第四章
6
そしてジンジャと約束したその土曜日。
珍しくなゆみは、フレアワンピースを着て出勤してきた。
ショートカットでも女らしく見えるように、カチューシャでアクセントをつけてみた。
素材は悪くないので、少しおしゃれをするだけで、清楚な凛としたかわいらしさが出ていた。
バッグもいつものリュックサックではなかった。
持ち物さえも変えて、自分らしさがすっかり消えてしまった。
なゆみは基本、動きやすいということでジーンズやショートパンツが多い。
髪が短いのも、母親が美容師だから、ついついお気軽に切ってもらえ、気が付いたら切り過ぎて短くなっていた。
普段から無頓着ではあるが、この日はあれこれ考えて気がついたら普段着ないものを着ていた。
ジンジャと二人っきりで出かけることなど考えたこともなかったし、まさか映画に誘われるとも思わなかった。
ユカリの事も、仲たがいしたことも、うやむやのままで、事が進んでいくのに正直納得がいかないでいる。
出勤後、千恵も川野もなゆみの服装を見て、いつもと違うと言ったが、例えそれが良いと褒められても、なゆみはあまり嬉しくなかった。
制服に着替えると少しだけほっとしていた。
こっちの服の方が自分に似合ってないというのに。
土曜日は5時で終わるため、通常より時間の経つのが早く感じる。
客の入り具合も穏やかで、のんびりした雰囲気に包まれた。
ちょうど川野が休憩を取って席を離れると、なゆみと千恵は羽を伸ばしてリラックスモードに入っていた。
ショーケースの商品を整え、適当に暇を弄んでいると電話がなった。
つい意識して、音の鳴る方を見つめてしまった。
千恵が受け答えし、話の感じから本店に居るミナだとわかった。
氷室ではなかったと思った時、肩の力が抜けていた。
千恵が送話器の部分を手で押さえ、なゆみに話しかけた。
「サイトちゃん、今日、紀子ちゃんが夕方からこっちに出てくるんだって、それでミナちゃんが、仕事終わったら皆でご飯食べに行こうって。ほら駅前のホテル
の中にある、できたばっかりのフレンチレストラン。ミナちゃん割引券持ってるんだって、それが今日までらしいから、みんなで一緒に行かないかって」
「あっ、ご、ごめんなさい。今日予定が入ってるんです」
「そっか急だもんね」
千恵は送話器から手を離し、またミナと話をしてから電話を置いた。
「サイトちゃん、折角だから、仕事終わったら本店寄って、少しだけでも紀子ちゃんに顔を見せてあげてだって。次いつ会えるかわからないからね。それぐらいの時間だったらある?」
「うん。それなら大丈夫。だけど残念だな。あそこのレストラン、今話題になってるよね。高いけどすごく美味しいって、雑誌なんかでも紹介されてるの良く見かける」
「うん。私もすごく気になってたレストランだった。一度行ってみたかったんだ。だけど、サイトちゃん、今日は珍しくかわいらしいスカートの服だったよね。
一体どこに行くの? もしかしてデート?」
「えっ、いえ、その、友達と映画に」
「そっか、友達と映画か……」
千恵はそれ以上聞かなかったが、目だけは何か言いたそうにしていた。
『デート』
この言葉の響きがなゆみには重くのしかかる。
ジンジャとデート?
