第三章
9
季節は初夏を迎え、ゴールデンウィークも過ぎた頃だった。
紀子が結婚準備にとりかかるために辞めてしまい、新しくアルバイトが数名加わった。
入って来た女の子達は純貴好みで、容姿、スタイル共にいい。
一ヶ月過ぎると今度はなゆみが教える立場となっていた。
「たかが一ヶ月でえらっそうにするなよ」
氷室がすれ違いざまに言った。
なゆみは通り過ぎていく氷室の背中に向けて、舌を出してささやかな反抗をする。
氷室はお見通しだと、クククと少しだけ肩を震わせて笑っていた。
そんな時、純貴がなゆみを呼んだ。
「斉藤さん、ちょっと」
「はい、なんですか、専務」
なゆみはすぐさま、態度を正して駆け寄った。
「えーと、川野主任のリクエストもあって、斉藤さんに隣のビルの支店で働いてもらうことになりました」
「えっ、移動ですか?」
なゆみも突然のことにびっくりしたが、氷室もまた寝耳に水だった。
思わず問い質す。
「専務、川野主任のリクエストってどういうことだ」
「あっちもアルバイトが辞めちゃったから、少し慣れた子を回してくれって言われたんだ。アルバイトは新しく入ったばかりだし、ベテランの敷川さんが辞めて
しまって、うちに残ってるベテランは上野原さんだけでしょ。彼女には新人を教え込んでもらわないといけないので、うちから出せるのは斉藤さんしかいないん
だ」
氷室は川野の勝手なリクエストに露骨にむっとしてしまった。
なゆみは専務の命令なので、すぐさま受け入れた。
「はい、わかりました。いつから行けばいいですか」
「じゃあ、早速今から行ってくれるかい。こっちに置いてるタイムカードと荷物も一緒に持っていって下さい。これからずっと向こうって事になるので、こっちにはもう来なくてもいいですからね」
「はい。わかりました」
素直になゆみは従うも、氷室は受け入れられずに呆然としていた。
心の中は波立っていても、感情に表さないように必死で抑えている。
働く会社は一緒でも場所が違う。
距離的にすればそんなに遠くないのに、毎日顔を合わせられない。
氷室はどうすることもできず、自分の椅子にどしりと腰を下ろして、仕事に取り掛かった。
コンピューター画面を睨みながら、キーボードを叩く指先に力が入っていた。
なゆみもショックが強く、気持ちが沈んでいた。
「サイトちゃん、向こうにいっちゃうのか。寂しくなるな」
ミナが側に寄ってきて残念がった。
「でも時々何かあるときは誘って下さいね」
「うん、絶対誘う」
なゆみは控え室に入って自分の荷物を持ち出した。
このロッカーももう使う事はない。
ラックから自分のタイムカードを取り出せば、氷室のカードも視界に入り込んだ。
これからは氷室と会えなくなる。
折角慣れてきたところで、それを断ち切られるように思え、寂しさがこみ上げた。
控え室からでると、氷室を真っ先に見たが、氷室は背中を向けたまま振り返ることもなくデスクに座って黙々と仕事をこなしている。
なゆみは振り切るように「いってきます」とミナ達に声を掛け、一礼してから本店を去っていった。
氷室は一層ふてくされ、キーボードを叩く力が強くなっていた。
余計なことをリクエストした川野を恨んでいた。
そんなことも知らず川野はなゆみを歓迎する。
「おー、早速斉藤が来てくれたか」
川野のにやけた顔からネチネチと粘っこい糸が見えるようだった。
「サイトちゃんが来てくれて嬉しい」
千恵はやっぱり優しく迎えてくれた。
「またお世話になります。どうぞ宜しくお願いします」
「はいはいはい、こっちこそ宜しく」
川野がなれなれしくなゆみの肩に触れた。
氷室が触れたときと違って悪寒が走った。
持っていた荷物を控室のロッカーに入れ込むが、これがまた小さくて家のトイレの中に篭っているようだった。
そこにごちゃごちゃと色々なものが置いてあり、これからここで着替えて休憩するのかと思うと、息苦しくなる。
自分のタイムカードを壁に掛けてあったラックに置いた。
もうあっちには戻れないんだと思うと、なんだか寂しかった。
8月末までの契約だが、あと約三ヶ月。
もう氷室と会うことがないのだろうかとぼんやりと考えていた。