何よりもかたく壊れないものを手にしたとき

 おばあちゃんがそろそろ危ないと家族の間で噂が立ったのは、私が高校一年の夏休みに入った頃だった。
 セミの鳴く声が騒がしく響いていた暑い最中、あの怖いおばあちゃんが……と思いながら私は長い縁側の廊下をゆっくり歩いていた。そっと足を動かしてもキシッと床が軋む。咄嗟にはっと身体が強張り顔を歪ませた。
 代々住まわってきた古いお屋敷だから老朽化していた。それでも立派な日本庭園に囲まれた格式ある建物はこの辺りでも少し知られた豪邸だ。ここに長女として生まれた私は由緒ある家柄にふさわしくあるようにおばあちゃんに厳しく躾けられてきた。
 廊下が音を立てるだけで私は理不尽に叱られ、もっと丁寧に歩くことを強制される。特におばあちゃんの部屋に続くこの廊下だけは緊張しながら歩くのだ。
 でも今はあまり気にしなくてもいいのかもしれない。もう叱られることはこの先ないだろう。
 ほんのこの間まで、おばあちゃんはしゃきっとして私に厳しくしていたのだけど、突然痴呆が出て今は寝たきりだ。もうすぐお迎えが来るのかもしれない。だけど寂しさがあまり伴わなかった。おばあちゃんと私の確執がそうさせていた。
 おばあちゃんの部屋の前に来て少し躊躇する。でも誰かがおばあちゃんの様子を見ないといけない。それは、私が一番するべきことだと心の底で思っていた。最期を見届けると私は何を感じるのだろう。ずっとわだかまりを抱いておばあちゃんの側にいた私にとって――。
 私はおばあちゃんの部屋の引き戸をそっと引いた。
 寝ていると思っていたから声も掛けずに開けたけど、おばあちゃんは大きな和室の真ん中に敷いた布団から身を起こし、ぼんやりしていていた。その横顔を見 ながら声を掛けようか迷っていると、おばあちゃんは薄っすらと笑みを浮かべた。まるで何かが見えているようだ。それが不気味だった。
 連日真夏日が続いていたけど、この部屋は適度の涼しさを保っていた。快適であるのに私がここに入ると落ち着かず背筋が寒くなる。
 おばあちゃんが怖い。そう思うのは小さい頃からそういう風に刷り込まれているせいだった。
 私が部屋に入っても気がつかず、おばあちゃんは空虚な目で宙をじっと見ていた。
「静(しず)は十六歳になったばかりなのよ」
 何もない空間に向かっておばあちゃんは少女になりきった高い声を出した。私は静かに正座し、冷静にその様子を見ていた。
『静』はおばあちゃんの名前だ。そして私の名前も発音は全く同じになるのだけど、字で書くと『志(し)津(づ)』と記す。
 静と志津。
 聞けば同じ音でもひらがなと漢字で記すと全く違う。
 何も祖母と孫の名前を同じ読みにしなくても、物心ついたとき私はお母さんに愚痴を垂れたことがあった。
 志津と言う名前が古風すぎて、おばあちゃんの名前と同じ発音だから紛らわしくて嫌だった。
『お義母さんがつけたのよ。この家はお義母さんがルールだから従わないといけなかったの。いい名前じゃないの』
 ソファーに座ってテレビを観ながら、大したことのないようにお母さんは答えていた。話題を逸らしているようにも思えるいい加減な態度。私がおばあちゃんのことを口にするとお母さんはいつもこの調子だ。
 大雑把であまりきちんと家のことをしない母親。嫁いだ先がお金持ちの家で玉の輿ときている。住み込みの家政婦さんがいて、お母さんは家事に囚われない自由の身だった。
 意外にもあの厳しいおばあちゃんとも関係は良好で、お父さんともラブラブで夫婦仲もいい。この家に嫁いでから全てが上手くいって幸せだと言っている。
 子供は娘の私の他に中学生の息子がいる。十(とお)真(ま)と言うのだけど、この家の跡取りとなる長男を産んだので、お母さんは嫁いできた義務を全て果たした気になっていた。
