第三章
2
事務所と言われた場所に足を踏み入れると、中から女性スタッフが、大げさに喜びの声をあげて、なゆみに寄って来た。
「いらっしゃい。ようこそ」
大歓迎の嵐だった。
その部屋の中は、喫茶店のように小さなテーブルと椅子がセットになっていくつも並べられていた。
他にも誰かがすでに座って何かを真剣に話し込んでいる姿が目に付く。
まるでセールスのトークを受けているような印象だった。
ここは一体……
なゆみはごくりと唾を飲み込んだ。
どうぞと奥のテーブルに手を差し出され、なゆみは言われるままに座った。
そのなゆみの前に柳瀬とジョンも腰掛けた。
一体何が始まるんだろうと警戒心を持っていたが、他愛無い世間話を笑顔で楽しく話すから、なゆみもそれに合わせようとして笑顔を見せていると、知らずと雰囲気に飲まれて行く。
心の中は不安定で、楽しむべきなのか、疑うべきなのか、どっちにも転びそうな位置に、がたがた震えて立っているような気分だった。
その時テーブルの上に紅茶とケーキが出され、まるで喫茶店の中にいる錯覚を覚える。
もしかして、無理やりお金を取ろうとするぼったくり商売にでもひっかかってしまったのかと、血の気が引いた。
「さあ、遠慮なくどうぞ」
薦められても、とりあえずは断ったが、しつこいくらいに何度も「さあどうぞ、さあどうぞ、さあどうぞ」といわれると無理にでも折れさせられた。
なゆみの顔は引き攣りつつも、頭を軽くさげ、頂きますととりあえず紅茶に手をつけた。
一口飲んだところで勇気を出して質問する。
「あの、私は一体何を」
「何も緊張することないですよ。ここの人たちは皆いい人ばかりで、楽しいところなんですよ。宣教師もいるので英語を話したい人も気軽に遊びに来られたりします。なゆみさんもちょうどいいじゃないですか。英語の勉強になって」
なゆみは「へっ」と軽く声を出すが、心の中は早く帰りたくてたまらない。
とりあえず適当に相手して、そそくさ帰ろうと気持ちを固め、先ほどから勧められていたケーキにも手をつけた。
イチゴが乗ったオーソドックスなショートケーキは、お昼もまだだったなゆみには美味しく感じてしまった。
それを食べてしまったために、余計に強く出れない義理を感じ、話は思いもよらない方向へ進んでいった。
柳瀬は途切れることもなく、どんどん話続ける。
それと比例して聞いているなゆみはどんどん衰弱していった。
柳瀬は話し方は柔らかで優しかったが、決して終わらないセールストークで、宗教のことばかり話し出す。
そこになゆみを誘い込もうと何度と説得を重ねた。
なゆみは宗教など全く興味がなかったが、時々横から英語でジョンが色々と話をしてくる度に、相槌をうっていると、興味があるように思われていった。
まるでそれは用意されていた策略のようで、なゆみはどんどんこの二人の思うままに言葉を引き出されていってしまう。
いい加減に帰りたいと何度と意思表示しても、柳瀬は仏のような笑みを絶やさずに「もう二度と会えなくなるのは寂しいから、是非会員になってまた来て下さい」とそればかり言い続けた。
「だからそれは家に帰ってからゆっくり考えて結論を出します」と言葉をにごらせても、逃げるとはなっから思っているのか決して席を立たせないようにどんどん話を浴びせる。
そして気がつけば窓の外はすっかり暗くなっていた。
どれだけの時間をこの人たちと過ごしていたんだと、自分でもびっくりして、この異常な事態に危機感を感じてしまった。
このまま行けば、もう二度と家に戻れないんじゃないかとも思えてしまう。
それより何より、恐ろしく疲れた。
神経が磨り減って、思考能力が働かない。
結局、根負けしてしまい、なゆみは早く帰りたいがために会員になると申し出た。
「そうですか。それは嬉しいです。それじゃ入会金が2000円なんです」
金を取るといわれて、ここでまた驚いてしまったが、意思表示をしたために引っ込められなくなり、そして何より早く帰りたい。
なゆみは2000円をしぶしぶテーブルに置いた。
とても高いケーキと紅茶代に思えた。
それでも、ここでやっと開放され、腰を上げることができたことは喜ばしかった。
この後、ジョンが駅まで送るとついてきた。
英語を話すのは自分の勉強のためにもなるので、別に断る理由もなく、一緒に肩を並べて歩いた。
別れ際にまた次の日曜日に会おうと約束をさせられて、やっと一人になれて家路に着いた。
馬鹿正直について行ってしまったために、変なものに巻き込まれ、なゆみは悶々として悩んでしまった。
弱っていた心の隙間に入りこんできた、やっかいな問題ごとは、不安でしかなかった。
誰かに相談したくて、なゆみは思い切ってジンジャに電話をかけてみた。
勇気を振り絞り、ダイアルをプッシュする指に力を込めた。
なゆみは携帯電話を持っていないので、好きなときにいつでもどこでも相手に電話をすることなどできない。
掛ける時はいつも自分の部屋からだった。
呼び出し音が鳴る間、棚の上のキティちゃんのぬいぐるみを祈る思いで見ていた。
「もしもし」
受話器からジンジャの声が聞こえた。
「あっ、ジンジャ……」
「タフクか。なんだよ」
どこかよそよそしく、機嫌が悪そうだった。
「あのさ、その」
何をどういえばいいのかわからない。
それでも何かを伝えようと必死になればなるほど、意味を成さない言葉の音だけが何度も繰り返される。
「用がないんだったら、切るぞ。俺、今日疲れてるんだ」
「ご、ごめん。今度会ったときに話す」
「結局は用があるんじゃないか。それなら今話せばいいだろ。そのために電話してきたんじゃないのか」
ジンジャがなんか冷たい。
「だって、ジンジャ疲れてるし、それに怒ってるみたいだし」
「怒ってなんてないよ」
「でも、なんかいつもと違うから」
「あのさ、タフク。お前が今考えることは留学のことだろ。それに集中しろよ。俺も就職活動に忙しいんだよ」
「そうだったね。ごめんね。別にこれといって用はなかった。ついちょっと話したかっただけなんだ。それじゃまたね」
「ああ、そうだな。それじゃな」
お互いの関係がねじれたまま電話が切れた。
あまりにもあっけなかった。
ジンジャとこうなってしまったのも、自業自得だった。
ぽっかりと穴が開いたように悲しいながらも、これでよかったのかもしれない──。
なゆみはそう思い込もうとしていた。
距離を置いた方が、諦めもついてきっと吹っ切れる。
全ては自分で蒔いた種ならば、これまた全て自分で何もかも解決するしかない。
色々と背負い込み、なゆみは極限まで追い込まれていってしまうのだった。