第五章


 沢山の人が出たり入ったり、ひっきりなしに行き交う総合病院。
 五階の高さまで玄関部分が吹き抜けで、広々として開放感があった。
 洗練されたデザインで新しく見えたその最新の病院は、設備も技術もトップクラス並みに整っているような雰囲気がした。
 消毒薬の匂いが少し鼻につきながら、唯香たちは予め聞いていた部屋へとエレベーターに乗って向かった。
 一部屋に4つのベッドと周りをカーテンで仕切った大部屋。
 周りの人を気遣いながら静かに入れば、入口の手前のベッドが誰も使用していない。
 その向かいは使用されているが、患者が不在だった。
 窓際の二つあるうちの左側が千夏のベッドだった。
「千夏ちゃん、入るよ」
 先に声を掛け、唯香は、そっとベッドの仕切りのカーテンを引いて覗いた。
 ベッドで寝ていた千夏は、読んでいた本にしおりを挟み、少し身を起こした。
「あっ、唯香ちゃん!」
「えへっ、元気?」
 唯香はカーテンの端で恥ずかしげに顔だけ出して、おどけていた。
「えへへ、僕もいるよ」
 後から貴光も同じように顔を出す。
 かわいい顔が二つ上下にカーテンの端で並んで、千夏は顔を綻ばせた。
「あっ、貴ちゃんも来てくれたんだ」
 唯香と貴光はパジャマ姿の千夏に少し照れながらヘラヘラ笑っていた。
 子供たちの後ろから、遠慮がちに祖母が顔を覗かせ、頭を下げた。
「二人の両親が仕事で忙しいもので、取り急ぎこの子たちをつれてきました。お体の具合はどうですか?」
 突然の唯香たちの祖母に、千夏は緊張し、慌てて身を起こして頭を下げた。
「楽になさって。そのまま寝ててちょうだい。ごめんなさいね、私なんかがきちゃって」
「いいえ、わざわざありがとうございます。唯香ちゃんたちのお祖母ちゃんが来てくれて嬉しいです」
 知らない仲ではなかった。
 何度か顔を合わせて、唯香の家で一緒に食事をしたことがある。
 千夏とは直接の血の繋がりはないが、義理の叔母やいとこの唯香たちを通じているので、親戚と言っても変わりない。
 椅子を薦め、祖母には座ってもらい、唯香と貴光は千夏のベッドの上に腰掛けた。
「唯香ちゃん、貴ちゃん、学校は大丈夫なの?」
「三年生の卒業式で今日は休みだったの。貴光は午後から早引けさせた」
「えっ、いいの?」
「うん、千夏ちゃんに会いたかったから、いいのいいの」
「貴ちゃん、ありがとうね」
「だけど、千夏ちゃん、元気そうじゃん」
 笑顔で唯香が言った。
「そうなの。体はなんともないの。耳だけおかしかったの」
「その後、耳の調子はどうですか?」
 祖母が訊いた。
「はい、お陰様で、かなりよくなりました」
「それはよかったわ。突発性難聴でしょ。早期の治療が鍵なのよね」
「そうみたいですね。偶然、声を掛けて貰った人に、助けてもらわなかったら、突発性難聴だと言う事に気が付かなかったです。今頃無理してまだ働いていたかも。本当にあの人に会えてよかった」
「千夏ちゃんも誰かに助けてもらったんだね。僕も、石蹴ったら、偶然当たって、おばちゃんに助けてもらったんだ」
 貴光の説明は分かりにくいので、千夏は疑問符を頭に乗せていた。
「あのね、貴光がいいたいのは、友達のペンを壊して悩んでた時に、石を蹴ったらおばさんに当たってしまって、それで貴光の方がパニックになって泣き出して、それを心配してその人が訳を聞いてくれたんだよね」
「そうそう。僕が石をぶつけて謝ったら、褒めてくれて、ご褒美にってペンをくれたんだけど、そのペン、僕が壊したペンと同じだったの。もうびっくりしちゃった」
「それだけじゃないの。私もその前の日に同じ人に助けてもらってたの。貴光が壊したペンの持ち主が、私の友達の弟だったのね。話せば長くなるんだけど、色々あって、壊した弟の代わりに私が弁償しろって言われたのね。でもお金持ってなかったから、万引きしろって強制されて」
「えっ、万引き」