そう言い切ることに違和感を抱いてしまう。
何かが噛み合わず、しっくりとこない。
しかしおしゃれをしてきた時点で、矛盾を感じてしまった。
服装を気にして会うこと自体がデートを意識しているからじゃないのだろうか。
なゆみはデートの定義がよくわからないでいた。
仕事が終わって、千恵と狭い控室で着替えていると、千恵は自分の化粧品を取り出した。
「サイトちゃん、折角かわいい服着てるからさ、ちょっとお化粧してみない?」
「えっ?」
「いいからいいから、私に任せて。すぐに済むから」
千恵に言われるまま、なゆみは顔に色々と塗られていた。
ソフトに肌を塗られるブラシがなんだかくすぐったい。
千恵は慣れた手つきで、色々と施してくれた。
壁に貼り付けてあった鏡を見れば、いつもより目元がくっきりしてメリハリができていた。
「ナチュラルメイクにしたんだけど、元の素材がいいから、ちょっと色づけるだけで、かわいさが引き立ったよ」
「ありがとう、千恵ちゃん」
控室から出れば、川野がすぐさま反応し、また「誰とホテルにいくんだ」と言ってきた。
まともに相手するのも面倒くさくて、適当にあしらって、そそくさと店を出てきた。
千恵が気を遣って慰めてくれる。
「川野さんも相変わらずだからね。だけど、ああいう事言うのサイトちゃんにだけなんだよね。裏を返せば気に入っているんだろうけど、表現が露骨だからね」
「仕方がないです、あの人は」
二人して笑うしかなかった。
千恵と肩を並べて、他愛のない話をしながらなゆみは本店に向かって歩いていた。
なゆみが氷室の事を気にしていると、千恵がそれを口にした。
「氷室さんが、今日のサイトちゃんを見たらなんて思うだろうね」
「別に何も思いませんって。でも嫌味で『馬子にも衣装』なんていうかもしれません。あの人捻くれてるから」
「そうかな、氷室さん最近丸くなった感じがする。あの川野さんまでもが、そう言うくらいだからかなり変わったみたい」
「そ、そう?」
無関心を装ってみたが、氷室の噂話にはドキッとする。
「サイトちゃんが来てから氷室さんなんか変わったように私も思う」
「気のせいじゃないですか」
「さあ、実際のところどうだろうね……」
千恵の言い方には何か含みがあるようだった。
氷室が変わった──
それはなゆみが一番最初に気がついたことだった。
何か言えば、きつい言葉しか返ってこなかったし、気に障ることがあれば態度に出て、力づくでもねじ伏せようとする無茶な人だった。
押し倒されたり、ホテルに無理やり連れて行かれたり、体を張ってそれはなゆみも体験している。
しかし、それが氷室の心の奥底と関係していて、決して本心からではなかったのは疾うに気がついていた。
その殻がやっと破られて、本来の氷室の姿が現れてきている。
なゆみだけが知っていた氷室の本当の姿が他の皆も気がつき始めた。
どこか自分から何かを奪われるような感覚を感じてしまい、一抹の寂しさが出てくる。
何も自分の物でもないのに。
足元を見れば、スカートの裾がヒラヒラしていた。
スース―と風が抜け、心の中までも通り抜けたように思えた。
本店のシャッターの前で紀子が待っていた。
「サイトちゃん。久しぶり。どうしたの、その格好。化粧までして、なんだかサイトちゃんじゃないみたい」
「えっ、そうですか。いや、でもお久しぶりです。折角来て下さったのに一緒に行けなくてごめんなさい」
「いいよいいよ、こうやって会えたし。そんな姿のサイトちゃん見られてなんかいいことが起こりそうな気がする。すっごいかわいい」
紀子は同意を求めるように千恵の顔を見れば、千恵も笑いながら頷いていた。
「そ、そんなにいいですか?」
その時、ミナもシャッターを潜って出てきた。
「ひや〜、サイトちゃんどうしたの、その格好。女の子してるじゃない」
「もう、そんなに驚かないで下さい。私だってスカートくらいもってますよ」
皆でがやがや喋ってると、美穂と奈津子とその他のアルバイト、そして純貴と最後に氷室もシャッターをくぐって出てきた。
「どうもお疲れ様です」
なゆみと千恵は条件反射で挨拶をする。
「おお、斉藤さん。なんか今日はいつもと違うね。すごくかわいいよ。結構イケるじゃないの」
まじまじとなめまわすように純貴は見ていた。
氷室は、目を伏せ気味にぼそっと呟いた。
「馬子にも衣装か」
予期した通りの反応に、なゆみは思わず千恵と顔を合わせていた。
氷室は背中を向け、シャッターを下げて鍵を閉めていた。
ほんの少し会わなかっただけで、また氷室を遠くに感じてしまう。
助けてもらった時は、手まで繋いで心が通いあったというのに。
いくら忘れろと言われたとは言え、完全になかった事になって、以前の氷室に戻ってしまう程、優しく変わった部分までが抜けている。
またそのギャップが激しい。
碌にお礼をしなかったことがやっぱり悪かったのだろうか。
目も合わせない氷室が、怒っているように見え、なゆみは動揺してしまった。
「サイトちゃん、急いでるんだったらもういいよ。来てくれてありがとうね」
紀子が勘違いして、なゆみはそれに流されてしまう。
「ご、ごめんなさい。それじゃ、紀子ちゃんまた今度ゆっくり会おうね。それじゃみなさんお先に失礼します」
みんながなゆみと挨拶を交わしているどさくさに紛れて、氷室の声が聞こえた。
「映画楽しんでこいよ」
なゆみはどきっとし、振り返って氷室を見ると、氷室はすでに背中を向けて一人歩いていた。
その姿に居た堪れなくなって、振り切るようにその場を去った。