第一章
4
「斉藤さん、そろそろ休憩とってくれていいよ」
そう言ったのは上野原ミナだった。
側にはミナと仲がいい敷川紀子がいた。
紀子は来年結婚が決まっている24歳の小柄な女性だった。
この子も社長に採用され、年も近いし、古株のミナと1ヶ月の違いで入ってきたこともあり、結束が固い仲であった。
本店はこの二人が中心になっていた。
そこに週に何回かくるだけの専務が選んだアルバイトが数名いる。
適当にみんなそれなりに仲良くはしていたが、この二人と他のアルバイトたちは傍から見ていても水と油のように思えた。
それもそのはず、社長が採用した女の子と専務が採用した女の子は全く違った種類のタイプだった。
そんな中でなゆみはまた第三の違ったタイプであり、氷室の目にはどこにも加えてもらえそうもなくいじめられるタイプだろうなと感じていた。
なゆみが休憩に行けば、きっとこの二人はなゆみのことで何か言うのだろう。
なゆみが席を外したあと、氷室は二人の会話に耳を集中してしまった。
店は人の波が押し寄せるときと引くときがあり、暇なときはショーケースについた指紋をふき取ったり、商品をきれいに並び替えたりとこまごました作業をする。
そんな時にはおしゃべりも交えて、仕事の間のほっとする時間にもなっている。
やはりミナと紀子は新しく入ったなゆみの事について少し話し出した。
氷室が居ることもあり、おおぴろげな話し方ではなかったが、どこか心配するようであり、自分たちと合わないんじゃないかとなゆみが苦手だとも取れるような発言をする。
それみたことか。
氷室は自分の思った通りの筋書きになり、半ば自分の洞察力に感心していた。
不意に立ち上がり、彼女たちの側を通ると、何気ない顔でその話に加わってみた。
「新しく入った斉藤さん、どんな感じだい」
ショーケースの商品を確認するそぶりをして軽く聞いてみる。
ミナは本心をさらけ出すタイプではないので、用心した話し方を返してくる。
「まだ入ったばかりで分かりませんが、今までに居ないタイプですし、少し心配かもしれませんね」
側で紀子が、相槌を打つように首を縦に振っていた。
「最初は必ず失敗するし、仕事覚えて貰うまで説明が面倒臭いけど、上野原さんあまりいじめないでやってくれよ」
「いやですよ、氷室さん。私そんなことしません。それより氷室さんも最初は労わってやって下さいね。いつもの調子だと絶対怖がりますよ」
ミナだけは古株ということもあり、氷室に一歩突き進んだ言い方ができた。
氷室もまた、女子従業員には煙たがられる存在なのである。
見かけはそう悪くない。
年は30過ぎていてもまだ20代後半程度に見られる。
スーツを着こなし、背も高く、きりりとした整った顔なのに、まず愛想がない、自分主義、きつい言い方をするせいで、外見よりも中身の悪さが先に出ていた。
そして何より専務である純貴の友達で、なあなあな関係と思われて触らぬ神にたたりなしという位置づけだった。
何かあれば専務に言いつけると思われ、恐れられる嫌な主任とされていた。
氷室は鼻でふっと笑いながら、その場を後にしたが、結構ミナの言葉には気分を害していた。
氷室はここで働く女子社員と関わりたくない事からわざとそういう態度を取っていたが、実際は自分でもここで働いている誰よりもレベルが上だと思っていた。
そういうことを思って働いている以上、知らずと見下しているのだろう。
やはりいいように思われないのは仕方のないことだった。
なゆみが加わったことで、これからどのようになっていくのか見ものだと、高みの見物を決め込むように冷たい微笑を片一方の口角に乗せて上げてみる。
それにしてもくだらない毎日だと、椅子にどっしりと腰を下ろしてデスクワークに励んだ。
そして電話が鳴ると、一度目のベルが鳴り終わらないですばやくとる。
「はい、トレードチケットセンターです」
「あっ、コトヤン? 俺、純貴。今日は支店周りしてるのでそっちにいくのはかなり遅くなるから、適当にやっててね」
「はい。かしこまりました」
「おいおい、ビジネスとは言え、お前も結構律儀だね。電話くらいいつもの調子でいいのに。ところで、新しく入った子、来た? 親父が勝手に雇ったみたいだ
けど、どうせ俺好みじゃない子でしょ。まあ短期らしいからいいけど、今度はまたかわいい子入れないと、つまんないね。今度はコトヤンの好みの子でも雇って
みるよ。お前もいい年なんだから彼女の一人くらい欲しいだろ」
「純貴いい加減にしろよ。よけいなお世話だ」
「おっ、専務に向かって口答えか。ハハハ、とにかくあと頼むよ」
いつかバチでも当たるぞというより、当たれと願いを込めて受話器を強く置いた。
気を静めるために、またデスクワークに専念する。
キーボードに伝票の情報を打ち込み、どれだけの売り上げがあるか常にチェックしていた。
本当に簡単な作業だった。
氷室は過去を思い出していた。
自分で企画してプロジェクトを立ち上げ、それに向けて仕事をする。
いつかは世界でも活躍するのが氷室の夢だった。
だが、会社の派閥という組織の中でどうしようもないことに巻き込まれた。
積極的に行動し、己を貫くことで、それを煙たいと上司に嫌われ、そしてあっさりとリストラの対象のリストに加えられておさらばだった。
見えない力に屈さなければならない侮辱。
いくら訴えても自分に味方をしてくれるような力を持つものもなく、他のものは生き残りを掛けて自分のポジションに必死にかじりつこうとしていた。
どんなに頑張っても、報われないものがあると気づいて挫折した荒れた日々。
それから氷室は、冷めたいい加減な態度で物事を掘り下げて考えないようになった。
氷室のようなものも居れば、適当に親の作った土台で好き放題できるようなものもいる。
世の中は不公平だと、キーボードを打ち込む指先にも自然に力が入っていた。
打ち間違い、ピーと強い音が流れたとき、自分の心の叫びを代弁してくれているような気分になった。
そしてなゆみが戻ってきた。
深々と頭を下げて「お先でした」と気を遣っている。
顔を上げたとき、なゆみはやはり笑顔を忘れない。
にこっと氷室にも笑いかけていた。
不満だらけの氷室の心にその笑顔が入り込む。
なぜか氷室は咄嗟に顔を背けてしまった。