたが、和恵ちゃんの弟さんなのね。道理で苗字が一緒だと思った」
 サトミは戸賀崎に近づき、懐かしい気持ちで彼の手を両手で包み込むように握った。
 戸賀崎は突然の事に驚いて、言葉にならない声が喉の奥から洩れた。
 サトミは戸賀崎と向き合い、和恵の面影をみようと、じっと見つめた。
「和恵ちゃん、優しい女の子だった。今でもあの時の笑顔がはっきり思い出せるわ。こうやって見ると、やっぱりどこか和恵ちゃんを感じる」
 戸賀崎もサトミを見つめ返した。
「姉のお友達だったんですね」
「こんなに年を取りましたが、今でも和恵ちゃんの事は忘れてません」
 戸賀崎の目頭が熱くなった。
 厳しい戸賀崎の目が潤んでるのを見て誰もが驚きながらも、亡き姉の思い出を共有して感動している戸賀崎にもらい泣きしそうになっていた。

 サトミは当時の事を思い出す。
 あれは週末が明けた、月曜日の朝の事だった。
 いつものように起立して、朝の挨拶を先生と交わして席に着いた直後。
 先生の口から出た言葉に、サトミは子供ながらショックを受けた。
「昨日、戸賀崎和恵さんが、交通事故でなくなりました」
 和恵の机を見れば、誰もそこに座っていない。
 先生は淡々と話していたが、先生も感情を押し殺して伝えていたに違いない。
 父親の運転する車に、母親と和恵が乗っていた。
 少し離れたところに住んでいた祖父母の家で週末を過ごしていた弟、戸賀崎恒也を迎えに行こうとして起こった事故だった。
 不幸にもトラックとぶつかり、車に乗っていた全員が亡くなって、その場にいなかった弟だけが生き残ったことまで、先生は話していた。
 クラスはさめざめとして、どうしていいかわからなくて、サトミも信じられないで、何度も和恵の机を見ていた。
 まだ子供過ぎて、死とはどういうものか実感がわかなかったし、それでいてとてつもなく怖いものとして、怯えた。
 内臓破裂。
 それが和恵の死因だった。
 先生も10歳になるかならないかの子供たちに、そこまで詳しく言わなくてもいいものを、その言葉がすごく恐ろしいものに聞こえて、サトミはぐちゃぐちゃになったイメージを抱いて震えた。
 それ以来、死という言葉が怖くて怖くてたまらなかった。
 あの当時、定期的に買っていた漫画の雑誌に、話の流れで死が描かれていると、読めなくなって押し入れの奥へと突っ込んだくらいだった。
 それほど、和恵の死はショックが強かった。

 あの時、ハルカも同じクラスで、和恵と一緒に三人で交換日記をしていた。
 それをしようと言い出したのはハルカで、最初サトミと二人でするつもりでいた。
 後からサトミが、和恵を入れて三人でしようと提案した。
 和恵は誰よりも大人しく、口数が少なく控えめな人だった。
 でも賢くて、物事をじっと見つめて、しっかりした人でもあった。
 サトミには優しく、話をうんうんと聞いてくれて、一緒にいると安らいだ。
 ハルカともすぐに打ち解けたから、これから三人ずっと仲良しの友達になれると思っていた。
 交換日記には何を書いたか、内容までは覚えてないが、口数の少ない和恵はびっしりとノート一杯に書いていたように思う。
 サトミは主にくだらない落書きを描いて、数行くらいの文章で済ませていた。
 和恵は几帳面で、真面目な子だった。
 和恵が居なくなってから、交換日記は続けられず、自然と消滅してしまった。
 事故を聞いた後の暫くは、サトミは和恵の事で心痛め、ずっと信じられない思いが続いた。
 突然いなくなっただけで、和恵の存在は、いつもサトミの心に残っていた。
 あの頃、子供心ながら、生き残った弟はどうするのだろうとサトミは思っていたが、それが目の前で厳しい先生と称されて教諭になっていた。
 祖父母や親戚に身を置いて、あるいは施設だったのかもしれないし、一度に家族を失って必死で生きてきたのではないかと察してしまう。
 しかもその原因が迎えに来てもらおうとしていた自分にあると、自分を責めた事だろう。
 厳しいのも、境遇がそうさせているように思え、ずっと甘えられずに、責任を感じて一人で頑張って来たに違いない。
 戸賀崎はこの時、サトミを媒介して姉の事を思い出している。
 生きて居れば、サトミと同じ歳だ。
 ずっと押し込めていた姉の思い出は、何十年ぶりかに再会した懐かしさがあったに違いない。
 戸賀崎がサトミの手を握り返してくると、それは優しい思いに包まれ一層温かかった。
 ──和恵ちゃん、あなたの弟さんと今会ってるのよ。
 心の中の和恵と話しながら、サトミの目も潤んでいた。
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