 弟の十真は神経質な私と違ってのんびりと穏やかな性格だ。頭もよく運動神経もいい。おばあちゃんからもうるさく言われず自由に育っていた。不公平を感じるけど、いつも私には優しく慕ってくれるからかわいくて仕方がない。
「お姉ちゃんがしっかりしているお陰で僕は守られているんだと思う。いつもありがとう」
 私を立ててくれるところが嬉しかった。
 両親も私が一生懸命なところを理解して、特にふたりからうるさくいわれたことはない。寧ろ褒められ、おばあちゃんには内緒でほしいものやお小遣いを気前 よく与えてくれる。理想を絵に描いたとてもいい家族だと思っているのだけど、この家にはおばあちゃんがいつもトップにいて、私だけが厳しくされていた。そ のせいで私の不満がくすぶって幸せな日々を壊されていた。
「おばあちゃんは私のことが嫌いなの?」
 小学生のとき、お父さんとお母さんに訊いたけど、返って来た答えはどちらも同じで、「おばあちゃんは志津のことを誰よりも一番愛している」と笑顔を向けられた。
 その場を取り繕うごまかしにか聞こえなくて、私が納得できないで困惑していると、お父さんは考え込んで重い口を開く。
「代々男ばかりが生まれるこの家で、たまに女の子が生まれると珍しくて、そのためやらなくてはならない古くから伝わる仕来たりがあるんだ……」
「ちょっと、お父さん!」
 おばあちゃんが近くにいるとでも思ったのか、お母さんが周りを気にしてそれ以上お父さんが言うのを遮った。
 お父さんは締りのない顔をして、後はうやむやにする。
「いつかきっとわかるときが来るよ」
 責任を逃れるようにいい加減に言って、私の質問がなかったことのように夫婦ふたりでいちゃいちゃしだした。
 私の方が目のやり場に困ってしまい、呆れてその場から離れた。
 悩みなどなさそうな両親のその幸せぶりは時々いらつく。私だけがこの家で不満をかかえ損をしているような不幸を感じていたからだ。歳を重ねるにつれそれ は強くなり私は本当に不幸だといつも思うようになっていた。これもおばあちゃんの厳しさのせいで性格が歪んだといってもいい。それがネガティブな思考へと 引っ張られていった。
 だから能天気なお父さんの言った『いつかきっとわかるときが来るよ』という言葉は虚しくいつまでも漂い、今ボケてしまったおばあちゃんを目の当たりにして永遠にわかる日は来ないと思えた。
 寝たきりになったおばあちゃんとは時々ブレが収まるようにまともに話ができることがあるのだけれど、そのときおばあちゃんは自分が高校生と思い込んでいるから全くの別人みたいだ。
 認知症にはよくある症状らしく、幻覚が見えたり、自分が年を取っていることを忘れたりするらしい。昔のことを思い出して記憶が入り乱れ、今現在に起こっていることのように振舞うそうだ。
 初めてそのような様子を見たときはとても信じられなくて、私に厳しく接してきた今までのことを忘れたおばあちゃんに悔しい思いを抱いた。
 自分だけ忘れてずるい。私は嫌なことをまだ鮮明に覚えているというのに。
 私のことも思い出せず、いきなり高校生になってしまったおばあちゃん。私のことをおばあちゃんの友達の節子さんと思い込み、私を「節ちゃん」と呼ぶ。そのこともとても虚しい。
 お父さん、お母さん、十真はかろうじて記憶に留まって、たまに名前を呼んでいる。また自分の名前は言えるのに、おばあちゃんと同じ音を持つ名前であっても私を思い出すことがなく、私の存在だけがすっかり消えたのだ。
 記憶を失った脳は薬を飲んでも治すことはできず、おばあちゃんのしたいように毎日を送ることしかできない。家族は現実を受け入れた。おばあちゃんが最後まで穏やかに暮らせるようにできる限りのことをする。