 千夏も祖母もびっくりしていた。
「今思うと、なんで言われるままにそんな事しようとしたのかわからないんだけど、あの時虐められて追い詰められたの。でもちょうど、私の不審な動きに事情 を察したおばさんが、助けてくれて、それで私のために、そのペンを買ったの。それを持って果敢に万引きを強制したクラスメートに話をつけてくれたんだ。そ れで私は助かったの。その後、結局そのペンは、必要なくなったんだけど、それを持っていたおばさんは、偶然貴光に出会って、そのペンを貴光に渡したという 訳」
「わー、何その巡り合せ。唯香ちゃんと貴ちゃんを助けた人が同じって、すごい偶然だね」
 千夏は自分もそうであるのに、まだこの時気が付いてなかった。
「うん、そう。同じ人。もうびっくり。でもその間にまだおばさんのすごい話があって、実はね」
 唯香は、美代とトラブルを起こし、戸賀崎に生徒指導室に連れて行かれたことを話した。
「ええ、なんで唯香ちゃんが」
 千夏も納得いかないと憤慨していた。
 祖母も側で戸惑って聞いていた。
 そしてサトミがナズナと綾を引き入れて助けに来た事も話すと、千夏はほっとしていた。
「そのおばさん、かっこいいね。勧善懲悪って感じがする。正義の味方のヒーローだね」
「でね、ここからがもっとすごいの」
 唯香の話が面白くて、千夏は聞き入っていた。
「その戸賀崎先生のお姉さんが交通事故で昔に亡くなってたんだけど、偶然、そのおばさんが戸賀崎先生のお姉さんと同級生だとわかって、戸賀崎先生泣いちゃった。学校一厳しくて怖い先生が、涙ぐんちゃってさ、それ見たら私も、もらい泣きしちゃった」
「うわ、すごい偶然。なんか運命って感じの話だね」
「でしょ」
「ねぇ、唯香、戸賀崎先生のお姉さんが交通事故に遭って亡くなったのはいつの話なの?」
 祖母は訊いた。
「かなり昔みたいだよ。お姉さんはまだ小学生だったらしい。名前なんだったかな。どこにでもある簡単な名前だったんだけど、忘れちゃった」
「もしかして、和恵……」
「あっ、それだ! でも、なんでおばあちゃん知ってるの?」
「昔、同じクラスに、戸賀崎和恵って子がいたの。その子も、交通事故で無くなって……」
「待って、それって戸賀崎先生のお姉さん? えっ、おばあちゃんもクラスメートだったの?」
 唯香は驚きすぎて、祖母を凝視していた。
「ねぇ、唯香と貴光が会ったおばさんってどういう人?」
 祖母は心当たりがあるのか、眉根を寄せていた。
「どういう人って、髪の毛が、ショートボブぐらいで、背は割とあったかな。すごいはきはきして、きびきびした人。そういえば、和恵ちゃんと交換日記してたとか言ってたよ」
「えっ、交換日記」
 祖母はおぼろげな記憶を辿っていた。
「あっ、そうだ、おばちゃん、僕に英語教えてくれたよ。えっとね、アクシデントがなんだっけ、ハプニング? って感じの英語だった」
「Accidents will happen」
 千夏がいうと、貴光は「あっ、そんな感じ」と相槌を入れた。
「さすが、千夏ちゃん。英語ぺらぺらだもんね」
 唯香が持ち上げた。
「ううん、私の英語なんてまだまだよ。その助けてくれた人が、すごい英語ぺらぺらでね、私の英語力なんかと比べたら月とすっぽん」
「へぇ、その人すごいんだね。もしかして日本人じゃないんじゃないの?」
「見かけそのまんまに日本人だったよ。名前もサトミって言ってた」
「えっ、サトミ?」
 唯香と祖母が同時に呟いた。
「そういえば、私を助けてくれたおばさんもそんな名前だった。おばさん、おばさんって言ってたから、名前忘れてたけど、思い出した。サトミさんだ」
「えっ、同じ名前? 嘘、もしかして、同じ人って事ないよね?」
 千夏は半信半疑だった。
 二人して髪の毛の長さ、背の高さ、顔の感じ、話し方など再度確認すると、なんとなくピッタリと合っている感じがした。
