第二章
2
「へぇ、このビルの地下でアルバイトしてるのか」
「うん、坂井さんも来て下さいね。面白いところですよ」
「おっ、行く行く。それで働き出してどんな感じ?」
なゆみは暫く坂井と会話が弾む。
だが時々ジンジャにちらりと目線を向けていた。
「それが、ちょっと苦手な怖い上司が居て、気が抜けない感じかな。でも噂に聞くほど悪いイメージはなかった」
「おい、一体どんな噂が流れてるんだよ」
坂井はジンジャよりもお調子もので、なゆみへのリアクションは大げさに表現する。
このときも、漫才師の突っ込みのように歯切れよく質問する。
噂──
まだ働いて二日目だが、この日ミナと紀子からそれとなく耳打ちされたことがあった。
氷室が専務と仲のいい友達であり、気を許さない方がいいこと。
そして氷室は極端に従業員と距離を保ち、態度が冷たいのが日常茶飯事であること。
またきついことを言われても気にしないこと。
なゆみはそれらの聞いたことを笑いながら伝えていた。
「なんか怖そうなとこだね。もしいじめられたりしたら俺に言えよ。怒鳴ってやるから」
「やだ、坂井さん、そんなのできないよ。でもありがとう」
坂井は守ってやりたいとアピールしていたが、なゆみはノリのいい冗談だと受け取った。
ジンジャは静かにそのやり取りを見ていた。
馴染みの先生が顔を出して、「ハウアーユー?」とお決まりの挨拶をしてきた。
傍に居た者は「ファイン、サンキュー」とこれまたお決まりのように返している中で、なゆみは「プリティグー」と違った受け答えをしていた。
なゆみの英語のレベルは、かろうじて中級に毛が生えた程度のものだった。
決してペラペラとは言えないが、喋れないという人が多数いる中で、充分に意思疎通ができる範囲だった。
まだ不自由でたどたどしいが、それでもクラスでは積極的に話すのでかなり話せるレベルと思われている。
周りの人間の方が高度な単語を沢山知っていて、名の知れた大学に通っている頭がいい学生が一杯でも、なゆみの話そうと努力する積極さには敵わない。
なゆみの素直な性格はここでも誰からでも認められ、誰もそれがでしゃばってるとは思わない。
みんなにかわいがられてはペットのような存在だった。
誰とでもすぐ打ち解けて、その人から言葉を引っ張るのはなゆみの得意とする分野なのか、知らずと友達は増えていく。
その日、クラスで初対面であっても、溶け込みやすいように雰囲気を作るので、なゆみが入ったクラスはいつも賑わいを見せていた。
だから、氷室のようなタイプを目にすると、自分が努力しても打ち解けないと理解しているので、非常に緊張する。
この日、氷室が箱を落としたときも、実際のところ腹が立ってわざと落としたんじゃないだろうかとびくびくしていた。
すぐに中身を拾いにいって、不意に氷室と手が触れても、なゆみは中身を箱に戻すことで精一杯だった。
落ち着いていたどころではなく、早くことを終わらせたかっただけだった。
指が長いことでピアノを習っているのかと聞かれても、明るく笑うことで氷室の不機嫌さを少しでも和らげたい気持ちが先走っていた。
氷室の前では身がこわばる。
そしてミナ、紀子、専務が現れたときはほっとした。
待ってましたとばかりについ力が入って、元気に挨拶をしてしまった。
氷室は名前にも氷がつくように、なゆみにはどうしても冷たいイメージで固定してしまっている。
だからこそ、自分のイメージに縛り付けられてたまるかという反抗する気持ちが高まって、益々笑顔になっていく。
スカートの制服が似合わないと言われても、すぐに受け入れて笑い飛ばしたのも、氷室と仲良くやっていくには自分が柔軟になればいいと一人で解決策を考えていた。
それもあるので、氷室のこともミナや紀子が話した噂どおりの人とは鵜呑みにしたくなかった。
きっとどこかでうまくやっていける。
そう信じていた。
そんなことを熱くジンジャと坂井の前で語っている自分がいることに気が付くと恥ずかしくなってしまう。
我に返って、はっとした。
「ごめん、つい力が入ってしまった。ご静聴ありがとうございました」
「お前は、変な奴だよな」
例えそれがネガティブな意味であっても、ジンジャに言われることで、褒められているように聞こえてなゆみは満面の笑みをみせていた。
「さあ、そろそろクラス行くぞ」
坂井の一言でなゆみとジンジャは立ち上がった。
この時、いつも通りの楽しいクラスになるんだと、なゆみは思っていた。