 といっても、介護は家政婦さんや訪問介護員に任せている。おばあちゃんも今のところそんなに酷い症状でもないので、一般的に言われる大変という感覚はまだ少ないかもしれない。
 ボケていても、どこかでプライドが失われてない部分がおばあちゃんにはあるような気がした。私がただそう信じたいだけかもしれない。私だけが厳しい顔をするおばあちゃんを知っているからだ。
 今は大丈夫に見えても、やがて全てを忘れて壊れていく。
 皺が多い張りのない弛んだ頬。痩せて小さくなってしまった身体。おばあちゃんの老いを目の当たりにして感じたくない同情に目をそむけたくなってくる。
 厳しい躾を嫌悪し、おばあちゃんにわだかまりをもったまま何も和解なく先にこんな姿を見せられるのが卑怯のようにも思えるし、その老いで全てをなかったことにしてしまおうとする自分の甘さにも呆れてしまうのだ。
 この感情をどこにもって行けばいいのか、どう向き合えばいいのか自分でもわからなくて、泣きたいような、怒りたいような、一層のこと全てを許しておばあちゃんに抱きつきたいような愛情すら芽生えて、鼻の奥がつんとしてきた。
 どうすればいいんだろうと、見つからない答えを必死で探していたその時、煌めいた光が一瞬視界に飛んできた。
 掛け布団の上に軽く置いたおばあちゃんの両手。骨の浮き立つ左の細い薬指には立派な宝石がついた指輪がはめられていた。それがキラッと光った。
 あれはおばあちゃんの大切にしている指輪だ。
 初めてそれに気がついたのは小学生に上がったばかりの六歳の頃だった。正座をして書道をおばあちゃんから教えてもらっていた。
「背筋はまっすぐ、肘を机から離して平行になるように構える。腕を自由に動かすつもりで筆を運びなさい」
 そんなことを言われても、鉛筆で字を書くのもあまり慣れてなくて、ましてや筆で字を書くなんてとても難しく感じた。墨で服が汚れないか気にすれば、肘が高く上がってしまうし、緊張して腕が脇にくっついて肩に力が入ってしまった。
「それじゃ筆が動かないでしょ。ほら、こうするのよ」
 おばあちゃんに手を触れられ、位置や感覚を教えてもらいながら導かれて書いたそのとき、机に添えられたおばあちゃんの左手の指輪が目に入った。
「ほら、どこを見てるの。集中しなさい」
 注意をされたけど、あまりにも指輪の宝石がキラキラとして興味を鷲づかみにされた。
「その指輪がとても光っていてすごくきれいだからみとれちゃった」
 子供だからあどけなく答えていた。幼過ぎたこともあってあまり叱られず、おばあちゃんは指輪のことを素直に教えてくれた。
「これ、金剛石っていうのよ」
「こんごーせき?」
 まだ幼くて宝石のことはよく知らなかったから、それがダイヤモンドのことだとは気がつかなかった。
 金剛石はダイヤモンドの和名と知ったのは随分あとになってからだった。
 おばあちゃんは新しい半紙を取り出し、そこにすらすらと漢字を四つ書いた。そこには『金剛(こんごう)不壊(ふえ)』と書かれていたけど、私には難しすぎる漢字だった。
「仏教の言葉なのよ。それはとてもかたくて決して壊れないという意味があって、そこからこの宝石が金剛石と呼ばれるようになったの」
「それは壊れないの?」
「ええ、とても頑丈でこの世で一番硬いのよ」
 キラキラとして輝きを持つ石が決して壊れないと知ると益々興味を持った。
「強いんだね」
 あまり語彙がなかった子供だから、その硬さを強いと表現してしまった。でもそのとき、おばあちゃんの表情が一瞬崩れて優しく見えた。
「そうよ。強いから、これは魔物から守ってくれるお守りになるの」
「とても綺麗なお守りだね。いいな、私もほしいな」
「そうね、志津が十六歳になったらあげる。だからそれまで、なんでもおばあちゃんの言うことをしっかり聞いてくれる?」