 貴光にポロッと英語を言った事も、普通そんな英語の言い回しなどすぐに出てこない。
 困った人に声を掛けて助けるというだけで、同じ人だと思えてならなかった。
 千夏と唯香が驚いていたとき、側で祖母が思案した顔つきで困惑していた。
「サトミ…… 本当にサトミって名前だったの?」
「えっ、おばあちゃんも知ってるの、サトミさん?」
 唯香はまさかと振り返った。
「サトミって名前はよくあるからね。そのサトミさんと同一人物かわからないわ。それに私の知ってるサトミちゃんは英語なんてできなかったし、私の方が英語 が好きだったくらい。英語の成績も良かった方だったけど、英語話せるかって言われたら、そんなの私ですらできないし。英語がペラペラなんでしょ、その人」
「私の知ってるサトミさんは、日本語教師もされてたみたいです。教え子がアメリカンでした」
 千夏は職場で何があったか大まかに説明した。
「英語も話せて、日本語教師? 一体サトミさんって何者なの?」
 唯香はサトミがすごい存在に思えてきた。
「サトミちゃんが日本語教師…… ありえないわ。だって、失礼だけど教師を目指しているような感じじゃなかったし、ずば抜けて成績がいいって雰囲気でもなかったわ」
「年月も経ってますし、その間に人って変わるんじゃないですか?」
 千夏は自分の知ってる限りのサトミを話し出した。
 とんだハプニングの連続の話は面白く、千夏の上司とやりあっているサトミを想像すると、唯香はありえると受けていた。
「やっぱりそれ、私の知ってるサトミさんだ。怖いもの知らずで、果敢にどーんってぶつかって行くんだよね」
 唯香は確信した。
 祖母は益々ぴたりと当てはまらないと眉根を寄せていた。
「名前は一緒でも、なんかピンと来ないわ」
「だけど、おばあちゃん、小学生の時、和恵さんと同じクラスだったんでしょ。サトミさんも同じクラスって言ってたよ。サトミって名前の人、クラスに二人いたの?」
「よくある名前だし、いてもおかしくないわね。私が覚えてないだけで」
「それで、おばあちゃんが知ってるサトミさんってどんな人だったの」
「そうね、明るくて、面白かった。でもちょっと気の強い、我が儘な所もあった。何度か喧嘩して仲直りを繰り返したけど、中学三年のときの喧嘩で、それからずっと疎遠になってしまった」
「ちょっと待っておばあちゃん。えっ、嘘、おばあちゃん、名前、ハルカだった?」
「そうよ、自分のおばあちゃんの名前を忘れたの?」
 この時まで祖母は笑って軽く受け流していた。
「えっ、もしかして結婚する前の名前はサガミハルカ? サトミさんも言ってた。ハルカちゃんと喧嘩して疎遠になったって」
 唯香がその名前を口にしたとき、祖母は息を飲んで驚き、喉の奥から声が反射した。
 時が止まったように動かず、やがて目が見る見るうちに潤んできだした。
「ちょっと待って、えっ?」
 唯香はこんがらがって来た。
 いつもおばあちゃんとばかり呼び、人からはハルさんと呼ばれているところしか聞いた事がなかったので、自分の祖母がサトミの言ってたハルカだとは思いもよらなかった。
「ええ、おばあちゃんもそうだったら、私の知ってるサトミさんって、本当にみんなの知ってるサトミさんってことになるのかしら? なんてすごい偶然なの」
 千夏も信じられないとばかりに、口を開けて目を真ん丸にしていた。
「うわぁ、あのおばちゃん、みんなに会ってたんだ。すごいな」
 貴光は誇らしげに興奮していた。
 喜ばしい奇跡の繋がりであるはずが、唯香はそれよりも祖母を責めた。
「おばあちゃん。どうしてサトミさんと喧嘩なんかしたのよ。サトミさん、謝りたかったって、おばあちゃんの話してたよ」
 それを聞いたとたん、祖母、ハルカは目を押さえ、泣き出してしまった。
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