第四章
2
戸賀崎と市川の先生たちと別れた後、サトミは唯香たちと一緒に昇降口に向かう廊下を歩いていた。
戸賀崎の生い立ちを知った少女たちは、ただの怖い先生には見えなくなった。
学校に所属しているだけで、無意味に嫌っていた先生ではあったが、戸賀崎の人間的な部分を見てから、感じ方が変わっていた。
「先生も大変だったんだね」
唯香が漏らした。
「表面だけ見てたらわからない事は一杯よね。人には事情があって、それがそういう行動を起こさせているって事もあるのかも」
サトミが言った。
唯香もナズナも綾も感慨深く、自分なりに何かを考えているようだった。
生徒が殆ど帰ってしまった学校は、静かで茫洋としていた。
物悲しくなった雰囲気を変えようと唯香が訊いた。
「おばさんの教室はどこだったの?」
サトミは立ち止まり、窓から見える向こう側の校舎を見た。
「中学一年のときはあっちの校舎。二年、三年はこの校舎」
それぞれの方向を指差した。
「見たい教室ある?」
「そうね、怖いもの見たさで、やっぱり中学一年の時の教室かな。あれは虐めにあって衝撃的だったしね」
唯香はサトミの手を取り、行こうと引っ張った。
サトミはそれに任せて、あの嫌いだった教室の前に連れてこられた。
懐かしい。
今はその感情だけが蘇る。
サトミがドアに手を掛けると、まだ鍵が掛かる前で、教室のドアは開いていた。
恐る恐る引いた。
そう、この瞬間。
この角度から黒板が見えて、自分の名前と死ねという文字がチョークで書かれていた。
黒板はきれいに拭き掃除がされて、黒っぽい緑色をしていた。
足を一歩踏み入れ、クラス全体を見回す。
机や椅子、後ろの棚、端にある掃除用具入れ。
それらは一般の学校のどこにでもあるものと同じように、取り分けて自分が使用したものには見えなくなっていた。
かつて、ここに自分が身を置いて、授業を受け、給食を食べ、そして虐めで辛い思いをしたのに、その事実は覚えていても、目の前の光景はどこか別の世界の他人事のように思えてならなかった。
絶対に許さないと思っていたあの頃の感情は、すでに消えていた事に気が付いた。
毎年、新しい誰かがここに入ってくる。
その度に教室の思い出も書き換えられていく。
学校って、ただの通過点にしか過ぎなかった。
それは年月を重ねた今だから思えるのであって、あの時は苦しくもがいていた。
あの当時の思いっきり悩んでた自分が、この時可愛らしいものとなって目に映った。
──サトミ、あなたはすっかり大人、いえ、ババアになりました。
自分で労いの言葉を掛けていた。
「ありがとうね。遅くなったから、帰ろうか」
教室のドアを静かに閉め、サトミは三人に微笑んだ。
唯香はすでにサトミに心を開いていたが、ナズナも綾も親しみを込めて微笑み返してくれた。
やっぱり子供たちはかわいい。
分かり合えばみんないい子に思えてならなかった。
そうなると、今度は美代の事が気になってしまった。
唯香もナズナも綾も、この問題で何かを感じ取り、そしてどうすべきか自分自身で答えを見つけていくだろう。
美代の事もなるようになるに違いない。
見守るしかないように思えた。
どんなことがあっても、例え辛くても、踏ん張ってやりくりしてほしい。
生きるだけでも素晴らしいことなんだから。
一緒に年を取れなかった和恵を思い、サトミは無駄に年取る事も幸せなことじゃないかと感じていた。
校門を出て、サトミはもう一度中学校を振り返った。
もう見る事もないだろう。
ずっと根に持っていた負の感情が成仏していくような、そんな清々しい気持ちでしっかりと見ていた。
「唯香ちゃん、ごめんね」
サトミが中学校を振り返っている間、ナズナと綾が唯香に謝っていた。
「ううん、もういい」
唯香は水に流そうとしている。
ナズナも綾も反省したように、殊勝になっていた。
「ねぇ、今はこうやって謝っているけど、美代ちゃんが現れたら、あなたたちちゃんと唯香ちゃんの味方になれる?」
サトミが意地悪っぽく聞くと、ナズナも綾も息を飲んだ。
「その調子だと、やっぱりどこかで、美代ちゃんに流されそうだね」
「おばさん、もういいって。私が強くなればいいことだから。私はもう気にしない」
唯香の背筋は伸びていた。
自分のわだかまりが吹っ切れたように、せいせいと気が晴れている。
唯香はすでに次へ行く切符を手に入れた。
それを持って、次の新たなステージへ階段を登ろうとうとしている。
笑顔が少し大人びたように見えた。
「唯香ちゃん、潔いな。おばちゃんだったら、絶対に許さないって『ふんっ』っていつまでも根にもっちゃいそう」
唯香はケラケラ笑っていた。
「喧嘩しても許せあえるって、いいことだね。やっぱり若さかな」
「おばさんは、喧嘩して仲直りしなかったの?」
「そうね、仲直りしたくてもタイミングが合わなくなって、謝れなかった。本当に謝るつもりでいたんだけど、その前に見捨てられてちゃって、絶縁」
「おばさんみたいな友達がいたら絶対楽しいのに、その人すごい損してるね。私だったら、ずっとおばさんみたいな友達、大切にする」
「ありがとう、唯香ちゃん。おばちゃん、嬉しいわ。でも、おばちゃん、唯香ちゃんの年頃は、あまり好かれるような人じゃなかったの。だから、その時会ってたら、どう感じてたかわからないよ」
「でも、きっといい友達になれてたと私は思うよ。例え喧嘩してもすぐに仲直りしてさ」
「そうかもね」
唯香は心の綺麗な素敵な子だと、サトミは感じていた。
「おばさん、その人と今からでも仲直りしたら?」
「でも、住所もわからないしどこにいるのかもわからない」
「名前、なんていうの? 今はインターネットで探せるかもしれないよ」
「サガミハルカちゃん。だけど、今は結婚して苗字変わってるだろうし、もうこの町から引っ越していないでしょうね」
唯香はサガミハルカと数回口の中で名前を転がした。
空は暮れかけ、薄暗さがゆっくりと包み込むようにまどろんでいた。
唯香たちと別れ、去っていく三人の後ろ姿を暫く見た後、サトミはもう一度中学生の頃に戻れたらと思ってしまう。
今の自分のままでやり直せたら、楽しいだろうに。
そしたら自分はどんなふうに中学時代を過ごすのだろう。
もっとまじめに勉強したい。
大人になってから、ああしておけばよかったって色々考えてしまう。
本当に後悔ばかりの中学生だった。
でもその当時の自分は、何も知らなさすぎてできなかったのだから仕方がない。
そう思うと、唯香は物わかりが良くしっかりしていると思った。
歳も若返らないし、二度と戻らない日々。
それだけの年月を歩んできた。
この先自分はどこへ行こうとしているのだろう。
ひとつわかってるのは、二度とこの町に戻ってこないということだけだった。
サトミは、どんどん暮れていく空を見上げ、呟く。
きっと上手くいく。
無理に口から出した言葉にすがろうと、サトミは必死に寂しい気持ちを追い出そうとしていた。