 あと十年であの宝石がもらえると知ったとき、私はとても嬉しくなって力強く「はい」と声を弾ませて返事していた。
 しばらくは厳しい躾も、あの宝石がもらえると思うと疑うことなく頑張れたような気がする。だけど、私が大きくなるにつれおばあちゃんの厳しさも一層強くなった。塾、ピアノ、英会話といった習い事から、テーブルマナー、茶道や華道など一般的な教養も容赦なく叩き込まれた。
 そこに歩く姿勢や言葉遣いなど些細なことでも注意され、おばあちゃんと家の中で顔を合わす時は息苦しくなっていく。
 いつもおばあちゃんの目が光り、そのせいで四六時中監視されている気分で、誰かがいつも見ている感覚が拭えなかった。
 おばあちゃんの干渉はエスカレートして、付き合う友達もチェックが入り、男の子と気軽に話すことも許されなかった。
 学校でも先生に連絡を取り、私の様子を定期的に訊いて要望を伝えた。ただでさえ業務に忙しい先生はおばあちゃんからの過度な連絡を鬱陶しく感じ、過保護 なクレーマーと思ったのだろう。そのせいで私に対する心証はあまりよくなかったように思う。どの学年も担任とは仲良くなれなかった。
 家はお金持ちと知られているから、そこに妬みもあり、私の身に染みこんだ振る舞いが鼻につく生徒たちも居た。学校ではわざとらしくお嬢様と揶揄されて、仲間はずれにされることもあった。
 これは虐めじゃないのかと思いつつ、おばあちゃんに言ってみたこともあったけど、それは試練であって決して悪いことじゃない。寧ろ自分のためになっていると諭された。でも友達も禄にできなかった私には辛過ぎた。こうなったのも全部おばあちゃんのせいだ。
 おばあちゃんの指には金剛石がキラキラ光っていたけども、いつかもらえると約束したことなどどうでもよくなっていた。それよりも自由がほしくて、私は毎日疲れきっていた。
 お父さん、お母さん、弟も私のことを心配してくれるけど、おばあちゃんには逆らえず、結局は見てみぬふりだ。
 おばあちゃんの見てないところでは、何もできないことを私に謝るのだけども、おばあちゃんがいると私を生贄のように捧げて逃げてしまう。
 そんな毎日が続き、私も高校に入学した。十六歳も近づき節目を迎えて少しは変わるかもと期待したけど、おばあちゃんは何度も同じことを言って注意してきたり、私が言ったことをすぐに忘れたりして聞いてないと怒りっぽくなって、苛々したりすることが増えていった。
 今思えばそれが認知症の症状が出てきた頃だったのかもしれない。
 初夏の気配がしだした五月。その月、私は十六歳の誕生日を迎えた。同時におばあちゃんの認知症が発覚した。家族は動揺し私の誕生日を祝うどころではなくなった。プレゼントは忘れられ、毎年欠かさず用意してくれたケーキもなく、自分の誕生日は寂しいものとなった。
 あまりにも惨めで自分の部屋でひとり泣いていると、ドアの向こうから声がくぐもって聞こえてきた。
「志津、今幸せか?」
 お母さんだろうか、それともお父さん? 声の質がよくわからなくてどっちの声にも聞こえてしまった。
「全然幸せじゃない。不幸だよ」
 かすれた泣き声で答えた。
 心配したのかドアが少し開いて様子を探っている気配を感じた。
「ひとりにしておいて!」
 叫んだら、すっと気配が消えた。
 誕生日を祝えなくて誰かが心配してこっそり様子を見に来たのは、私が十六歳になることがこの家ではとても重要なことだったからだ。
『この家の女の子は十六歳を迎えると、大人になるということなのよ』
 おばあちゃんが昔言っていた。
