Temporary Love

第三章


 その日、隣のビルの支店でアルバイト一人休みが出てしまい、急遽本店から一人回してくれと依頼があった。
 色々な経験をさせるために、新人が出向くのは暗黙の了解だった。
 なゆみを送りださなければならない。
 本店を任されている氷室は、私情で動くことができずに、泣く泣くそうせざるを得なかった。
 なゆみが側に居ないのは正直寂しい。
  そんな気持ちを抱いてる中「はい、喜んで」となゆみは移動を明るく承諾すると、氷室と離れることが嬉しそうに聞こえた。
 まだまだ自分は苦手とされているのがひしひしと伝わってくるようで、氷室は複雑な気持ちになりながら、それでもどうすることもできないとなゆみへの思いをできる限り閉じ込める。
「いいか、川野主任に気をつけて、あっ、いや、その、言うことをよく聞いていつも通りに頑張ってきなさい」
 滅多に笑う事のない氷室が、餞にニコッと微笑んだ。
「はい!」
 その氷室の笑顔に元気が出ると共に、なゆみは少しだけドキッとしてしまった。
 
 支店は、歩いて十分もかからないような場所にあった。
 本店と違ってとても小さなスペースを利用した、キオスクのようなイメージがした。
 それでも普通の家の一部屋くらいあるが、商売をするには狭苦しい。
 小さなスペースの中では、置ける商品も限られ、品数も少ないが、外に面しているためにひっきりなしに人の出入りが激しかった。
 外気もそのまま入ってくるために、まだこの季節少し足元が寒く感じた。
 ショーケースが置いてある付近に立てば、その前の通りを常に人が行き交い、気忙しい気分にさせられた。
「斉藤、よく来たな。それじゃ今日は頼むぞ」
「はい。宜しくお願いします」
 川野は常にニヤニヤとした笑みを浮かべている。
 そういう顔つきなんだろう。
 まだよく知らないので、なゆみは深く考えることはなかった。
 倉石千恵が、笑顔で迎えてくれたお陰で気持ちがなごんでリラックスできた。
 一度席を共にしてお酒を飲んでいるだけに、すんなりと溶け込めた。
 千恵は穏やかで面倒見も良く、丁寧に教えてくれる。
 初めて会った時のミナや紀子と違って、緊張せずに、千恵には無条件で心許せるものがあった。
 千恵も、ミナと同じように「サイトちゃん」と親しみこめて呼んでくれた事も嬉しかった。
 早速お客が現れ、一気に店の周りが人だかりになり、慌ただしくなっていく。
 小さな店舗だと舐めていたら、それ以上のしっぺ返しが来たように、目まぐるしく忙しくなった。
 まだそんなに慣れてるわけでもないので、なゆみは、ひっきりなしに現れる客と格闘していた。
 少し焦って落ち着かないでいると、川野が言葉をかけてきた。
「斉藤、もう少し落ち着け。それから、商品が乱れたところは常に正す」
「はい。すみません」
 暫くするとまた同じ事を言われた。
 それだけではなかった。
 ことあることに、何でも言葉を挟んで注意してくる。
 川野は恐ろしくネチネチしていた。
 これでは冷たい氷室の方がまだ放っておいてくれるだけ、ましだと思った。
 あのにやけた顔の裏には、しつこいネチネチさが隠れていたとは、なんだか気分が滅入ってくる。
 小さいおっさんなのに、存在は大きく鬱陶しい。
 笑みを常に浮かべたにやけた顔も、優しさじゃなく嫌味に見えてきた。
 川野が休憩を取って出かけた時、なゆみは千恵に耳打ちした。
「千恵ちゃんはずっと川野さんとここで働いてるけど、偉いね」
「えっ、そうかな。慣れてくるよ。サイトちゃんはまだ初めてだからびっくりだろうけど。実はさ、氷室さんと川野さんって仲が悪いんだよね。でも氷室さん専務の友達でしょ。だから川野さんは何も言えず我慢してるみたいだけどね。それでその分ここでネチネチとするわけ」
「そっかこの中でも色々とあるんだね」
「そうそう、巻き込まれないのが一番だから、なんかあってもあまり気にしない方がいいよ」
 にこやかに笑いながら会社のしがらみを教えてくれる千恵は、何事にも動じない落ち着きがあった。
 観音様のような慈悲深い微笑みに、なゆみは癒されていった。
 ほんわかとしていると、電話が鳴り、なゆみはすぐさま対応する。
「トレードチケットセンターです」
「本店の氷室です。お疲れ様です」
「あっ、どうもお疲れ様です」
 氷室とビジネスの会話とはいえ、声だけ聞くのは少しドッキリだった。
「どうだ、しっかりやってるか」
「は、はい。なんとか」
「そっか。それならいい。それだけだ」
「えっ、それだけのために電話ですか?」
「ああ、俺がいなければお前は羽を伸ばしそうだからな」
「そ、そんなことありません。川野さんにも思いっきり叱られてます」
「そっか、わかった。報告はまた後で聞く。じゃーな」
 電話が切れると、千恵がくすっと笑い出した。
「今の氷室さんからでしょ。なんだか氷室さん、えらくサイトちゃんがお気に入りみたいね」
「えっ? そんなことありません」
「そっかな。だって飲み会のとき、氷室さん、なんだかサイトちゃんのことばかり見てたように思ったんだけど」
「気のせいです」
 なゆみがむきになって否定すると、千恵は一層笑顔になった。
「安心して、そんなこと私誰にも言わないから」
「安心も何も、その、私が入り立てだから何かとイライラさせてるのかもしれません。私、それに氷室さんのこと苦手なんです……」
 ふと語尾が弱くなったような気がした。
 あれ? 苦手? 
 その割には面と向かっていろんなこと言ったような言わなかったような、そして思いっきり世話になってるような、迷惑かけてるような、なゆみはなんだか分からなくなってきた。
 あの冷たい態度の裏に時々優しい気遣いが見える。
 氷室に慣れてきている自分を感じていた。
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