第一章
2
鍵を持っている氷室は、朝一番に本店のシャッターを開ける役目がある。
朝一番といっても、普通の企業からすれば遅めではあるので、早く来たところで苦にはならない。
それに、昼過ぎにならないと専務は大体来ないし、社長は気が向いたときにだけにしかやってこない。
そして主任と名ばかりだけの役職をもらった氷室は、本店を任されたことで、少しばかりの責任を負わされていた。
それもまたあってもないに等しいものだった。
朝の通勤のスーツ姿が溢れかえった人ごみに紛れ、時折欠伸を出しながら、気怠く職場に向かい、また同じ日々が繰り返されるつまらなさで背筋が曲がる。
やる気のないだらけた気分で歩いていた。
眠たい目をこすり、大きな欠伸を堂々とさらけ出して店の前に来た時だった。
まだ人気の少ない通路、その店のシャッターの前で誰かが立っていた。
誰?
気の早い客か?
氷室がシャッターの鍵をスーツのポケットから取り出し、訝しげにシャッターの前に近づくと、その人物は急にそわそわとしだした。
「おはようございます!」
ハキハキとした大きな声。
ぼーっとしている氷室にはそのテンションは合わなかった。
ちらりとぶっきらぼうに一瞥すると、その人物の背筋がピシッと伸びた。
「あんた誰?」
愛想のない態度が怖がらせたのか、一瞬身を引いたようだった。
それでも必死に立ち向かおうと震えるような足取りで気をつけをする。
「今日からお世話になります。斉藤なゆみと申します」
どうやら知らないうちに社長が雇ったらしい。
これは専務の好みではない。
短い髪、まるで少年のよう。
そして黒いジーンズに白いシャツ、上に地味なジャケットを羽織っている。
肩には山登りにいくのかというくらいのリュックサック。
そして何より、すっぴんだった。
女性としての色気など全く何も感じられない女の子。
それでも化粧はしてなくとも、色白できめ細かい肌はきれいだった。
すっぴんだけれども、不細工ではなかった。
むしろ素朴なかわいさが漂う。
一通り観察してから、氷室は「ああ、よろしく」と無感情に返事した。
一番端のシャッターを半分まで開け、そこを氷室がくぐる。
なゆみはどうしていいのか分からずもじもじとしたまま突っ立っていた。
氷室は開いたシャッターから顔だけ出し、指示をする。
「とにかく入って」
なゆみは「はい」と歯切れいい返事をして腰を屈めてくぐった。
氷室が電気をつけると、辺りはぱっと明るくなり、なゆみは不安と緊張とまぶ
しさでたじろぎ目を細めた。
「そんなに緊張することないよ。えっと、斉藤…… さん? だったね」
「はい!」
また元気な返事が返ってくる。
なゆみはしっかりと目を据えて氷室を見ていた。
氷室はこの子はどれだけ持つだろうかと冷めた感情を持ち合わせながら、新しいタイムカードを探していた。
店の造りはシンプルで、広々としたスペースにガラスのショーケースで周りを囲んであるような店だった。
そのショーケースの中にはありとあらゆる、商品券やチケットなど、お得に利用できそうな金券が並べられている。
壁にはお品書きのように、新幹線と飛行機の格安チケットの値段が地名と一緒にずらっと並べられ、狭しと宣伝になるようなポスターやポップがずらりと貼られてれていた。
囲まれたショーケースの中にデスクやコンピューターがあり、銀行の中のようにそこに人が入り働くような場所だった。
「あった、あった」
氷室はデスクの引き出しから新しいタイムカードを取り出す。
「ここに名前を書いて」
肩にかけてあったリュックサックを床に置き、ガラスのショーケースの上でなゆみは自分の名前を書いていた。
それをじっと氷室は見ていた。
どうも初めて会った気がしない。
なゆみが書き終わるとそれを持って、控え室へ案内した。
部屋の奥をパーティションで区切ってドアを取り付けてある簡単な作りの控え室だった。
「あまりきれいなところじゃなくてごめんね」と言葉を添えてみるが、なゆみは謙遜しているとばかりに、手をひらひらと顔の前でさせて、気にしない態度を見せていた。
しかし氷室は前日の専務のアレのことも意味しており、知らぬが仏だと苦笑いになっていた。
控え室に設置されていたタイムレコードになゆみのカードを差し込む。
そしてそれを壁にかけていたタイムカードのラックの中に入れた。
続いて自分のを取り出し、タイムカードを押し、またそれを戻す。
「お名前は氷室さんですか」
なゆみはカードの名前を見て氷室の名前を確かめた。
「そうだったね。まだ私の自己紹介をしてなかった。氷室コトヤだ。一応ここでは主任となっている。よろしく」
「はい、こちらこそどうぞ宜しくお願いします」
とにかくなゆみの挨拶は元気だった。
その声の元となる、明るい笑顔も添えて、氷室ににこやかにほほ笑む。
それを見た時、はっとするものが氷室の体の中を走り抜けた。
この子、もしや、昨日みたあの子?
なんとなくそんな気がする。
「斉藤さんはどうしてここで働こうと思ったの?」
「はい、あの、私9月から留学する予定なんです。そして今、このビルの二階の英会話学校に通ってまして、場所は最適で、そして社長と話したとき、8月末まででもいいからと言ってもらえて、それで働くことになりました」
英会話という言葉を聞いてもう充分だった。
この子は前日に見た子に間違いないだろう。
なんという偶然だろうか。
そしていつまで持つかと思案したところで、すでに期限付きだった。
8月末までの短い期間なら、途中で辞めることなく最後まで働くことだろう。
約4ヶ月の付き合い。
氷室の中では、なゆみはさらにどうでもいい存在になっていた。
「ふーん。留学か。どこに行くの?」
「カリフォルニアです」
「そう。よかったね。ところで君、いくつ?」
「20歳になったばかりです」
「若いね。まあ8月末までよろしくね」
「はい、こちらこそ宜しくお願いします」
なゆみは深々とお辞儀をする。
真面目腐った愚直な雰囲気が面白みにかけると、氷室は適当にあしらうような態度を見せていた。
やがて従業員たちが現れ、簡単に紹介を済ませた。
あとは従業員に任せ、氷室はコンピューターの電源を入れると、自分の仕事の準備にとりかかった。