第七章


 昼間はポカポカとし、春の陽気に助けられて日本での滞在中は、随分と穏やかな気持ちでいられたと、サトミは思っていた。
 日本での滞在の最後を実家で過ごせたことは、気持ちを整理する上でとても満足していた。
 最後の滞在が、縁に恵まれてハプニング続きで面白かったし、この家も、遠い親戚──いとこの息子夫婦──が買ってくれて、全く知らない人達よりは少しだけほっとしていた。
 その分安く値切られてしまったけど、最後の滞在を許してもらったから、サトミは割り切っていた。
 とうとう、この家ともさようなら。
 遠い親戚が買ってくれたとはいえ、ここに遊びに来ることはない。
 いとこを通じて話が進んだだけで、その息子の当事者たちとは形式的に挨拶はすれど、あまり親しくなかった。
 サトミが実家を発つ日に、鍵を受け渡すと約束していたので、その息子は車で昼前にやってきた。
 人見知りをするのか物静かで、あまり愛想がないけど、気を遣って駅まで送ると言ってくれた。
 サトミは自分から頼むつもりだったので、先に言ってくれてとても助かった。
 できる限りの礼儀を施そうとする態度に、サトミは感謝し礼を述べた。
 いとこの息子は照れたように口元をほころばせて恐縮していたが、些細なその表情にサトミは心が和んだ。
 サトミに慣れてないだけで、相手もどう接していいのかわからないだけだった。
 本来ならサトミは物怖じせずに、色々と自ら話しかけるが、今はそんな気分じゃなく、静かに口を噤んでいたので、話しかけにくかったのかもしれない。
 サトミの憂いに気が付き、十分気を遣ってくれていたのだと、気が付いた。
 この人なら、この家も喜ぶだろう。
 いい人に受け渡ってよかったわね。
 もう一度、思い出の柱に触れ、サトミはさようならを心で告げた。
 スーツケースを玄関に運ぶと、いとこの息子が、何も言わずそれを自分の車のトランクへと運んでくれた。
 玄関先で靴を履き、普通なら「行って来ます」というところを、「さようなら」といって去るのが辛かった。
 玄関の匂いも、すっかり鼻が慣れて、初めて来た時の匂いがわからなくなっていた。
 どんな匂いだったっけ。
 思い出せないのが悲しくて、目が潤んでしまった。
 未練がましくゆっくりと表に出て、ドアを閉めた。
 ショルダーバッグから出した鍵を手に持ち、そっと鍵穴に差し込んで、ぐっと体に力を入れて回した。
 ああ、終わった。
 その鍵を、いとこの息子に渡し、これで明け渡しが完了した。
 もう自分の家じゃない。
 これで全てが片付いた。
 家の前に停めてあった車の後部座席に乗り、サトミは車窓から家をずっとみていた。
 戻れない、これで最後。
 どうしようもない感情がぐっと体を締め付け、鼻の奥がツンとしてしまった。
 やがて車は動き出し、あっという間に家から遠ざかった。
 それと同時に深いため息が出て、とてつもなく心が虚しくなった。
 駅につけば、形式的に送ってもらったお礼をいい、親戚でも良く知らない者同士は、取引が終わると後腐れなくあっさりと別れた。
 車はすぐさま発車して、サトミの視界から消えていった。
 その後は、スーツケースを転がし、サトミは寂しく駅の中へと入って行った。

 この季節、桜は咲きかけているものがあったが、やはり満開の時期にはまだ早すぎた。
 それも残念だが、帰る日が晴れてくれたのはよかった。
 これが雨だったら、余計に悲しくなったかもしれない。
 そうならなかったのは、まだどこかで幸運が続いていると思えてならなかった。
 空港までの切符を買い、祝日でどこかへ行こうとしている人たちに紛れ、駅のホームに降り立った。
 スーツケースを持っていると、すれ違う人はサトミを見ていく。
 いいおばさんが、浮かれてこれから海外旅行に行くのだろうと、思われてるのかもしれない。
 誰もサトミの本当の心境など知る由もなかった。
 この駅で電車を待つのもこれで最後。
 出発のこの日、何かをこの町でする度に、そんな風にいちいち思ってしまった。

 祝日の昼ごろの電車は、軽く混雑していた。
 スーツケースのような大きな荷物を抱えて電車に乗るのは、気を遣う。
 ただでさえ、外国からの観光客が多いから、サトミが乗り込んだ電車にもスーツケースを持っている人たちが何人かいて、少し肩身の狭い思いをしながらサトミは電車に揺れていた。
 乗換先の空港行きの電車のホームでは益々スーツケースを持った人が増えていた。
 外国人も多いが、日本人の若者も紛れていた。
 この時期だから、卒業旅行なのかもしれない。
 サトミは初めて海外旅行をしたときの事を思い出していた。
 スーツケースを持って、駅で電車を待っている時のあの高揚感。
 初めて乗る飛行機への期待と不安。
 これからアメリカに行くと言う、わくわくした気持ち。
 あの時に抱いた気持ちは、キラキラとした希望が一杯詰まっていた。
 その一回の海外旅行が原因で、何度も行きたいと思い、その旅行をする旅に空港へ行くのが嬉しくて仕方がなかった。
 帰るところがあってこそ、旅立ちは常にワクワクするものだとサトミは悟った。
 しんみりとしながら、沢山の旅行者たちに紛れ、サトミは電車に乗り込んだ。
 空港には予定よりかなり早くついてしまい、チェックインカウンターで列になって待っている人も数人程度だった。
 その列に加わろうとスーツケースを引っ張っていた時、見たことがある人と遭遇した。
inserted by FC2 system