 この家には古くからの仕来たりがいっぱいあって、私はそれをおばあちゃんから教え込まれてきた。特に女の子は十六歳で用意された全てを手に入れると幸せ を感じ、そして独り立ちをする準備が整うと言い伝えられている。だからそれまでに全てを習得しなければならない。でも私はいつもおばあちゃんから何を教 わっても「まだまだ」とダメだしを食らってばかりだった。
『静(しず)は十六歳になったばかりなのよ』
 ボケたことで高校生になったおばあちゃん。嬉しそうに言ったのはこの家に纏わる仕来たりのせいだ。でもおばあちゃんは嫁いできたから正式にはこの家の血は受け継いでない。今となっては記憶が混ざり合って自分がこの家の娘と思い込んでいるのかもしれない。
 先ほどからずっと一点を見つめたままだ。
『全ては志津のためだから。必ずそれが役に立つときがくる。おばあちゃんの言うとおりにしておけば志津は幸せになれるから』
 左手の指輪を私の前でキラキラと輝かせながら言い聞かせてきたおばあちゃん。必死になりすぎて薄っすらと涙を浮かべていた。
 かつて憧れた宝石の煌めきは今虚しく目に映り、何が強くて守ってくれるお守りなんだと蔑んで見てしまう。
 そのとき、ぼんやりしていたおばあちゃんが私の存在にやっと気がついて声を掛けてきた。
「あっ、節ちゃん。来ていたのね。また会えて嬉しい。そう、そう、節ちゃん、私十六歳になったよ」
「そう、おめでとう」
 私は適当に合わせる。
「節ちゃんの誕生日もこの間だったね。私より先だったのに、忘れていてごめん」
「別にいいよ」
「いいことないよ。プレゼントあげないと。そうだ。この指輪あげる」
 指から外し、それを私に差し出した。
 ボケているから、その指輪が高価のものだと思っていない。そうなると当然孫の私にあげると約束したことも覚えてないだろう。
 私は差し出された指輪をじっと見つめていた。このまま節子さんのふりをして受け取るべきか考えたけど、やはり良心が「いらない」と突っぱねる。
「遠慮しないで」
 おばあちゃんは布団から出て私に近寄ってきた。
「これはあなたのよ。ほら、受け取って。とても強くてお守りになるんだから。これはあなたが持たないと意味がない。約束したじゃない、あげるって」
 おばあちゃんの記憶が私の時とごっちゃになっている様子だ。
 無理やり手を取られて指に嵌められた。
 初めて身に着ければ不思議と指から重みを感じ、まじかで見る煌めきに小さい時に感じたように美しく目に映った。
 私の手を取り、とても似合っていると嬉しそうに笑うおばあちゃん。あまりにも無邪気でその表情に泣けてくる。
 無理に断るのも引けて、そのまま指に嵌めて悲しみを抑えて愛想笑いした。
 硬く壊れることのない強いお守りを手にした私を見て、おばあちゃんは目にうっすらと涙を溜めて喜んでいた。
「志津、今、幸せか?」
 襖の向こうでくぐもった声が突然聞こえてきた。一体誰だろう? 昔聞いたことのある声に似ていたから私への質問に思えたけど、すかさず答えたのはおばあちゃんだった。
「ええ、もちろんよ。なんて幸せなの。静は最高に幸せだわ」
 その時、奥の襖がさっと開き真っ黒い不気味な影が現れた。まるでそれは大量に集まった羽虫が蠢いているようだ。とても気持ち悪く、ぞっとさせる。
「志津、やっと幸せだと答えたな。この日を待っていた。十六歳になった今、古くからの盟約どおりお前を頂く」
 ゾクッとする声で語らうその話に私は戦慄する。
 おばあちゃんは寄り添い、ありったけの笑顔を私に向けた。
「大丈夫よ。その指輪があなたを守ってくれる。アレはあなたを節ちゃんと思い込み、私を十六歳の志津、あなただと思っているの。アレは目が見えないから決してばれることはないわ」
 おばあちゃんが小さく呟いた。
 おばあちゃんの顔を見れば、凛としていてボケたところなど全くない。とても優しい笑みを私に向けていた。
「あなたのことはいつまでも愛しているわ」
