第四章
5
氷室も自分らしからぬとはわかっていたが、潔く素直になってみたかった。
王子様が捕らわれた姫を助けたように、自分がなゆみの役に立ったことに満足だった。
「とにかく終わったな。もう何も考えるな。今日は帰って風呂入って早く寝ろ。そしたら全て忘れるさ」
「はい。そうします。だけど氷室さん……」
「なんだよ」
なゆみはもじもじとしてしまう。
このままお礼として食事に誘うべきなのか迷う中、氷室を自分から誘いにくい。
「あの、そのお礼なんですけど」
「だから、もういいっていってるだろう。さっさと忘れろ。これもお互いのためだ」
「えっ、お互いのため?」
氷室はフィアンセのフリをしたことを今頃になって恥ずかしがってしまった。
いい大人が、芝居とはいえ、堂々となゆみの手を掴んでしまった事も臭い演出だったと今更気が付いてしまった。
「俺、ちょっと急いでるから、今日は帰るな、それじゃまたな」
体の奥からムズムズとして、氷室はなゆみの顔がまともにみられなくなった。
それほど、恥ずかしさに震えてしまった。
「氷室さん!」
暗闇の中、氷室は人ゴミの中に溶け込んでいった。
一人になった時、急に喪失感に襲われた。
しっかりと握っていた氷室の大きな掌がまた恋しくなる気分だった。
一方で氷室はにやけながら余韻を感じて、家路についていた。
助けたい一心で、咄嗟の演技をしてしまったが、思い出すと自分のかわいらしさに笑ってしまう。
はしゃぎたくなるような、胸のトキメキが年を忘れさせてしまった。
自分が高校生だった時でさえ、こんな純粋な恋は味わった事はなかった。
まるで今が青春を味わうように、氷室は心ウキウキとしていた。
ドラマティックな救出劇がなされても、急激に二人の距離が縮まったわけでもなかった。
職場は同じでも、会う機会は滅多になかった。
電話で話すことがあるが、それはビジネス会話で終わってしまう。
何もないまま、時間だけが過ぎていった。
あれだけの事をしてもらって、ちゃんとしたお礼をしてないことをなゆみは非常に気にしていた。
手作りクッキーを作ってみたものの、そんなもので済ましていいものかと、躊躇ってしまい渡しそびれていた。
結局クッキーはリュックに入ったままとなり、それを肩に担いで、なゆみは英会話学校へ向かった。
ラウンジで知っている仲間が楽しそうに話している輪に入り、持っていても仕方がないとそこでクッキーを皆に差し出した。
「うぉ、キティ、すごいな」
「サンキュー」
「いっただきー」
それぞれ皆喜んで食べてくれた。
そこにジンジャが遅れて輪の中に入って来た。
「よっ、タフク」
「あっ、ジンジャ」
そういえばあれからジンジャは何を言いたかったのか、うやむやになったままだった。
宗教に気を取られすぎてすっかりジンジャの事を忘れていた。
宗教だけじゃなく、氷室の事も絡んでいたと思うと、目の前のジンジャをまともにみられなくなってしまった。
そのジンジャが、なゆみの作ったクッキーを一つ手に取った。
「これタフクが作ったのか。俺もいただきー」
「あっ、そ、それは」
「ん? どうした。心配するな。とても美味いよ。ちゃんと猫の形もあるなんてお前らしいよな」
なゆみは複雑だった。
氷室の事を思って作ったクッキーをジンジャが何も知らずに食べてしまった。
恐ろしく罪悪感が芽生えてしまった。
ジンジャのことを決して嫌いになった訳じゃない。
ジンジャとは軽快なやり取りで楽しく会話が弾むし、ジンジャがちょっかいを出してきたらそれなりに喜んで相手するが、そのときの瞬間はノリもいいしとにかく楽しい。
でもそれがいつか終わりが来ると自分の中で決め付けてしまっていた。
『今は思いっきり楽しめ』と与えられたような状況。
昔は夢中でそれを追い求めていたけど、いつのまにか一歩下がって冷静に見られるようになっていた。
そうなったのも、他にも理由がある訳だが──。
レッスンが終わった後、その日一緒だったクラスの皆と固まって歩いていた。
ジンジャがなゆみと肩を並べ、皆より少し遅れた歩調で歩き出すと、自然と皆と距離ができていた。
「タフク、なんか落ち着いてる感じがする。あんなにふらふらしてたのに」
「最後のあんなにふらふらしてたのには蛇足じゃ!」
「ハハハハ、タフクは弄られる性質なんだよ」
なゆみも合わせて笑っていた。
「なあ、今度映画でもいかないか。あまり二人でどっか行くってことなかったな」
「えっ? ジンジャと私が映画に?」
「嫌か?」
「ううん、もちろん嫌な訳ないじゃない」
「ちょうど見たい映画があるんだ。坂井と一緒に行っても男同士じゃ面白くないし、たまにはタフクと二人でいくのもいいかなって思って」
「私も見かけは少年っぽいぞ」
「そっかな、充分俺にはかわいい女の子に見えるけどな」
「えっ? い、いやだ、いつもそこは突っ込んでからかうのに、なんかジンジャらしくない」
「俺らしくないか。俺ってタフクからしたらどんな目で見られてるんだろう」
「どんなって、そりゃかっこよくて、優しくて、えっと、それからえっと……」
「なんだよそれ、褒められて嬉しいけどあんまり俺の中身とか分かってないじゃないか」
なゆみはジンジャについてあまり多くを語れないことに気が付いてしまった。
「ほら、タフクの上司のなんていったっけ、あの冷血漢。アイツのことならタフクはまだ知り合って間もなかった頃に一杯あれやこれやって言ってたよな」
「それって悪口だったじゃない」
「でもその後、奴のことはどんな風に見える?」
「えっ、氷室さんのこと? あの人は……」
なゆみは言いかけたが、その後は心の中で答えていた。
(冷静で、物事を一歩下がって見られて、きつい言い方するけど、その人のために言葉選んでいつも的確で、それから冷たいけども困ったときは力を貸してくれ
て、そして危険を冒してでも助けてくれる。それから、ちょっと怖くみえるけど本当は隠れて優しくて、頭もよくて、才能があって、それからそれからとても頼
れる)
なゆみは黙り込んでしまった。
「どうした。やっぱりまだ失礼な奴なのか」
「ううん、もう離れてしまってあんまり会わないから、わかんないや」
誤魔化してしまった。
「そっか、苦手だっていってたから、離れられてよかったな。実はさ、もう映画のチケット買ったんだ。タフクの店で。その氷室って言う人が接客してくれたよ」
「えっ、氷室さんが……」
「そしたらアイツ、”斉藤と行くのか”なんて客の俺に聞くんだぜ。”もちろん”って答えたけどな」
「えっ? 氷室さんと喋ったの?」
「ああ、相変わらず失礼な感じがしたよ。まあ、あいつの事はどうでもいいけどさ、映画いつ行く? 今週の土曜日、仕事終わってから行こうか?」
「えっ、う、うん、オッケー」
その後、駅で手を振りながらジンジャと別れた。
どっと疲れたようで、階段を上る足がだるかった。
7月に入った夏の夜、もわっとした暑さが残る気温の中、湿気を沢山吸い取ってしまったように足が鉛のように感じた。