 おばあちゃんは言葉を残して自らその黒い影に飛び込む。黒い影はおばあちゃんを一瞬で包み込みうねうねと動いていた。まるで味わって咀嚼しているようだ。
 私は恐怖で身体が強張り、顔を青ざめて何もできないでいた。
 やがて、おばあちゃんの何かを吸い取ると、その黒い影はすっとどこかへ消えていった。
 畳の上には動かなくなったおばあちゃんの身体が不自然な形で横たわっていた。
 その意味を考えた時、私は悲鳴を上げていた。
 私の悲鳴でお母さんが血相を変えて駆けつけてきた。部屋に入るなり倒れているおばあちゃんを見て、全てを悟ったように私を力強く抱きしめた。取り乱している私が落ち着くまでその抱擁は続く。
「おばあちゃんが、黒い影に」
「大丈夫よ。何も心配することないのよ。全ては終わったの」
 お母さんも感情が極まって泣き出してしまった。
 一体何が起こったのか、おばあちゃんが最後に見せた優しい微笑がいつまでも頭に残っていた。

 その夜、お父さんとお母さんはおばあちゃんの亡骸を前にして感謝の気持ちを伝えた。
 布団に寝かされたおばあちゃんは顔に白い布を掛けられて静かに横たわっていた。これから親戚が集まって葬儀が始まる前に、お父さんが畏まって正座をし、ことの真相を家族に語った。
「昔、私たちの先祖は、この先も富を得て繁栄するためにこの世のものではない魔力を持つものと盟約を結んだんだ。そこには跡取りとなる男の子が必ず生まれる約束も盛り込まれていた。当然見返りも求められ、それは時々生まれる女の子を捧げることだった」
 それを聞いた時、それが自分のことだと気がつきはっとして父を見た。隣で十真も息を飲んで驚いていた。
「長い間女の子は生まれなかったけど、とうとう志津が生まれてしまった。十六歳になったら迎えが来てさらわれてしまう。それを私の母はなんとしても阻止しようと計画を立てたんだ」
 父は声を詰まらせた。涙に邪魔されながらも、全てを教えてくれた。
 それを聞いている間、私はずっとおばあちゃんと過ごした時のことを思い出していた。このとき全てがひっくり返り、涙がぽろぽろこぼれていた。
 私は我慢できなくて、横たわるおばあちゃんに近づき布団の上から抱きついて泣き崩れた。おばあちゃんが私にしてきたことには全て意味があった。
 おばあちゃんはわざと自分と同じ名前を私につけることで、すり替わりやすくした。厳しくしたのも、私が幸せだと感じさせないようにするためだった。そうすることでしか私を助ける術がなかった。
 十六歳で全てを手に入れるということは、不自由ないお金や贅沢な暮らし、そこに家族の愛情で満たされることを意味した。その幸せを認めたら、さくっと命を持っていかれるということだ。
 おばあちゃんは私を守るために敢えて厳しくし、辛いと思わせることで十六歳の誕生日に魔物が現れて幸せかと訊かれても不満をぶつけられるように計画していた。
 十六歳の誕生日に認知症をぶつけてきたのも、楽しく祝うことをしないためだ。認知症のふりをしてまで私を助けようとしていた。
 おばあちゃんの顔が見たくて白い布を取り除く。その顔は薄っすらと笑みを浮かべ安らかに目を閉じていた。責任を果たし、ほっとしたようにも見えた。
 そのとき、自分の手の金剛石の指輪にふと目が行った。
 キラキラと輝くそれは冷たくて硬く、おばあちゃんの厳しさのようでもあり、壊れない強い愛情のようにも思えた。
 それはおばあちゃんと過ごした日々そのものを象徴していた。
『あなたのことはいつまでも愛しているわ』
 おばあちゃんの声が耳に残る。
 そして金剛石が一層煌めきを増したように見えた。
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